各時代の大争闘

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キリストの戴冠式

今、キリストは、再び敵から見えるところに姿をあらわされる。聖都の上はるか高く、光り輝く純金の基の上にみ座がある。そのみ座の上に神のみ子が座し、そのまわりを神のみ国の民が囲んでいる。キリストの力と威光は、言葉や文字で描写することができない。永遠にいます父なる神の栄光が、み子を覆っている。その臨在の輝きは聖都に満ち、門の外にあふれ、さらにまた全地にあふれている。 GCJap 770.2

み座の一番近くには、かつてサタンの業に熱心であったが、火の中からの燃えさしのように取り出されて、深い熱心な信仰をもって救い主に従ってきた者たちがいる。その次には、虚偽と不信仰のただ中にあってキリスト者の品性を完成した者たち、キリスト教界が神の律法は無効であると宣言した時にも律法を尊重した人たち、さらに、各時代にわたり、信仰のために殉教した無数の人たちがいる。そしてその向こうには、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に」立っている(黙示録7章9節)。彼らの戦いは終わり、彼らの勝利は獲得された。彼らは走るべき行程を走り、ほうびをもらった。彼らの手にあるしゅろの葉は勝利の象徴であり、白い衣は、今は彼らのものとなっているキリストの汚れなき義を示している。 GCJap 770.3

贖われた者たちは、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」と賛美の歌声をあげるが、それは大空に反響を繰り返す(黙示録7章10節)。天使とセラピムとは声を合わせて賛美する。贖われた者たちは、サタンの力と悪意を見たとき、キリストの力以外のどんなものも彼らを勝利者にすることはできなかったことを、これまでになかったほど知った。輝く大群衆の中には、だれ一人、自分自身の力と善行で勝利したかのように救いを自分の手柄にする者はいない。自分のしたことや苦しんだことについては一言もふれないで、どの歌の主旨もどの賛美の基調音も、「救いはわれらの神と、小羊のものである」というのである。 GCJap 771.1

天と地の全住民が集合している前で、神のみ子の最終的な戴冠式が行われる。そして今や、王の王なるイエスは、最高の威厳と力とをもって、神の政府に反逆した者に宣告をくだし、神の律法を犯し、またその民を迫害した者たちにさばきを執行される。このことについて神の預言者はこう言っている。「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」(黙示録20章11、12節)。 GCJap 771.2