各時代の大争闘

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準備するのは今

「かつてなかったほどの悩みの時」が、まもなくわれわれの前に展開する。それだからわれわれには、一つの経験―─今われわれが持っておらず、また多くの者が怠けて持とうとしない経験―─が必要なのである。現実の困難というものは、予想したほどではないということがしばしばある。しかし、われわれの前にある危機の場合は、そうではない。どんなに生々しく描写しても、この試練の激しさには、とうてい及ばない。この試練の時に、人間は、みな、自分で神の前に立たなければならない。「主なる神は言われる、わたしは生きている、たといノア、ダニエル、ヨブがそこにいても、彼らはそのむすこ娘を救うことができない。ただその義によって自分の命を救いうるのみである」(エゼキエル書14章20節)。 GCJap 721.1

今、われわれの大祭司がわれわれのために贖いをしておられる間に、われわれは、キリストにあって完全になることを求めなければならない。救い主は、その思いにおいてさえ、誘惑の力に屈服されなかった。サタンは、人々の心の中に、なんらかの足場を見つける。心の中に罪の欲望があると、サタンはそれを用いて誘惑の力をあらわす。しかし、キリストはご自身について、「この世の君が来る……。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」と宣言された(ヨハネ14章30節)。サタンは、神の子の中に、彼に勝利を得させるなんのすきも見つけることができなかった。神のみ子は、天父の戒めを守られた。そして、サタンが自分に有利に活用することのできる罪が、彼の中にはなかった。これが、悩みの時を耐えぬく人々のうちになければならない状態なのである。 GCJap 721.2

われわれが、キリストの贖罪の血を信じることによって、罪を捨て去らなければならないのは、現世においてである。われわれの尊い救い主は、われわれが彼と結合して、われわれの弱さを彼の力に、われわれの無知を彼の知恵に、われわれの無価値さを彼の功績に結びつけるよう招いておられる。神の摂理は、われわれがイエスの柔和と謙遜を学ぶ学校である。主はわれわれの前に、われわれが選ぶ安易で楽しく思われる道ではなくて、人生の真の目的を、常に置かれる。われわれの品性を天の型に形造るために神が用いられる手段に、われわれは協力しなければならない。このことを怠ったり、遅らせたりする者は、必ず魂を最も恐ろしい危険にさらすことになるのである。 GCJap 722.1