各時代の大争闘

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正しい道標のもとに

サタンが人間の影響力を通してとりこを縛りつけようと働く方法は、たくさんある。サタンは、愛情という絹ひもで、多くの人々をキリストの十字架の反対者たちに結びつけることによって、彼らを自分の側に確保する。この愛着が親子の間であろうと、夫婦の間であろうと、社交的なものであろうと、結果は同じである。真理の反対者たちが良心を支配しようと影響力を及ぼすので、彼らの支配下に捕らえられている魂は、義務に関する自分自身の確信に従うだけの勇気や独立心を持っていない。 GCJap 693.2

真理と神の栄光とは、切り離すことができない。われわれは、手近に聖書を持っていながら、誤った見解をもって神をあがめることはできない。多くの人々は、生活さえ正しければ、何を信じているかは問題ではないと主張する。しかし生活は信仰によって形造られる。光と真理が手近にありながら、それを聞き、それを見る特権を利用するのを怠るなら、われわれは事実上それを拒絶し、光よりも闇を選んでいることになる。 GCJap 693.3

「人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある」(箴言16章25節)。神のみこころを知るあらゆる機会がある時に、知らないということは誤謬や罪の言いわけにならない。人は旅をしていて、それぞれの行く先を示す道標のある別れ道にさしかかる。もし彼が道標を無視して、自分に正しいと見える道を選ぶなら、彼がどんなにまじめであっても、自分が間違った道を歩いていることにおそらく気づくであろう。 GCJap 694.1

神は、われわれが神の教えに通じ、神が求めておられることを自分で知ることができるようにと、み言葉をわれわれにお与えになっている。律法学者がイエスのところに来て、「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と尋ねた。救い主は聖書を引用しながら、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」と言われた。知らなかったということは、若い者にも年寄りにも言いわけにはならないし、また神の律法を犯した当然の刑罰から免れさせるものでもない。なぜなら彼らは、律法とその原則、その要求について忠実に書いているものを、手に持っているからである。正しい意図があったというだけでは足りない。人は自分が正しいと思うことや牧師が正しいと言うことをするだけでは不十分である。自分の魂の救いにかかわる問題である以上、人は自分で聖書を探究しなければならない。彼の確信がどんなに強くても、牧師は何が真理かを知っているといくら彼が信頼していても、それは彼の土台とはならない。彼は天への旅路におけるすべての道標を示す地図を持っているのであるから、何事も臆測によるべきではない。 GCJap 694.2