各時代の大争闘
聖書の学びかた
聖書から真理を学び、その光に歩み、そして他人にも自分の模範に従うように励ますことは、すべて理性のある者の第一にして最高の義務である。われわれは日々熱心に聖書を研究し、すべての思想を熟考し、聖句と聖句を対照すべきである。われわれは神の前で自分で答えるのであるから、神の助けによって自分で自分の考えを定めなければならない。 GCJap 694.3
聖書の中に最も明白に示されている真理が、学者たちによって疑いと暗黒に包まれてきた。彼らは、偉大な知恵を持っているように見せかけながら、聖書にはそこに用いられている言葉にあらわれていない神秘的で霊的な隠れた意味があると教える。これらの人々は偽教師である。イエスが「あなたがた……は、聖書も神の力も知らないからではないか」と言われたのは、こういう種類の人々に向かってであった(マルコ12章24節)。聖書の言葉は、象徴や比喩が用いられていないかぎり、その明瞭な意味に従って解釈されるべきである。キリストは「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が……わかるであろう」と約束された(ヨハネ7章17節)。もし人々が、聖書をその書いてあるとおりに受け取りさえすれば、もし人々を誤らせ、その心を混乱させるような偽教師がいないならば、現在誤謬の中に迷っている幾千もの人々をキリストの囲いの中に導き、天使たちを喜ばせるような働きが成し遂げられるであろう。 GCJap 695.1
われわれは聖書の研究に知能の全力を注ぎ、人間として及ぶかぎり、神の深い事柄を悟るために理解力を働かせねばならない。しかし幼な子のような従順と服従が、学ぶ者の真の精神であることを忘れてはならない。聖書の難解なところは、哲学上の問題を把握するのに用いるのと同じ方法では決して解決されない。多くの人々が科学の領域に入る時にいだいているような、自分を頼みとする心をもって聖書の研究にたずさわるべきではなく、祈りのうちに神により頼む思いと、みこころを知りたいというまじめな願いをもってなすべきである。「わたしは有る」という偉大なお方から知識を得るために、謙遜で素直な精神をもってみもとに行かねばならない。そうでないと、悪天使たちはわれわれが真理から感銘を受けないように、われわれの頭をくもらせ、心をかたくなにする。 GCJap 695.2
聖書の中で、学者たちが不可解であると断言し、また重要でないものとして見逃している多くの部分は、キリストの学校で教えられた者にとっては慰めと教訓に満ちている。多くの神学者が神のみ言葉について明快な理解を持っていない一つの理由は、彼らが自分の実行したくない真理に対しては目を閉じてしまうからである。聖書の真理に対する理解は、研究に払われる知力によるよりは、むしろ誠実な意図と、義を熱心に追い求める心とにかかっているのである。 GCJap 696.1