各時代の大争闘
統治に不可欠なもの
キリスト教界で受け入れられている誤謬ほど、天の神の権威に大胆に打撃を与えるものはなく、また、神の律法はもはや人間を拘束しないという、急速に力を増しつつある近代的教理ほど、理性の命令に真っ向から反しており、結果の有害なものはない。どの国もみな法律があって、これを尊重しこれに服従することが要求される。法律がなければ政府は存在することができない。天地の創造主に、自ら造られた被造物を治める律法がないなどということが、想像できるであろうか。国を統治し、市民の権利を擁護する法律に、従う義務がないとか、法律は人民の自由を制限するからそれに従う必要はないなどと、かりに著名な牧師たちが、公然と教えるとしたらどうだろう。このような人たちはいつまで講壇に立つことを許されるだろうか。しかし州や国家の法律を無視することは、あらゆる政府の基礎であるこれらの聖なる戒めを踏みにじるよりも重い罪科であろうか。 GCJap 677.1
国々がその法律を廃し、人民の好き勝手にさせるということはあり得ないが、まして、宇宙の支配者なる神が、その戒めを無効にし、不義な者を罪に定め、従う者を義とする規準なしにこの世を放置されるなどということは、考えられもしないことである。神の律法を無にした結果を知りたいだろうか。その実験は試みられた。フランスにおいて、無神論が支配的な勢力となった時に演じられた光景は、恐るべきものであった。神が課せられた拘束を投げ捨てることは、最も残酷な暴君サタンの支配を受け入れることであるということが、そのとき世界に証明された。義の標準が廃される時に、悪の君がこの地上に権力を打ち立てる道が開かれる。 GCJap 677.2
神の戒めが拒絶されるところではどこでも、罪がもはや忌まわしく思えなくなり、義は慕わしいものではなくなる。神の統治に服従することを拒む者は、自らを治めるのに全く不適当な者となる。彼らの有害な教えを通して、不従順の精神が、もともと支配されることを喜ばない子供や青年たちの心に植え付けられ、無法で放縦な社会が生じる。多くの人々は、神のご要求に従う人たちの信心深さを嘲笑しながら、サタンの惑わしを熱心に受け入れる。彼らは欲情をほしいままにし、かつて異教徒たちの上にさばきを招いた罪にふける。 GCJap 678.1