各時代の大争闘
第36章—差し迫った戦い
サタンの目的は何か
天における大争闘のその最初から、神の律法を覆すことがサタンの目的であった。彼が創造主に対する反逆を始めたのは、この目的を達成するためであった。そしてサタンは、天から追放されたけれども、この地上で同じ戦いを続けてきた。人を欺き、それによって神の律法を犯すようにさせることこそ、サタンが着々と追い求めてきた目的である。このことは、律法全体を廃することによって成し遂げられても、あるいはまた、戒めの一つを拒むことによって成し遂げられても、最終的な結果は同じである。「その一つの点」でも犯す者は、律法全体に対する軽蔑をあらわすのであり、その影響と手本は罪に味方するものであって、「全体を犯したことになる」のである(ヤコブ2章10節)。 GCJap 675.1
神の戒めを軽蔑するために、サタンは聖書の教えを曲解し、そうすることによって、聖書を信ずると告白する幾千もの人たちの信仰に誤謬を混ぜてきた。真理と誤謬の最後の大争闘は、長い間続いてきた神の律法に関する論争の最後の戦いに他ならない。われわれは今や、この戦い、すなわち、人のおきてと主の戒めとの間の、また、聖書の宗教と作り話や言い伝えの宗教との間の、戦いに入っているのである。 GCJap 675.2
この戦いにおいて真理と正義に対抗して結束する勢力が、今活発に働いている。苦難と血の大きな犠牲を払ってわれわれに伝えられてきた聖なる神のみ言葉は、ほとんど尊重されていない。聖書はどんな人の手にも入るが、それを真に人生の道しるべとして受け入れる人は少ない。不信仰は単に世の中ばかりでなく、教会内にも驚くほど広くゆきわたっている。多くの人は、キリスト教信仰の支柱そのものになっている教理を否定するようにさえなっている。 GCJap 676.1
霊感を受けた記者たちによって書かれている、創造の偉大な事実、人類の堕落、贖い、神の律法の永遠性などの大真理が、自称キリスト教界の大部分の人たちによって、全体的に、あるいは部分的に受け入れられなくなっている。知恵と自主性を誇る幾千もの人々が、聖書に絶対的信頼を置くことを弱さの証拠と考え、聖書の揚げ足を取ったり、最も重要な真理を抽象化したり言い抜けたりすることを、優れた才能や学識の証拠だと思っている。神の律法が変更されたとか廃されたとかいうことを、信者たちに教えている牧師や、学生たちに教えている教授、教師が多い。そして、律法の要求がなお有効であり、字義通りに従わなければならないものであるとみなす人々は、嘲笑と侮蔑にしか値しないと思われている。 GCJap 676.2
人々は真理を否定することによって、その著者であられる神を否定している。彼らは神の律法を踏みつけることによって、律法の制定者であられる神の権威を否定している。偽りの教理や理論という偶像を刻むことは、木や石の偶像を刻むのと同じに容易である。サタンは、神の属性を誤り伝えることによって、人々に神についての誤った品性を想像させるのである。多くの人々にとって、主の代わりに哲学的偶像が王位を占めている。一方、み言葉の中に、キリストの中に、そして創造のみ業の中に啓示されている生ける神を礼拝する人は、少数にすぎない。幾千もの人々は、自然を神格化していながら、自然の神を否定している。形こそ違うが、偶像崇拝は、今日のキリスト教界にも、古代イスラエルのエリヤの時代にあったのと同じように存在している。自ら賢人と称する多くの人々、哲学者、詩人、政治家、ジャーナリストたちの神、洗練された上流社会、多くの大学、はては幾つかの神学校などの神も、フェニキヤの太陽神バアルとほとんど変わるところがない。 GCJap 676.3