各時代の大争闘
カトリックの欺瞞的魅力
多くのプロテスタントは、カトリックの宗教は魅力がなく、その礼拝は退屈で、無意味な儀式の繰り返しであると思っている。この点彼らは間違っている。ローマ・カトリック教は、偽りに基づいているとはいえ、粗野で見苦しい欺瞞ではない。カトリック教会の礼拝は、きわめて印象的な儀式である。その豪華で荘厳な儀式は、人々の感覚を魅了し、理性と良心の声を沈黙させるのである。目は魅せられる。壮麗な教会堂、堂々たる行列、金色の祭壇、宝石をちりばめた聖遺物の箱、えりぬきの絵画、そして、精巧な彫刻などが、美を愛する心を魅了する。耳もまた恍惚とさせられる。その音楽は絶妙無比である。オルガンの豊かな音色が、聖歌隊の多くの歌声と相和して、大聖堂の高い円天井と円柱の立ち並ぶ通廊に響き渡り、人々の心に畏敬と尊崇の念を起こさずにはいないのである。 GCJap 656.1
こうした外見上の壮麗さと虚飾と儀式は、罪に悩む魂の渇望を満たすように見せかけるものにすぎず、内面の腐敗を示すものである。キリストの宗教は、人々の受けをよくするためのそういった呼びものを必要としない。真のキリスト教は、十字架から輝く光に照らされて、実に純潔で美しく見えるので、その真価を高めるためのなんの外面的装飾も必要ではないのである。神が価値を認められるのは、聖潔の美であり、柔和でおだやかな精神の美である。 GCJap 656.2
すぐれた文体は、必ずしも純粋で高尚な思想を示すものではない。芸術上の高尚な観念、微妙に洗練された趣味は、現世的で肉欲的な心の中にもよくある。これらはしばしばサタンに用いられて、人々に、魂の必要を忘れさせ、将来と永遠の生命を見失わせ、無限の援助者であられる神から離れさせ、現世のためだけに生きるようにさせるのである。 GCJap 656.3
形式的な宗教は、生まれ変わらない心にとって魅力がある。カトリック教会の礼拝の虚飾や儀式は、魅惑的な力を持っており、それによって多くの者が欺かれる。そして彼らはローマ教会を本当の天の門と見るようになる。その足を真理の土台の上に堅く置いて、その心を神のみ霊によって新たにする者でなければ、法王制の影響に耐えることはできない。キリストについての経験的知識を持っていない幾千の者は、力のない形だけの敬虔さを受け入れるようになる。そのような宗教こそ大衆が望むところのものなのである。 GCJap 657.1