各時代の大争闘
「神の代理者」
カトリック教会は罪を赦す権威があると主張しているために、信者たちは罪を犯してもかまわないと思うようになる。また、それなしには教会の赦しは与えられないという告解の儀式は、悪を承認するのにも役立っている。堕落した人間の前にひざまずき、心の中の隠れた思想や思いを打ち明けて告白する者は、自分の人格を汚し、その魂のあらゆる気高い性質を堕落させているのである。人間は、自分の生活の罪を司祭―─誤りがあり、罪深く、死すべき者で、しばしば酒と放蕩のために腐敗した人間―─に告白することによって、品性の標準は低下し、彼はそのために汚されるのである。神に関する彼の観念は、堕落した人間の姿に下落する。なぜなら、司祭が神の代理として立つからである。人間が人間に行うこの下劣な告白は、世界を汚して最後の破滅に陥れている罪悪の多くが流れ出た秘密の泉である。しかし、放縦を愛する者にとっては、心を神に開くよりは、同じ人間に告白するほうが好ましいのである。 GCJap 657.2
人間の性質として、罪を捨てるよりは苦行をするほうが、好みに合うのである。肉の欲を十字架につけるよりは、麻布といらくさと皮膚をすりむく鎖によって肉体を苦しめるほうが、やさしいのである。肉の心は、キリストのくびきに服すよりはむしろ、重いくびきであっても自分から進んで負おうとするのである。 GCJap 658.1
ローマ教会とキリスト初臨当時のユダヤ教会の間には、著しい類似点がある。ユダヤ人は、神の律法のすべての戒めをひそかに踏みにじっていながら、外面的にはその戒めを厳格に守り、それに苛酷な要求と言い伝えを付け加えて、服従することを苦痛とし重苦しいものとしていた。ユダヤ人たちが律法をあがめると公言したように、カトリック教徒も、十字架をあがめると主張している。彼らは、キリストの苦悩の象徴を高める一方において、それがあらわしているところの主を、その生活において拒否しているのである。 GCJap 658.2
カトリック教徒は、その教会、祭壇、衣服に十字架をつける。至るところに、十字架のしるしが見られる。至るところで、それは、外面的に崇敬され、高められている。しかし、キリストの教えは、多くの無意味な伝説、偽りの解釈、厳格な規則の下に埋もれている。頑迷なユダヤ人に関する救い主の言葉は、ローマ・カトリック教会の指導者たちに、いっそう大きな迫力をもって当てはまる。「また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない」(マタイ23章4節)。良心的な人々が、怒った神の復讐に絶えずおののいているにもかかわらず、教会の高位にある者たちの多くは、ぜいたくな暮らしをして、享楽をほしいままにしているのである。 GCJap 658.3
聖画像や聖遺物の崇敬、聖徒たちへの祈り、また法王崇拝は、人々の心を神と神のみ子から引き離すサタンの策略である。サタンは、人々を滅ぼしてしまうために、救いを見いだすことのできる唯一のお方から彼らの関心をそらそうと努めている。彼は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言われたお方に代わることができる何かの対象物に、人々を向かわせるのである(マタイ11章28節)。 GCJap 658.4