各時代の大争闘
助け主キリスト
神の律法が、審判の時に人々の品性と生活を吟味する基準である。賢者は「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」と言っている(伝道の書12章13、14節)。使徒ヤコブは、兄弟たちに、「だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい」と勧告している(ヤコブ2章12節)。 GCJap 553.4
審判において、「あずかるにふさわしい」とされた者は、義人の復活にあずかる。「かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、……天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ない」とイエスは言われた(ルカ20章35、36節)。彼は、また、「善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえ」って出てくると宣言しておられる(ヨハネ5章29節)。つまり、死んだ義人は、審判がすみ、「生命を受けるためによみがえ」るにふさわしい者とされるまでは、復活することはない。したがって、彼らの記録が調査され、運命が決定される時に、彼ら自身はその法廷にはいないのである。 GCJap 554.1
イエスは彼らの助け主として、神の前で、彼らのためにとりなしをなさる。「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(ヨハネ第一・2章1節)。 GCJap 554.2
「ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである」「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(ヘブル9章24節、7章25節)。 GCJap 554.3
審判において、記録の書が開かれる時に、イエスを信じたすべての人の生涯が神の前で調べられる。われわれの助け主であられるイエスは、この地上に最初に生存した人々から始めて、各時代の人々のためにとりなし、現在生きている人々で終わられる。すべての名があげられ、すべての人の事情が詳しく調査される。受け入れられる名もあれば、拒まれる名もある。もしだれかが、罪を悔い改めず、赦されないまま、記録の書に残しておくならば、彼らの名は、いのちの書から消されて、彼らの善行の記録も神の覚えの書から消される。「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう」と主はモーセに言われた(出エジプト記32章33節)。また預言者エゼキエルも言っている。「しかし義人がもしその義を離れて悪を行い、悪人のなすもろもろの憎むべき事を行うならば、生きるであろうか。彼が行ったもろもろの正しい事は覚えられない」(エゼキエル書18章24節)。 GCJap 555.1