各時代の大争闘

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ウェスレー兄弟の出現

それから一〇〇年後、霊的大暗黒の時代に、ホイットフィールドとウェスレー兄弟が、神の光を掲げる者としてあらわれた。国教会の支配下にあって、英国の人々は、異教と見分けがつかないほどの宗教的堕落状態に陥っていた。牧師たちは、自然宗教を好んで研究し、それが彼らの神学の大半であった。上流階級は信心を冷笑し、自分たちは、いわゆる狂信よりすぐれていると誇っていた。下層階級は非常に無知で、悪習にふけっていた。一方、教会は、踏みにじられた真理の運動を、支持する勇気も信仰もなかった。 GCJap 291.4

ルターがあれほどはっきりと教えた、信仰による義という偉大な教理は、ほとんど姿を消してしまっていた。そして、善行によって救いを得るというローマ教の原則が、その代わりになっていた。ホイットフィールドとウェスレー兄弟は、国教会の信者であった。彼らは、神の恵みを真剣に求め、そしてそれは、高潔な生活と宗教儀式の遵守とによって与えられると教えられていた。 GCJap 292.1

ある時、チャールズ・ウェスレーが病気にかかり、死にそうになった。彼は、永遠の生命の希望を何においているかという質問を受けた。彼は答えた。「わたしは、神に仕えるために全力を尽くしてきた」。しかし、質問した友人は、この答えでは満足しないらしかった。ウェスレーは考えた。「なんだって? わたしの努力が、希望の十分な根拠でないというのか。彼は、わたしから、わたしの努力を奪おうとするのか。わたしは他に何も頼るものがない」。教会にはこうした深い暗黒が覆いかぶさり、贖罪を隠し、キリストからその栄光を奪っていた。そして、人々の心を、救いの唯一の希望―─十字架にかけられた贖い主の血から引き離していた。 GCJap 292.2

ウェスレーと彼の仲間は、真の宗教は心に根ざすものであって、神の律法は、言葉や行為と同様に思想にまで及ぶものであることを悟った。外部の行状が正しいのと同様に、心の聖潔の必要を確信して新しい生活に入ろうと熱心に努めた。彼らは、非常な努力と祈りによって、生来の心の悪を抑制しようとした。彼らは、自己犠牲、愛、謙遜の生活を送り、彼らが何よりも望んだもの―─すなわち、神の恵みを受けることができる聖潔―─に到達するために役立つことはどんなことでも、非常な厳格さと正確さをもって実行した。しかし、彼らは、求めたものを得ることはできなかった。罪の宣告や罪の力から自由になろうとする彼らの努力はむなしかった。これは、ルターが、エルフルトの小部屋で経験したのと同じ悩みであった。「人はどうして神の前に正しくありえようか」という、彼の魂を悩ましたのと同じ問題であった(ヨブ記9章2節)。 GCJap 292.3