各時代の大争闘

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デンマークの改革者タウセン

ピエモンテの山々で、フランスの平原で、そしてオランダの海岸で、福音の進んでいったところは、その弟子たちの血で彩られた。しかし、北欧諸国には、平和に入っていった。ウィッテンベルクの学生たちは、故郷へ帰る時、改革の信仰をスカンジナビアに伝えた。ルターの著書の発行も、光を広めた。単純で強健な北欧の人々は、ローマの腐敗、華美、迷信を捨てて、純潔、単純で生命を与える聖書の真理を歓迎した。 GCJap 277.2

「デンマークの改革者」タウセンは、農夫の息子であった。彼は、幼い時から、知力の活発な少年であった。彼は、教育を渇望した。しかし、親の事情がそれを許さなかったので修道院に入った。ここで、彼の勤勉と誠実と純潔な生活が、先輩の好意をかち得た。彼は、試験の結果、将来教会のためによい奉仕をする才能の持ち主であることが認められた。そこで、ドイツかオランダの大学で、教育を受けさせることに決まった。この青年学徒は、ウィッテンベルクには行かないという一つの条件のもとに、自分で学校を選ぶ自由が与えられた。教会の学者たるものは、異端の害毒にさらされてはならない。このように修道士たちは言った。 GCJap 277.3

タウセンは、今日同様当時においても、ローマ教の本拠地の一つであったケルン大学に入った。ここで彼はまもなく学者たちの神秘主義に愛想を尽かした。ちょうどそのころ、彼は、ルターの著書を手に入れた。彼はこれを読んで非常な驚きと喜びとを感じ、ルターの教えを直接受けたいと切望した。しかし、そうすることは、修道院の先輩を怒らせ、彼の支持を失うことであった。彼はすぐに決心した。そして、まもなくウィッテンベルク大学に入学した。 GCJap 278.1

彼は、デンマークに帰ってから、ふたたび修道院に戻った。彼がルター派ではないかと疑う者は、だれもまだいなかった。彼は、自分の秘密をあらわさなかったが、同僚の偏見を起こさないようにして、彼らを純粋な信仰と清い生活に導こうと努めた。彼は、聖書を開いてその真の意味を説明し、ついに罪人の義、救いの唯一の希望として、キリストを宣べ伝えた。修道院長の怒りは大きかった。彼はタウセンに、ローマの擁護者としての大きな期待をかけていたのであった。タウセンは直ちに、彼の修道院から別の修道院に送られて、厳重な監視のもとに個室に閉じ込められた。 GCJap 278.2

ところが、彼の新しい監視人たちが驚いたことには、まもなく修道士たちが数名、プロテスタント主義に改宗したことを宣言した。タウセンは、独房の格子の間から、彼の同僚たちに真理を教えたのであった。もしデンマークの修道院長たちが、異端に対する教会の処置に通じていたならば、タウセンの声は二度と聞かれなかったであろう。しかし彼らは、どこかの地下牢で彼を埋葬するかわりに、修道院から彼を追放した。これで、もう彼らには、どうすることもできなかった。ちょうどその時、新しい教義の教師たちを保護する勅令が発せられた。タウセンは、説教しはじめた。諸教会は彼に扉を開いた。多くの人々が集まって聞いた。他にも神の言葉を伝える者がいた。新約聖書がデンマーク語に翻訳され、広く配布された。この働きをくつがえそうとする法王側の努力は、かえってこれを促進し、まもなく、デンマークは改革主義の承認を宣言した。 GCJap 278.3