各時代の大争闘
ジュネーブにおけるカルバン
その次の伝道に選ばれたのは、もっと劣った器であった。それは、宗教改革の同志たちからさえ冷淡に扱われたほどの、みかけの貧弱な青年であった。ファーレルが拒絶された町で、このような人間に、いったい何ができようか。最も強力で勇敢であった者が逃げなければならなかったような嵐に、この勇気も経験も乏しい男がどうやって耐えられようか。「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ書4章6節)。「強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選」ばれた。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである」(コリント第一・1章27、25節)。 GCJap 268.1
フロマンは、教師として活動を始めた。彼が学校で教えた真理を、子供たちは家庭で繰り返した。やがて、親たちが聖書の説明を聞きに来て、教室は熱心な聴衆であふれた。新約聖書や小冊子が、数多く配布され、新しい教義を公然と聞きに来ない多くの人々の手にも渡った。しばらくして、この伝道者も逃げなければならなかった。しかし、彼が教えた真理は、人々の心を捕らえてしまっていた。宗教改革の種はまかれ、だんだん力を得て広がっていった。説教者たちが帰ってきて、彼らの努力によって、ついにジュネーブにプロテスタントの礼拝が確立した。 GCJap 268.2
ジュネーブが宗教改革の宣言をしたころ、各地を放浪していろいろな経験を経たカルバンが、ジュネーブに来た。彼は、生まれ故郷に最後の訪問をして、バーゼルに行く途中であったが、そこへの直接の道がカール五世の軍隊に占領されているのを知って、ジュネーブ経由で遠回りをしなければならなかったのである。 GCJap 268.3
この訪問が神の摂理であることを、ファーレルは認めた。ジュネーブは、改革主義の信仰を受け入れたとは言っても、まだ、この地でしなければならない大事業が残っていた。人々は、団体としてでなく、個人的に神に悔い改めるのである。新生の働きは、会議の法令ではなくて、聖霊の力が心と良心に働くことによって行われなければならない。 GCJap 269.1
ジュネーブの人々は、ローマの権威を投げ捨ててはいたが、ローマの支配下で栄えていた悪習を捨てようとはしていなかった。ここで福音の純粋な原則を確立し、神の摂理が召している地位に適した者にこの人々を準備することは、容易なことではなかった。 GCJap 269.2
ファーレルは、カルバンこそ、この事業において彼と協力できる人物であると確信した。そこで彼は、神の名によって、青年伝道者に、ここに残って働くように、厳かに懇願した。カルバンは、驚いて辞退した。彼は、気が弱く、平和を愛していたので、勇敢で独立心に富み、激しい気性さえあるジュネーブの人々に接することを恐れた。彼は、体が弱く、勉強好きでもあったので、引きこもりがちであった。彼は、文筆によって改革事業に最上の奉仕ができると信じ、研究のために静かな場所を見つけて、そこで印刷物によって教会を教え、築き上げたいと願った。しかし、ファーレルの厳粛な勧告は、彼にとって天からの召しと思われ、彼は拒否することができなかった。「神の手が天からのべられて私を捕らえ、早く去ろうと考えていた場所にどうしてもいなければならなくされた」と彼には思われたのである。 GCJap 269.3