各時代の大争闘

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ファーレルの伝道

檄文事件によって引き起こされた迫害のずっと以前に、勇敢で熱心なファーレルは、彼の生まれ故郷を去らなければならなかった。彼はスイスに行って、ツウィングリの働きを援助し、宗教改革を有利に導いた。彼は、その余生をここで過ごすことになるのであったが、それでもなお、フランスの改革に決定的な影響を及ぼし続けた。彼は、亡命後の最初の数年は、故郷に福音を宣布することに特に心を用いた。彼は、国境近くの同胞に説教することに相当の時間を費やし、この場所から絶えず注意深く見守り、励ましと勧告の言葉を送って助けた。彼は、他の逃亡者たちの援助を得て、ドイツの改革者たちの著書をフランス語に翻訳し、フランス語の聖書とともに、大量に印刷した。これらの著書は、文書伝道者によって、フランス国内で広く販売された。文書伝道者にはこれが安価に提供されて、彼らはその利益によって、活動を継続することができた。 GCJap 266.2

ファーレルは、つつましい学校教師に変装して、スイスにおける活動を始めた。彼は、遠く離れた教区に行って、子供たちの教育に専念した。一般の学課のほかに、彼は用心深く聖書の真理を教え、子供たちを通じて親たちに伝えようと望んだ。 GCJap 266.3

信じる者もいくらかあらわれたが、司祭たちが彼の働きを妨害したので、迷信的な田舎の人々は、彼に反対するようになった。「それを宣伝すれば平和でなく GCJap 266.4

て争いを起こすのを見ると、それはキリストの福音ではあり得ない」と司祭たちは力説した。そこで、初期の弟子たちのように、一つの町で迫害されたなら次の町へ逃れた。彼は、飢えと寒さと疲労に耐えながら、そして至るところで生命の危険にさらされながら、村から村、町から町へと歩いて旅をした。彼は、市場や教会で、そして時には大聖堂の説教壇から説教した。時には教会に聴衆が一人もいないこともあった。時には、叫びやののしりの声に妨害されることもあった。また、乱暴に説教壇から引きずりおろされたこともあった。やじうまたちに襲われて、なぐられ、死ぬばかりになったことも何度かあった。それでも彼は前進していった。何度撃退されても、たゆまず攻撃を繰り返した。そうしているうちに、法王側の要塞であった町や都市が、次々に福音に門を開くようになるのを彼は見た。彼が最初に働いた小さな教区も、まもなく改革の信仰を受け入れた。モラとヌーシャテルの町々も、ローマの儀式を廃止し、教会から偶像を取り除いた。 GCJap 267.1

ファーレルは、かねてから、ジュネーブにプロテスタントの旗を立てたいと願っていた。もしこの町に福音を伝えることができれば、フランス、スイス、イタリアの、宗教改革の中心地となるのであった。彼は、この目的のもとに、働きを継続し、その周囲の多くの町々村々に福音を伝えた。それから彼は、ただ一人の同伴者とともに、ジュネーブに入った。しかし彼は、ただ二回の説教が許されただけであった。国家の権力によって彼を罪に定めようとしてできなかった司祭たちは、彼を教会会議に呼び出した。彼らは、衣の下に武器を隠し、彼の生命を奪おうとしていた。会場の前には、こん棒や剣を持った群衆が、もし彼が会議を逃れて出てきたら、彼を殺そうと待ちかまえていた。しかし、長官や軍隊がいたために、彼は助かった。翌朝早く、彼と同伴者とは、湖水の向こう岸の安全な地へ送られた。こうして、ジュネーブの最初の伝道は終わった。 GCJap 267.2