各時代の大争闘

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プロテスタント撲滅政策

フランソア一世は、一六世紀の初めに起こった学問の大復興運動の指導者であることを誇っていた。彼は、各国から宮廷に学者たちを集めることを喜んでいた。彼が宗教改革にある程度の自由を許したのは、彼が学問を愛し、修道士たちの無知と迷信を軽蔑したことが、少なくともその動機の一部であった。しかし、ついにこの学問の後援者も、異端撲滅の熱に燃えて、フランス全国で印刷廃止の勅令を出した。フランソア一世は、知的教養が宗教的狭量と迫害に対する安全弁でないという数多くの実例の一つを示している。 GCJap 262.2

フランスは、厳粛な公の儀式によって、プロテスタントの撲滅に全力を注ぐことになった。司祭たちは、改革派がミサを非難することによって天の神に与えた侮辱は、血によって贖わなければならない、そして王は、国民に代わってこの恐ろしい行為に公に制裁を加えるべきであると要求した。 GCJap 262.3

一五三五年、一月二一日に、この恐ろしい儀式が行われることになった。全国民の迷信的恐怖とかたくなな憎しみがかきたてられた。パリは、周囲の田舎からやってきて通りにあふれた群衆で雑踏していた。当日は、堂々とした行列が行われることになっていた。「行列が通る道の家々では、喪章をかかげ、所々に祭壇が設けられた」。家々の前には、「秘蹟」に敬意を表するかがり火が点じられた。夜明け前に、王宮の前で行列が勢ぞろいした。「まず、各教区の旗と十字架、その次に市民が二列に並んで、たいまつを持っていた」。その次に、四階級の修道士たちが、おのおの特有の衣服をまとって続いた。その次に、ありとあらゆる有名な遺物が来た。その後に、紫色や緋色の衣をまとい、宝石をちりばめた飾り物を身につけた、威風堂々とした聖職者たちが続いた。 GCJap 263.1

「聖体はパリの司教によって運ばれ、その上を四人の王子たちが支える豪華な天蓋がおおっていた。……聖体の後を王が歩いた。……フランソア一世は、この日、王冠も王衣もつけていなかった」「頭には何もかぶらず、彼の目を地面に向け、手には、火を点じたたいまつを持っていた」。フランスの王は、「悔悟者の姿で」あらわれた。 GCJap 263.2

彼は、祭壇ごとにへりくだってひざまずいたが、それは彼の心を汚した罪のためでも、彼の手を汚した罪なき人の血のためでもなく、ミサを汚した彼の臣民の恐ろしい罪のためであった。彼の後ろには、王妃と国家の高官たちが、これもおのおの手にたいまつを持って、二列で続いた。 GCJap 263.3

その日の行事の一つとして、王は自ら司教邸の大広間において、王国の高官たちに演説した。彼は、悲痛な顔をして彼らの前にあらわれ、感動的な言葉で雄弁に、国民に降った「犯罪、冒瀆、悲しみと恥の日」について嘆いた。そして、彼は、フランスを破滅の淵に陥れる有害な異端の全滅を、すべての忠実な国民に訴えた。「わたしが王であることが事実であるように、もしわたしの手足がこの恐ろしい腐敗に感染しているならば、わたしはそれを切ってしまうであろう。……また、わたしの子供の一人がそれで汚れているならば、わたしは彼を許さない。……わたしは自分で彼を捕らえ、神への犠牲とするであろう」。王の言葉は涙でとぎれた。全会衆も泣き、声を合わせて「われわれは、カトリック教のために生き、また死ぬ」と叫んだ。 GCJap 263.4