国と指導者

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第54章 搾取に対する譴責

本章はネヘミヤ5章に基づく PK 625.5

民の貧しい人々の不幸な状態にネヘミヤが注意したのは、まだエルサレムの城壁が完成していない時であった。国内の状勢が安定していなかったので、相当の耕地がおろそかになっていた。そのうえユダヤに帰還した者の中には、利己的な行動をとった人々がいたので、彼らの地に主の祝福が与えられず、穀類が不足していた。 PK 625.6

貧しい人々は家族に食べさせるために、法外な値段で掛け買いをしなければならなかった。彼らはまた、ペルシャ王に課せられた重い税金を払うために、借金をして金を作らなければならなかった。ユダヤ人の中の金持ちは、貧者の必要を利用して私腹を肥やしていたので、貧者はますます困窮に陥るのであった。 PK 625.7

主はモーセを通じて、3年ごとに貧者のための什一を調達することを、イスラエルにお命じになった。 また7年ごとに農業を休んで土地に休みを与え、自然に生えたものは、困窮者のために保留するという規定が設けられていた。これらの捧げ物が貧者の救済のため、またその他の慈善の目的のために用いられていたならば、神が万物の所有者であるという真理と、祝福を他に伝える通路としての彼らの機会とを、常に人々の前に鮮やかに示したことであろう。イスラエルの人々が訓練を受けて、利己心を捨て去り、広く気高い品性を啓発することが、主のみこころであった。 PK 625.8

神はまたモーセによって、次のようにお教えになった。「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。」「兄弟に利息を取って貸してはならない。金銭の利息、食物の利息などすべて貸して利息のつく物の利息を取ってはならない」(出エジプト22:25、申命記23:19)。神はまた言われた。 PK 626.1

「あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。」「貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』」(申命記15:7、8、11)。 PK 626.2

バビロンから捕囚が帰還して後、たびたびユダヤ人の金持ちたちは、これらの命令と正反対のことを行った。貧者が王に税金を払うために、借金をしなければならなかったとき、金持ちは金を貸しはしたが高い利子をとったのであった。彼らは貧者の土地を抵当に取ったので、あわれな債務者たちを次第に貧困の極に陥れた。むすこ娘を奴隷に売らなければならない者も多かった。そしてこの状態を改善する希望もなく、将来の見通しもなく、困窮は増し加わり、いつまでも欠乏と奴隷の状態が続くかに見えたのである。それにもかかわらず、彼らは恵まれた兄弟たちと同じ国民であり、同じ契約の民であった、 PK 626.3

ついに人々は、自分たちの状態をネヘミヤに訴えた。「見よ、われわれはむすこ娘を人の奴隷とするようにしいられています。われわれの娘のうちには、すでに人の奴隷になった者もありますが、われわれの田畑も、ぶどう畑も他人のものになっているので、われわれにはどうする力もありません」と彼らは言った(ネヘミヤ5:5)。 PK 626.4

ネヘミヤはこの残酷な圧迫のことを聞いた時に、彼の心は憤りに満たされた。「わたしは彼らの叫びと、これらの言葉を聞いて大いに怒った」と彼は言っている(同5:6)。ネヘミヤは圧迫的搾取の習慣を打破しようとするならば、正義のために決定的立場を取らなければならないことを認めた。彼はその独特の精力と決意をもって、兄弟たちの救出に乗り出した。 PK 626.5

圧迫者たちが金持ちであって、都の修復事業のために彼らの支持が大いに必要であるという事実は、一瞬でもネヘミヤに動揺を与えなかった。彼は尊い人々およびつかさたちを厳しく責めた。そして民の大会衆を集めて、この事に関する神の要求を彼らの前に示したのである。 PK 626.6

彼はアハズ王の時代に起こったでき事に、彼らの注意をひいた。彼はその時、彼らの残酷と圧迫を謎責するために、神がイスラエルにお送りになった言葉をくり返した。ユダの民は偶像礼拝のために、彼らよりもさらに深く偶像礼拝に陥っていた、イスラエルの民の手に渡された。イスラエルの民は戦いでユダの民を幾千となく殺害し、彼らの憎しみを露骨にあらわした。そして女や子供たちを全部捕らえて、彼らを奴隷にするかまたは、異邦人に奴隷として売ろうとしていた。 PK 626.7

主はユダの罪のゆえに、戦いが起こるのを防ぐために介入することをなさらなかった。しかし主は預言者オデデによって、勝利した軍勢の残酷な意図を譴責なさったのである。「あなたがたは今、ユダとエルサレムの人々を従わせて、自分の男女の奴隷にしようと思っている。しかしあなたがた自身もまた、あなたがたの神、主に罪を犯しているではないか」(歴代 志下28:10)。主はイスラエルに対して怒りを発し、彼らの不正と圧迫に対して刑罰を下されることを、オデデはイスラエルの民に警告した。軍人たちはこの言葉を聞いて、捕虜とぶんどり物を、つかさたちと全会衆の前に残していった。そこでエフライム人の主な人々が、「捕虜を受け取り、ぶんどり物のうちから衣服をとって、裸の者に着せ、また、くつをはかせ、食い飲みさせ、油を注ぎなどし、その弱い者を皆ろばに乗せ、こうして彼らをしゅろの町エリコに連れて行って、その兄弟たちに渡し」た(同28:15)。 PK 626.8

ネヘミヤおよび他の人々は、異邦人に売られたあるユダヤ人たちを買いもどした。そして彼は今、こうした行動と、世俗的利益のために、兄弟たちを奴隷にしている人々の行動とを対照してみたのである。「あなたがたのする事はよくない。あなたがたは、われわれの敵である異邦人のそしりをやめさせるために、われわれの神を恐れつつ事をなすべきではないか」と彼は言った(ネヘミヤ5:9)。 PK 627.1

ネヘミヤは彼自身が、ペルシャ王から権威を授かったのであるから、自分の個人的利益のために、巨額の寄贈を求めることができたことを示した。しかし彼はそうする代わりに、彼が当然受けるべきであったものすら受け取らずに、困窮状態にあった貧者の救済のために、惜しみなく与えたのであった。 PK 627.2

彼は搾取の罪を犯していたユダヤのつかさたちに、こうした邪悪な行為をやめるように促した。貧者に土地を返し、また彼らが貧者から搾取した利益をも返し、彼らに抵当も高利も取らずに貸すように勧めたのである。 PK 627.3

以上の言葉は全会衆の前で語られた。もしもつかさたちが、自分たちを弁護しようと思えば、そうする機会はあった。しかし彼らは、何の申し訳も言わなかった。「われわれはそれを返します。彼らから何をも要求しません。あなたの言うようにします」と彼らは言った。そこでネヘミヤは、祭司たちの面前で「彼らにこの言葉のとおりに行うという誓いを立てさせた」。「会衆はみな『アァメン』と言って、主をさんびした。そして民はこの約束のとおりに行った」(同5:12、13)。 PK 627.4

この記録は重大な教訓を教えている。「金銭を愛することは、すべての悪の根である」(Ⅰテモテ6:10)。この世代においては、利益に対する欲望が人々の心を夢中にしている。富を得るために、しばしば不正が行われる。わずかの賃銀のために苦役を強いられ、貧しさと戦いながらも、生活の最低の必需品すら得られずにいる者が多くいるのである。彼らは生活がよくなる見通しもなく、苦労しては奪い去られて重荷にあえぐのである。彼らは圧迫に悩み疲れて、どこに援助を求めてよいかわからない。そしてこれはみな、金持ちがぜいたくな生活を支えるためであり、あるいは貯蔵欲をほしいままにするためである。 PK 627.5

金を愛し、虚飾を愛することが、この世界を盗人と強盗の巣にしてしまった。聖書はキリスト再臨直前の貧欲と圧迫を描いている。ヤコブは次のように書いている。「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。……あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、『ほふらるる日』のために、おのが心を肥やしている。そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない」(ヤコブ5:1~6)。 PK 627.6

主を恐れて生活していると公言している者の中にさえ、イスラエルの尊い人々の歩んだ道を進んでいる者がある。彼らは力があるので、正当なもの以上を搾取し、圧迫者となる。そして貧欲と裏切りが、キリストの名を称える人々の生活に見られ、教会は不正によって財産を得た人々の名を名簿にとどめているために、キリストの宗教が侮られるのである。ぜいたく、詐取、搾取は多くの人々の信仰を堕落させ、彼らの霊性を失わせている。教会は教会員の罪に対して、大いに責任があるのである。教会は罪に対して声を上げないならば、罪悪を黙認しているのである。 PK 627.7

世俗の風習は、キリスト者にとって標準とはならない。キリスト者はその抜け目のないやりかた、詐取、搾取をまねてはならない。同胞に対する不正行為はすべて、黄金律の違反である。神の民に対して行う悪は、すべてキリストの聖徒に行ったのであるから、キリストご自身に行ったことになるのである。他の人々の無知、弱み、不幸につけ込むことはみな、天の帳簿に詐欺として記録される。真に神を恐れる人は、やもめやみなしごを圧迫して利益を得たり、異国人の受けるべき分を拒否したりするよりはむしろ、日夜労して働き、貧しい食事をするのである。 PK 628.1

清廉さから少しでも離反することは、防壁を打ち破ってさらに大きな不正へと心を向けさせる。他を陥れて自己の利益を求める者は、その程度に応じて、彼の魂が神の聖霊の影響に無感覚になるのである。そのような値を払って得た利益は、恐るべき損失である。 PK 628.2

われわれはみな、神の正義に負うところがあるのであるが、われわれには払うべきものが何もない。その時、神のみ子がわれわれをあわれんで、貝費いの値を払って下さったのである。彼は自分の貧しさによって、われわれが富める者となるために貧しくなられた。われわれは貧しい者に惜しみなく与える行為によって、われわれに表されたあわれみに対する感謝の、真実さを証明することができる。使徒パウロは、「だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」と命じている(ガラテヤ6:10)。彼の言葉は、救い主の次の言葉と調和している。「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。」「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」(マルコ14:7、マタイ7:12)。 PK 628.3