人類のあけぼの
第2章 天地創造のいわれ
本章は、創世記1、2章に基づく PP 19.2
「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである」「あなたは地をその基の上にすえて、とこしえに動くことのないようにされた」(詩篇33:6、9、104:5)。 PP 19.3
地球が創造主のみ手によって造られたとき、それは非常に美しかった。その表面には、山や丘や野原があって変化に富み、きれいな川や美しい湖水が、ここかしこにあった。しかし、山や丘は、現在のように、けわしく、あら削りでなく、恐ろしい絶壁や裂け目などはなかった。地球の骨組みをなす岩かどは、肥沃な土地におおわれて、いたるところで、緑の草木が繁茂していた。気味の悪い沼や不忌のさばくはどこにもなかった。どちらを向いても、優雅な灌木や優美な花が視線をとらえた、丘は、今はえているどんな木よりも堂々とした樹木で飾られていた。空気は、臭気で汚染されておらず、清らかで健康的であった。周りのけしきは、どんなりっぱな宮殿の飾り立てられた庭園よりも、はるかに美しかった。天使の群れは、その光景をながめて感激し、神のすばらしいみわざに歓喜の声をあげた。 PP 19.4
地球が、数多くの動物と植物で満たされてから、創造主のみわざの冠であり、この美しい地球に住むのにふさわしい人間が、活動の舞台にのぼってきた。人間は、見渡すかぎりのものを統治する支配権が与えられた。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに……すべての……ものを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち……男と女とに創造された」(創世記1:26、27)。ここに人類の起源が明瞭に述べられている。聖書の記録は、誤った結論を出す余地がないほど明白である。神はご自分のかたちに人間を創造された。そこにはあいまいさが全然ない。動物や植物などの下等な生命形態から、次第に発達の段階をたどって、人間は進化したのだと想像する余地は全くない。こうした考え方は、創造主の偉大なわざを、人間的な狭い、地上的な考え方のレベルに引き下げる。人間は、宇宙の王座から神を追い出そうと努めた結果、人間自身の品位を低め、人間の崇高な起源を見失っている。星空を高くすえ、野の花を巧みに飾り、み力の奇跡によって、驚くべきものを天地の間に満たされたお方は、その輝かしいみわざの最後を飾るにあたって、人間をこの美しい世界の統治者としておたてになったが、それは生命の賦与者のわざに恥じないものであった。霊感によって与えられた人類の系図は、その起源を、細菌、軟体動物、四足獣などの進化の跡をたどるのでなくて、偉大な創造主に帰着させる。アダムは、土のちりで造られたが、「神の子」であった(ルカ3:38)。 PP 19.5
アダムは、神の代表として、彼より低い動物の上におかれた。動物は、神の主権を理解することも認 めることもできないが、人を愛し、人に仕える能力を授けられた。詩篇記者は、「これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。……野の獣、空の鳥、……海路を通うものまでも」と言っている(詩篇8:6~8)。 PP 19.6
人間は、外観においても、品性においても、神のかたちを保っているはずであった。キリストだけが、天の父の「本質の真の姿」ではあるが、人間は、神に似せて造られたのである(ヘブル1:3)。彼の性質は、神のみ旨と調和していた。人間の知力は、神の事物を理解することができた。彼の愛情は清く、食欲や情欲は理性の支配のもとにあった。彼は、神のかたちをしていて、神のみ旨に完全に服従していたので、清く、幸福であった。 PP 20.1
人間が創造主によって造られたとき、彼は背が高く、完全に均整がとれていた。彼の顔は、血色がよく、生命と歓喜の光に輝いていた。アダムの身長は、今日のだれよりも、はるかに高かった。エバは、アダムよりは少し低かったが、その姿は気高く、美しかった。罪のない彼ら2人は、手で造った衣服を身にまとっていなかった。彼らは、天使が着るような光と栄光の衣をまとっていた。彼らが神に従って生活するかぎり、この光の衣は、彼らをおおっていたのである。 PP 20.2
アダムが創造されたあとで、彼に名をつけてもらうために、すべての生物が、彼の前につれてこられた。彼はどの動物も対になっているのを見た。しかし、それらの中には、彼に「ふさわしい助け手が見つからなかった」。神が、地上で創造なさったすべての生き物の中には、人間にふさわしいものはいなかった。また神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:20、18)。人間は孤独な生活をするように造られたのではない。彼は、社交的な存在でなければならなかった。もし伴侶がなければ、エデンの美しい光景も、愉快な労働も、完全な幸福を与えることはできなかったことであろう。天使たちとの交わりでさえ、同情と伴侶を求める彼の願望を満足させることはできなかった。愛し愛される同じ性質のものがいなかったのである。 PP 20.3
神ご自身が、アダムに伴侶をお与えになった、神は、「彼にふさわしい助け手」すなわち、彼にちょうど合った助け手、彼の伴侶となるにふさわしく、彼と1つになって、愛し、同情することができる者をお与えになった。エバは、アダムのわきから取られたあばら骨によって創造された。このことは、彼女がかしらになって彼を支配するのでもなければ、彼よりは劣った者として彼の足の下に踏みつけられるものでもなく、同等のものとして、彼のかたわらに立ち、彼に愛され、守られるものであることを示している。男の一部分、彼の骨の骨、彼の肉の肉として、彼女はアダムの第二の自分であった。そしてこの関係には、密接な結合と深い愛情がなければならないことを示された。「自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいないかえって、……おのれを育て養うのが常である」「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(エペソ5:29、創世記2:24)。 PP 20.4
神は、最初の結婚をとり結ばれた。だから、結婚式の制定者は、宇宙の創造主である。「結婚を重んずべきである」(ヘブル13:4)。それは、神が人間にお与えになった最初の賜物の1つであった。また、それは、堕落後、アダムが楽園の門から持って出た2つの制度の中の1つである。婚姻関係に関する神の原則をわきまえ、それに従うときに、結婚は祝福である。それは、人類の純潔と幸福を守り、人間の社会的必要を満たし、肉体的、知的、道徳的性質を高める。 PP 20.5
「主なる神は東のかた、エデンに1つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた」(創世記2:8)。神が造られたすべてのものは美を窮め、清い夫婦の幸福の増進のために、欠けているものは、何1つなかった。しかし創造主は、特に彼らの家庭のために、1つの園をそなえて、その愛のもう1つのしるしをお与えになった。この園には、種々さまざまな樹木があって、その多くはかおり高く、おいしい実をつけていた。まっすぐにのびた美しいぶどうの木は、最も優雅な姿をみせていた。その枝には、最も豊かで変化のある 色合いのおいしそうな実がたわわについていた。ぶどうの木の枝を巧みにたわめて木陰をつくり、果実と葉でおおわれた樹木を用いて住居をつくることは、アダムとエバの仕事であった。そこにはあらゆる色彩のかおり高い花が咲きみだれていた。園の中央には、いのちの木があって、その美観は、他のすべての木にまさっていた。木の実は、金や銀のりんごのように見え、生命を永続させる能力があった。 PP 20.6
創造は、ついに完成した。「こうして天と地と、その万象とが完成した」「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記2:1、1:31)。エデンは、地の上で栄えた。アダムとエバは自由にいのちの木のところに行くことができた。この美しい世界のどこを見ても、罪の汚れや死の陰はなかった。「明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった」(ヨブ38:7)。 PP 21.1
偉大な神は、地の基を置かれた。彼は、美しい衣で全世界を飾り、人間のために役立つものを地に満たされた。彼は、地と海に満ちるあらゆる驚異すべきものを創造なさった。創造の偉大なみわざは、6日で完成した。神は「そのすべての作業を終って第7日に休まれた。神はその第7日を祝福して、これを聖別された。神がこの日にそのすべての創造のわざを終って休まれたからである」(創世記2:2、3)。神は、そのみ手のわざを見て満足された。あらゆるものは、完全で、創造主である神にふさわしかった。神は、疲労のためではなく、その知恵と恵みのわざとその栄光のあらわれを心から喜んで休まれたのである。 PP 21.2
神は、7日目に休まれたあとで、その日を聖別し、人間の休みの日とされた。人間は、創造主の模範にならって、この聖なる日に休むことになった。それは、人間が天と地をながめて、神の偉大な創造のみわざを瞑想し、神の知恵と恵みの証拠を見て、創造主に対する愛と畏敬の念に満たされるためである。 PP 21.3
神は、エデンにおいて、第7日を祝福して、創造のみわざの記念となさった。安息日は、全人類の父であり、代表であるアダムにゆだねられた。その遵守は、地に住むすべてのものが、神を創造主とし、自分たちの正当な統治者として認めたことをあらわし、自分たちが神のみ手のわざであり、その権威に従うことを快く認める行為ともならなければならなかった。こうして、この制度は全く記念のために、全人類に与えられたのである。そこには、あいまいな点はなく、ある特定の民だけにかぎられることもなかった。 PP 21.4
神は、安息日が、楽園においてさえ人類に欠くことのできないものであることをお認めになった。人間は、第7日に自分の興味や楽しみを捨て、神のみわざについて熟考し、神の力と恵みを瞑想する必要があった。人間はさらに明瞭に神のことを思い起こし、自分のものとして所有するすべてのものが、創造主の恵み深いみ手から来たことを思って感謝するために、安息日が必要であった。 PP 21.5
神は、人々が安息日に、神の創造のみわざについて瞑想することを望まれた。自然は、彼らの知覚に訴え、生きた神、創造主、万物の最高の支配者の存在を宣言している。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる」(詩篇19:1、2)。地上をおおっている美は、神の愛のしるしである。われわれは、それを万古不易の山、壮大な樹木、開くつぼみ、優美な花に見ることができる。万物は、神について語っている。万物の創造主を指示している安息日は、自然という偉大な書物を開き、そして、そのなかに創造主の知恵と力と愛を探究するように命じる。 PP 21.6
われわれの祖先は、罪なく清いものに造られたが、罪を犯す可能性がなかったのではない。神は、彼らを自由意志をもった道徳的行為者として創造された。彼らは、神の品性の知恵と慈悲、また、神の要求の正当性を理解し、完全な自由のもとに、服従か不服従かを決定することができた。彼らは、神と聖天使たちとの交わりを楽しむことになっていた。しかし、彼らが永久的に確実なものとされる前に、彼らの忠誠が試みられなければならなかった。人間の存在の当初から、サタンを堕落させた致命的欲望、すなわち、放縦に対する欲望に1つの制限がおかれた。園の 中央にあるいのちの木の近くに善悪を知る木があって、われわれの祖先の服従と信仰と愛を試験するものとなっていた。彼らは、ほかのどの木の実も自由に食べることを許されていたが、これは食べることを禁じられていて、その罰は死であった。彼らは、また、サタンの誘惑にあわなければならなかった。しかし、もしその試練に耐えるならば、彼らは、ついに、サタンの力の圏外に置かれ、神の永遠の恵みにあずかることができるのであった。 PP 21.7
神は、人間を律法のもとにおかれたが、これは、人間が存在するためには、不可避の条件であった。人間は、神の統治に従う者であり、律法のない統治はあり得ない。神は、神の律法を犯す力のないものとして人間を造ることもおできになった。また、アダムの手が禁果にふれないように、彼の手をおさえることもおできになった。しかし、それでは、人間は道徳的自由意志の持ち主ではなくて、単なる機械人形になってしまう。選択の自由がないと、彼の服従は自発的なものではなくて、強制されたものとなる。品性が啓発されることもあり得なかったであろう。こういう方法は、神が他の諸世界の住民を取り扱われた計画と相反したものであったことだろう。人間は知的存在者としての価値を失い、神の支配は専制的だというサタンの非難が正当化されたことであろう。 PP 22.1
神は、人間を正しいものに造られた。神は、人間に悪の傾向のない気高い品性をお与えになった。神は、彼に高い知的能力を与え、神に対して忠誠を尽くさせるために、最も強力な示唆をお与えになった。完全で永続的な服従が、永遠の幸福の条件であった。人間は、こうした条件のもとにあって、いのちの木に近づくことができた。 PP 22.2
われわれの祖先の家庭は、その子供たちが地に住むためにひろがっていくときの、彼らの家庭の模範とならなければならなかった。神ご自身の手で飾られたその家庭は、豪華な宮殿ではなかった。高慢な人間は、広壮で高価な建物を好み、自分たちの手のわざを誇る。しかし、神は、アダムを園の中におかれた。これが、彼の住居であった。青空が屋根であり、美しい花と緑の草のじゅうたんを敷いた地が床であった。葉の繁った大木の枝が、天蓋であった。壁は、偉大な芸術家であられる神の作品によって、最も豪華に飾られていた。清い家族の環境は、すべての時代に教訓を教えている。つまり、真の幸福は、誇りとぜいたくにふけることにあるのではなくて創造のみわざによって神と交わることにあるということである。もし人間が、人工的なものに目を向けず、もっと単純さをつちかうならば、彼らは、神の創造の目的に接近することであろう。誇りや野心は、あくことを知らない。しかし、真に賢明なものは、神がすべての人の手のとどくところにおかれた喜びの源泉から、実質的で高尚な楽しみを見いだすのである。 PP 22.3
エデンに住むアダムとエバには、「それを手入れし、守るために」園の管理が任せられた。彼らの仕事は、たいくつなものでなく、楽しく爽快なものであった神は、頭脳を活動させ、身体を強壮にし、能力を発達させるために、労働を祝福として人間にお与えになった。知的、また身体的に活動することが、アダムの清い存在の最高の楽しみの1つであった。堕落の結果、彼は、美しい家庭を追われ、日毎の食物を得るために、かたい土とたたかわなければならなくなったとき、その同じ労働は、楽園での楽しい仕事とはずいぶん異なっていたとはいえ、誘惑の防壁であり、幸福の泉であった。労働には、労苦や苦痛が伴うからといって、労働をのろいとみなすものは誤っている。金持ちは、しばしば、労働階級を軽蔑して見下すが、それは、神が人間を創造された目的から全くはずれている。どんなに多くの富を所有している人であっても、祖先のアダムに与えられた嗣業と比較すれば、いったいどれほどのものであろうか。しかし、アダムは怠惰でなかった。人間の幸福をもたらすものが何であるかを知っておられた創造主は、アダムに仕事をあてがわれた。働く男女だけが、生活の真の喜びを発見する。天使たちは熱心に働いている。彼らは、人の子らのために働く神の使者である。創造主は、怠惰なのろのろした習慣をお許しにならない。 PP 22.4
アダムとエバは、神に忠実であるかぎり、全地を支 配することになっていた。彼らは何の制約も受けずに、すべての生き物を支配することができた、獅子と小羊は彼らのまわりで平和にたわむれ、いっしょに彼らの足もとに横たわった。楽しそうな小鳥たちが、恐れもせず彼らのまわりを飛びまわり、その喜ばしい歌が創造主を賛美すると、アダムとエバは、その声に合わせて共に父とみ子に感謝した。 PP 22.5
清い家族は、天の父の保護を受ける子供たちであるばかりでなくて、知恵に満ちた創造主から教えを受ける生徒でもあった。彼らは、天使たちの来訪を受け、何の隔てもなく、創造主と交わることを許された。彼らは、いのちの木によって与えられた生気に満ち、彼らの知力は、天使よりわずかに劣るだけであった。目に見る宇宙の神秘——「知識の全き者のくすしきみわざ」——は、彼らにとって、尽きない教えと喜びの泉であった(ヨブ37:16)。過去6000年の間、人間が研究を続けてきた自然の法則と作用は、万物の創造者であり、維持者である無限のおかたによって、彼らに知らされた。彼らは、木の葉、草花、樹木などと語り、それぞれの命の神秘を学んだ。アダムは、あらゆる牛物、水中に遊ぶい大な海魚から、日光の中にいる小さな昆虫にいたるまで熟知していた。彼は、おのおのに名を与え、すべてのものの習癖や性質によく通じていた、もろもろの天の神の栄光、整然と運行する無数の世界、雲のつり合い、光と音、昼夜の神秘などのすべては、われわれの祖先の研究の課題であった。森林のあらゆる葉に、山々の岩石に、すべての輝く星に、大地に、大気に、大空に、神のみ名がしるされていた。造られた世界の秩序と調和は、無限の知恵と力とを彼らに語った。彼らは、自分たちを強く引きつけ、彼らの心を深い愛で満たし、新たな感謝の声をあげさせるものを常に発見するのであった。 PP 23.1
彼らが神の律法に忠誠をつくしているかぎり、彼らの知り、理解を深め、愛する能力は、絶えず啓発されるのであった。彼らは、常に新しい知識の宝庫を手に入れ、新しい幸福の泉を発見し、神のはかり知れない不滅の愛について、ますます明瞭な観念をいだくようになるのであった。 PP 23.2