人類のあけぼの

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第3章 天地創造の1週間

安息日と同様に、週は創造の時に創設されて、聖書の歴史を通じて維持され、われわれに伝えられた。神は世の終末に至るまで継続する週の見本として、最初の1週を設けられた。それは、他のすべての週と同様に、文字通りの7日間であった。神は、6日を創造の働きに用い、7日目に休み、この日を祝福して、人間のための休息の日として聖別された。 PP 23.3

神は、シナイでお与えになった律法のなかで、週を認め、週の根拠になっている事実をお認めになった。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という命令を与え、6日のうちにすべきことと、7日目にすべきでないことを詳しく説明したあとで、こうして、1週間を過ごすことの理南として、神はご自身の模範をおあげになった。「主は6日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、7日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト20:8~11)。創造の日々が、文字通りの1日であったことを理解するならば、この理由は、美しく力強いものに思われる。1週のうちの6日間が人間の労働のために与えられているのは、神が第1週のこの同じ時に、創造のわざをなさったからである。人間は、7日目に創造主が体まれたことを記念して、労働をやめるべきである。 PP 23.4

しかし、第1週の出来事が何千万年も要したとの仮説は、第4条の戒めの根底をくつがえすものである。もしそうだとすれば、創造主は、漠然とした不明確な期間の記念として、文字通りの日々の週を守るように命じておられることになる。神が、被造物に対して、このような態度をとられるとは考えられない。それは、神がすでに明らかにされたものを、不明瞭であ いまいなものにしてしまう。それは、最も陰険で、最も危険な形の無神論である。この真相が巧みに隠されているために、聖書を信じると公言する多くの人々がそう信じて教えているのである。「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである」(詩篇33:6、9)。聖書は、地球が長い時代を経てこんとん状態から徐々に進化したということを認めていない。聖書の記録は、創造週の1日1日が、その後のすべての1日と同様に、夕があり朝があったことを明らかにしている。1日の終わりに、創造主のその日の働きの結果がしるされている。第1週の記録が終わったところで、「これが天地創造の由来(ジェネレーション)である」としるされている(創世記2:4)。しかし、この言葉は、創造の日々が文字通りの1日でなかったというのではない。その1日1日がジェネレーションと呼ばれたのは、神がその日、その日に何か新しいものを発生させ(ジェネレート)、また、造られた(プロデュース)からである。 PP 23.5

地質学者は、地球がモーセの記録するところよりははるかに古代のものである証拠を地球自体から発見したと主張する。今日、現存するものや、数千年経過したものよりは、はるかに巨大な人間や動物の骨、武器、樹木などの化石が発見されたことによって、創造の記録のなかにあらわれているときよりは、ずっと以前に現代の人間よりかなり大きな人種が生存していたと推論する。このような論理の結果、聖書を信じると称する多くの人々が、創造の1日は漠然とした不定の期間であるという見解をもつようになった。 PP 24.1

しかし、聖書の歴史を度外視して、地質学は、何も証明することはできない。発見したものについて、確信をもって論じている人々は、洪水前の人間、動物、樹木などの大きさや、洪水のときの大変化について、十分な認識を持ち合わせていない。地中から発掘される遺物類は、多くの点で現在とは非常に異なった状態にあったことを証明しているが、そうした状態がいったいいつ存在したかということは、聖書から学ぶほかないのである。洪水に関する物語のなかで、霊感は、地質学だけではさぐり得ないことがらを説明している。現在のものよりは数倍もある人間、動物、樹木などがノアの時代に埋没した。こうして、洪水前の人々が洪水によって滅びたことを後世の人々に証明するために保存された。神は、こうしたものが発見されたために、霊感による聖書歴史に対する信仰が強固になることを望まれた。しかし、人々は、いたずらに議論して洪水前の人々と同じ誤りに陥った。彼らは、神が人々を益するために与えられたものを悪用して、それをのろいに変えてしまった。 PP 24.2

神を無視した作り話を人々に信じさせることが、サタンの計略の1つである。というのは、そうすれば、きわめて明確に示されている神の律法をあいまいにし、人々を大胆に神の政府に反逆させることができるからである。彼は特に第4条を攻撃する。それは、この戒めが、生ける天地の創造主を明示しているからである。 PP 24.3

創造のわざを、自然現象の結果であるというように説明しようとする試みが絶えず行われていて、クリスチャンと称する人々でさえ、聖書の明らかな事実に反して、人間の論理を受け入れている。多くの者が、預言、特にダニエル書と黙示録の預言の研究に反対し、これらの書は、不明瞭で理解しにくいと言う。ところが、この同じ人々は、モーセの記録とは反対の地質学的推論を熱心に信じる。しかし、もし、神が啓示されたものがそれほど難解であるとするならば、神が啓示されなかったことに関する単なる仮説を信じるとは、なんと大きな矛盾であろう。 PP 24.4

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属」する(申命記29:29)。神が、どんな方法で創造の働きをなさったかは、人間にあらわされていない。人間の科学は、至高者の秘密をさぐり出すことはできない。神の創造の力は、神の存在と同様に理解することはできない。 PP 24.5

神は、科学と芸術の両方面において、世界にあふれる光をお注ぎになった。しかし、科学者と自称す る人々がこうした問題を、単に人間的観点だけによって処理しようとするならば、必ず誤った結論を下すにきまっている。もし、われわれの説が、聖書の事実と矛盾しないならば、神の言葉の啓示を越えて推論しても害はないであろう。しかし、神の言葉をさしおいて、科学的原則によって神の創造のわざを説明しようとする者は、未知の大海を海図も羅針盤もなくただようようなものである。もし、神の言葉の指導なしに研究するならば、どんな偉大な頭脳の持ち主でも、科学と啓示の関係を追求するのにとまどうことであろう。創造主と神のわざは、彼らの理解力をはるかに超えていて、彼らは、それを自然の法則によって説明することはできない。それで、彼らは、聖書の歴史は信頼できないと考える。旧新約聖書の記事の信頼性を疑う者は、さらに1歩進んで、神の存在を疑うようになる。こうして、彼らは、いかりを失った船のように、不信の暗礁にのり上げる。 PP 24.6

こうした人々は、単純な信仰を失っている。神の清い言葉に対する堅い信仰が必要である。聖書は、人間の科学的観念によって、試験されるべきではない。人間の知識は、頼りがいのない案内者である。あらをさがそうとして聖書を読む懐疑論者は、彼らの科学および啓示に関する理解が不十分なために、この二者間に矛盾を発見したということがあろう。しかし、正しく理解しさえすれば、この二者は完全に一致しているのである。モーセは聖霊の指導に従って書いたのであるから、地質学の学説が正しいものであれば、モーセの言葉と一致しない発見を主張することはあり得ない。すべての真理は、それが自然であれ、啓示であれ、そのすべてのあらわれ方において常に矛盾はない。 PP 25.1

神の言葉の中には、偉大な学者でも答えられない質問が多く提出されている。こうした問題にわれわれの注目がひかれているのは、人間がどんなに知恵を誇ってみても、限られた頭脳では、日常生活のささいなことがらのなかにさえ、十分に理解できないことがいかに多くあるかを示すためである。 PP 25.2

それにもかかわらず、科学者たちは、神の知恵、すなわち、神のなさったこととおできになることなどを理解できると考える。神は、神ご自身の法則に制限されておられるという思想が一般に広まっている。人々は、神の存在を否定するか、あるいは無視するかして、すべてのもの、人の心に働く神の霊の作用さえも説明できると考えている。そして、彼らは、神のみ名を敬わず、神の力を恐れもしない。彼らは、超自然ということを信じず、神の律法、また、彼らを通じて神のみこころを行われる無限の能力を理解しない。一般に、「自然の法則」という言葉は、物質界を支配する法則について、人間が発見し得たことを言うのである。しかし、人間の知識は、なんとかぎられていることであろう。そして、創造主はご自身の法則にかないながらも、なお、有限な人間の思考を超えて働かれる範囲はなんと広いことであろう。 PP 25.3

物体には、生命力があると多くの者が教えている。すなわち、ある特質が物体に与えられて、それはその固有の能力によって活動するようになっている。そして、自然の営みは、一定の法則に従って行われていて、神ご自身でさえそれに干渉することはできないと彼らは言う。これは、偽りの科学であって、神の言葉の支持を受けていない。自然は創造のしもべである。神は、神の法則を破棄したり、それに反して働かれることはないのであって、かえって、神の器として常に用いておられる。自然は、その法則のなかに一貫して、知性と実在と活動的勢力とが働いていることを証明している。父とみ子とは、自然のなかで、絶えず働いておられる。キリストは言われた。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)。 PP 25.4

レビ人たちは、ネヘミヤ記のなかで、こう賛美している。「あなたは、ただあなたのみ、主でいらせられます。あなたは天と諸天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、……これをことごとく保たれます」(ネヘミヤ9:6)。この世界に関するかぎり、神の創造のわざは終わった。「みわざは世の初めに、でき上がっていた」からである(ヘブル4:3)。しかし、神の力は、神が創造されたものを保つために働いている。 心臓が脈打ち、呼吸が続くのは、1度、始動させられた機構が、それ自体の力によって動き続けるのではない。すべての呼吸、すべての心臓の鼓動は、われわれが神のうちに「生き、動き、存在」していて、神の全体にみなぎる保護のもとにある証拠である(使徒行伝17:28)。地球が、年々豊富な収穫をもたらし、太陽の周りを運行し続けるのも地球自体の力によるものではない。神のみ手が惑星を導き、それぞれを定められた位置において、秩序正しく天を運行させておられる。神は、「数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、1つも欠けることはない」(イザヤ40:26)。草木が茂り、葉がもえ出て、花が開くのは、神の力によるのである。神は、「もろもろの山に草をはえさせ」、谷を肥沃なところになさる(詩篇147:8)。「林の獣は」「神に食物を求める」。小さい虫から人間に至るまで、すべての生命あるものは日毎に神のみ摂理の守りに依存している。詩篇記者は、美しくこう歌っている。「彼らは……期待している。あなたがお与えになると、彼らはそれを集める。あなたが手を開かれると、彼らは良い物で満たされる」(同104:20、21、27、28)。神のみ言葉が風雨を支配する。神は、天を雲でおおい、地に雨を降らせられる。「主は雪を羊の毛のように降らせ、霜を灰のようにまかれる」(同147:16)。「彼が声を出されると、天に多くの水のざわめきがあり、また地の果から霧を立ちあがらせられる。彼は雨のために、いなびかりをおこし、その倉から風を取り出される」(エレミヤ10:13)。 PP 25.5

神は、万物の根源であられる。すべての正しい科学は、神のみわざと調和している。真の教育は、すべて神の統治に従うように導く。科学は、新しい驚異を展開する。科学は、天空高く舞い上がり、未知の深海を探る。しかし、その研究から、神の啓示に反するものは、何1つ示すことはできない。人々は、無知であるために、科学の助けをかりて、神についての偽りの考えを支持しようとする。しかし、自然という書と神のみことばとは、互いに光を照らし合っている。こうして、われわれは、創造主をあがめ、そのみ言葉をよく理解して信頼するように導かれる。 PP 26.1

限りある頭脳によっては、無限の神の存在、能力、知恵、そのみわざなどを知り尽くすことは不可能である。聖書の筆者は言っている。「あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか。それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか。その量は地よりも長く、海よりも広い」(ヨブ11:7~9)。地上の最大の知者であっても、神を理解することはできない。人間は絶えず探究し、学び続けても、なお、前方には無限が広がっている。 PP 26.2

しかし、創造のみわざは、神の力と偉大さを証拠立てている。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩篇19:1)。神のみ言葉の勧告に従うものは、科学のなかにも神を理解する助けがあることを見いだす。「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ1:20)。 PP 26.3