人類のあけぼの
第18章 苦闘の一夜
本章は、創世記32、33章に基づく PP 96.7
ヤコブは神の指示に従ってパダンアラムを出発したものの、20年前に逃亡者として歩いた道を引き返すのは、なんとなく不安なものであった。彼は、父をあざむいた罪を忘れることができなかった。彼は、自分の長い逃亡生活が、その罪の直接の結果であることを知っていた。彼は、日夜そうしたことを考えて良心に責められ心沈む思いで旅を続けた。生まれ故郷の山々が遠くに見え始めたとき、ヤコブは深い感動をおぼえた。彼の目前に、過去の出来事がはっきりと浮かび上がった。罪の記憶とともに、神の彼 に対するあわれみの情と、天の助けと導きの約束が思い出された。 PP 96.8
旅の終わりが近づくにつれて、彼は、エサウのことを考えて、不安な予感を感じた。エサウは、ヤコブが逃亡したあと、自分1人で父の財産を相続したつもりであった。そこへ、ヤコブが帰ってくるという知らせはヤコブが遺産を取りに来たと思わせる恐れがあった。エサウは、害を加えようとすれば、ヤコブに大きな損害を与えることができた。そしてエサウは、ヤコブに対する復讐のためばかりでなく、これまで、長年自己のものとみなしてきた富を確保するためにも、ヤコブに暴力をふるうことができた。 PP 97.1
主は、ふたたび保護のしるしをヤコブにお与えになった。彼らがギレアデ山から南下していると、彼らを保護するように、天の使いの軍勢が二軍に分かれて彼らの一隊の前と後ろを取り囲んでいた。ヤコブは、昔、ベテルで見た夢を思い出した。そして、カナンから逃亡したときに希望と勇気を与えた天使が、帰途の守護に当たっている確証を見て重い心が軽くなった。ヤコブは「『これは神の陣営です』と言って、その所の名をマハナイム(二軍または、2つの陣営)」と名づけた(創世記32:2)。 PP 97.2
しかし、ヤコブは、自分の安全を確保するなんらかの方法を講じなければならないことを感じた。そこで彼は兄弟に使者を送って、和解の言葉を伝えさせた。彼は、エサウにどう言うべきかを彼らにはっきりと教えた。2人の兄弟が生まれる以前から、兄は弟に仕えるといわれていたので、この記憶が感情を傷つけてはならなかった。そこで彼は、彼のしもべたちが彼の「主人エサウ」のところに送られているのだと言った。そして、彼の前に現れたときには、自分たちの主人のことを、「あなたのしもベヤコブ」と呼び、彼が貧しい放浪者として父の財産を要求するために帰国したと思われないために、注意ぶかく次のように言わせた。 PP 97.3
「わたしは牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでわが主に申し上げて、あなたの前に恵みを得ようと人をつかわしたのです」(同32:5)。 PP 97.4
しかし、しもべたちは、エサウが400人を率いて近づいていることと、彼の友好的伝言にはなんの返答もしないという知らせを持って帰った。エサウは復讐のために来ているにちがいなかった。天幕は恐怖に満たされた。「ヤコブは大いに恐れ、苦し」んだ(同32:7)。彼は、引き返すことも、前に進むこともできなかった。武装も防備もない彼の一隊は、敵と戦う用意は全くなかった。そこで彼は、彼らを二組に分け、一組が攻撃されれば他の一組が逃げられるようにした。彼は、多くの群れのなかから数多くの贈り物を、友好的言葉とともにエサウのところに送り出した。彼は、自分の力のかぎりを尽くして兄弟に対する過去の悪行の償いをしようとした。そして、心を低くして悔い改めるとともに、神の保護を祈り求めた。「『おまえの国へ帰り、おまえの親族に行け。わたしはおまえを恵もう』と言われた主よ、あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。わたしは、つえのほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は2つの組にもなりました。どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます」(同32:9~11)。 PP 97.5
こうして彼らはヤボクの渡しに着いた。そして、夜になったので、ヤコブは家族の者たちに川の浅瀬を渡らせ自分は1人であとに残った。彼は、その夜祈り明かすことにし、神と自分だけになりたいと思った。神は、エサウの心を和らげることがおできであった。ヤコブは、神に頼るほかなかった。 PP 97.6
そこはものさびしい山地で、野獣がひそみ、盗賊や人殺しが出没するところであった。ヤコブは、ただ1人でなんの防備もなく、深い悲しみに沈んで地にひれ伏した。それは真夜中であった。彼の愛する家族の者たちがみな遠くへ行き、危険と死にさらされている。彼にとって何よりもつらいことは、彼自身の罪悪のゆえに、罪のない者たちが危険にさらされることであった。彼は、真剣な叫びと涙をもって神に祈った。すると突然、力強い手が彼の上におかれた。彼は、敵が彼の命をねらっているのだと思い、敵の手か らのがれようと全力を尽くした。暗黒のなかで、両者は必死に争った。ヤコブは一言も言わなかったが、全力を尽くして一瞬でも力をゆるめようとしなかった。こうして、必死の戦いをしながらも、彼は罪の意識に心が重かった。彼の罪が彼の前に立ちはだかって、彼を神から引き離すのであった。しかし、この恐るべき窮地にあって、彼は神の約束を思い起こした。そして、彼は真心から、神の隣れみを哀願した。 PP 97.7
格闘は夜明け近くまで続いた。見知らぬ相手の指がヤコブの腰に触れるや、彼はたちどころに障害のある身になってしまった。ヤコブは、この敵がだれであるかがわかった。彼は天使と戦っていたことを知った。彼のほとんど超人的力でも勝てなかったのはそのためであった。この方は、「契約の天使」キリストで、ご自分をヤコブに現された。不能となり、激しい痛みに苦しみながらも、ヤコブは、彼を放そうとしなかった。ヤコブは悔いくずおれて天使にすがり、「泣いてこれにあわれみを求め」、祝福を懇願した(ホセア12:4)。彼は、罪の赦しの確証をどうしても受けなければならなかった。肉体がどんなに苦痛を感じても、この目的から心をそらせることはできなかった。彼の決意はますます強く、信仰は燃え、最後まで耐えぬこうとするのであった。天使は、ヤコブからのがれようとして、「夜が明けるからわたしを去らせてください」と言ったが、ヤコブは答えて、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と言った(創世記32:26)。もしこれが、ヤコブの高慢無礼で自己過信から出たものであれば、彼は、直ちに滅ぼされたことであろう。しかし、それは、自己の無価値を告白するとともに、神が忠実に約束を果たされることを信頼する者の確信であった。 PP 98.1
ヤコブは「天の使と争って勝」った(ホセア12:4)。罪深く、まちがいを犯した人間が、謙遜と悔い改めと自己降伏とによって、天の王に勝ったのである。彼はふるえる手で神の約束にすがった。そして、無限の愛に富む神の心は、罪人の哀願を退けることができなかった。 PP 98.2
欺瞞によって長子の特権を獲得するという罪にヤコブを陥れた誤りが、彼の前にはっきりと示された。彼は、神の約束に信頼せず、神が、ご自分の時と方法によって達成しようとされることを、自分の努力で実現させようとした。彼が赦された証拠として、彼の名が、彼の罪を思い起こさせるものから、勝利を記念する名に変えられた。「あなたはもはや名をヤコブ〔おしのける者〕と言わずイスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」と天使は言った(創世記32:28)。 PP 98.3
ヤコブは、彼の魂が願い求めた祝福を受けた。彼が人をおしのけ欺いた罪は赦された。彼の人生の危機は去った。疑惑、困惑、後悔の念が彼の生涯を苦しいものにしたが、今はすべてが変わった。神との和解による平安は楽しいものであった。ヤコブは、もう兄に会うことを恐れなくなった。彼の罪を赦された神は、エサウの心を動かして、ヤコブの謙遜と悔い改めを彼に受け入れさせることができるのであった。ヤコブが天使と格闘している間に、もう1人の天使がエサウのところに送られた。エサウは夢のなかで、父の家から20年の間離れて暮らした弟を見た。また、彼が母親の死を知って、どんなに悲しむかを見た。そして彼が、神の軍勢に囲まれているのを見た。エサウは、この夢を兵卒たちに語った。そして、彼の父の神がヤコブと共におられるから、彼に害を加えないように命じた。 PP 98.4
ついに、戦士を引き連れた砂漠の族長の一隊と、妻子や羊飼いたち、侍女たち、それに多くの家畜や子の群れを従えたヤコブの一団とが、両方から接近した。ヤコブはつえによりすがりながら、戦士の一団に近づいた。彼は前夜の格闘のために、顔は青さめ、からだの自由を失い、痛みに耐えながら、休み休み足を運んだ。しかし彼の顔は喜びと平和に輝いていた。からだの自由を失った彼を見て、「エサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた」(同33:4)。エサウの荒武者たちの心も、この光景に強く心を打たれた。エサウが彼らに夢の話をしてはいたものの、彼らは首領の心の変化を理解することができなかった。彼らは、ヤコブの弱々し い姿を見た。しかし、この彼の弱さが、彼の力の原因であったことを知ることはできなかった。 PP 98.5
ヤコブは、破滅が目前に迫って、ヤボク川のほとりで苦闘した夜、人間の助けのむなしさと、人間の力に頼ることの不安定さとを教えられた。彼は、唯一の援助は神から来るべきであることを悟った。しかも彼は、その神に対して恐ろしい罪を犯したのであった。彼は、自分の無力と無価値とを認めて、罪を悔い改める者に神が約束された憐れみを願い求めた。彼が神に赦され、受け入れられたことを保証するものはこの約束であった。天地は過ぎ去っても、この言葉は必ず成就する。あの恐ろしい格闘のときに彼を支えたのはこれであった。 PP 99.1
ヤコブの格闘と苦悩の夜の経験は、神の民が、キリスト再臨の直前に経験しなければならない試練をあらわしている。預言者エレミヤは、清い幻のなかでこの時代をながめて言った。「われわれはおののきの声を聞いた。恐れがあり、平安はない。……どの人の顔色も青く変っている……悲しいかな、その日は大いなる日であって、それに比べるべき日はない。それはヤコブの悩みの時である」(エレミヤ30:5~7)。 PP 99.2
キリストが、人間のための仲保者の働きを終了されるとき、この悩みの時が始まる。そのときに、すべての人の運命が決定され、罪を清める贖いの血はもうないのである。イエスが人間のために、神の前に立つ仲保者としての地位を去られるときに、厳粛な宣言が下される。「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」(黙示録22:11)。すると、神の霊の制御力が地から取り除かれる。ちょうど、ヤコブが、怒った兄エサウに殺されそうになったのと同様に、神の民も彼らを滅ぼそうとする悪者に生命を脅かされる。そして、ヤコブがエサウの手から救い出されることを1晩中祈ったように、義なる者は彼らの周囲の敵からの救済を日夜祈り求める。 PP 99.3
サタンは、神の天使たちの前でヤコブを訴え、彼は罪を犯したから、彼を滅ぼす権利があると主張した。サタンは、エサウを動かして、ヤコブに対して軍勢を進ませた。また、サタンは、ヤコブが一晩中格闘している間、罪を思い起こさせ、彼を失望させ、神にすかるのをやめさせようとした。この苦悩のときに、ヤコブは天使を捕えて涙ながらに訴えたのである。すると、天使は、彼の信仰を試みるために、彼の罪を思い出させて、彼からのがれようとした。しかし、ヤコブは天使を行かせなかった。彼は、神が憐れみ深いことを知っていたので、神の憐れみによりすがった。彼は、自分がすでに罪を悔い改めたことをさし示して、切に救いを願い求めた。ヤコブは、その生涯をふりかえってみると絶望するばかりであった。しかし彼は、天使を捕えてはなさず、苦悩の叫びをあげて真剣に願い求め、ついに聞かれたのである。 PP 99.4
神の民も、悪の勢力との最後の戦いにおいて、これと同じ経験をするのである。神は、神の救出力に対する彼らの信仰、忍耐、確信を試みられる。サタンは、彼らの絶望的であること、そして、彼らの罪は大きすぎて、赦しを受けることはできないと思わせ、彼らを恐怖に陥れようとする。彼らは、自分の欠点を十分知っていて、その生涯をふりかえってみれば、絶望である。しかし、彼らは、神の大きな憐れみと自分たちの真心からの悔い改めを思い出す。そして、無力な罪人が悔い改めるときにキリストによって与えられる神の約束を懇願する。彼らの祈りが直ちに聞かれなくても、彼らの信仰はくじけない。彼らは、ヤコブが天使を捕えたように、神の力をしっかり握って、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と心から言うのである。 PP 99.5
もし、ヤコブが欺瞞によって長子の特権を獲得した罪を、前もって悔い改めていなかったならば、神は彼の祈りを聞き、彼の命を憐れみのうちに保護なさることはできなかった。それと同様に、悩みの時においても、神の民が恐怖と苦悩にさいなまれるときに、告白していない罪が彼らの前に現れてくるならば、彼らは圧倒されてしまうであろう。絶望が彼らの信仰を切り離し、神に救済を求める確信を持てなくする。 しかし彼らは自己の無価値なことを深く認めるけれども、告白すべき悪を隠していない。彼らの罪は、キリストの贖罪の血によってぬぐい去られていて、彼らはそれを思い出すことができないのである。 PP 99.6
サタンは、人生の小事に忠実でなくても神はそれを見すごされるというように多くの人々に信じこませる。しかし、神は、悪を是認も黙認もなさらないことが、ヤコブを扱われた方法によって示された。罪の弁解をして隠そうとする者、そして罪を告白せず赦されないまま、天の記録に罪を残しておく者は、みな、サタンに打ち負かされる。彼らがりっぱなことを言い、栄誉ある地位にあればあるほど、彼らの行為は、神の前にいまわしく、大いなる敵は確実に勝利を収める。 PP 100.1
しかし、ヤコブの生涯は、罪に陥っても真に悔い改めて神にたち帰る者を、神は見捨てられないことを証明している。ヤコブが、自分の力をふるって獲得できなかったものを得たのは、自己降伏と堅い信仰によってであった。こうして、神は、彼の熱望した祝福を与え得るものは神の能力と恵みだけであることを教えられた。最後の時代においてもこれと同様である。彼らは危険に当面し、絶望に陥るとき、ただ、贖罪の功績だけに頼らなければならない。われわれは自力では何もできない。全く無力で無価値なわれわれは、十字架につけられ復活された救い主の功績に頼らなければならない。そうするかぎり、だれ1人滅びることはない。 PP 100.2
われわれの罪の長い暗黒の記録は、無限の神の目の前におかれている。帳簿は完全である。われわれの罪は、1つとして忘れ去られてはいない。しかし、昔、神のしもべの叫びに耳を傾けられた神は、信仰の祈りを聞いて、われわれの罪を赦される。神は約束された。そして、神は約束を守られるのである。ヤコブは、不撓不屈の精神を持っていたから祈りが聞かれた。彼の経験は、たゆまず祈りぬくことに力があることを証拠だてた。今こそわれわれは、神に聞かれる祈りと不動の信仰についての教訓を学ばなければならない。キリストの教会、また、クリスチャン個々の最大の勝利は、才能や教育、あるいは富、または人間の援助によって得られるものではない。その勝利とは、神との交わりの部屋で熱心に苦闘する魂が、信仰によって力強いみ腕をつかむときに得られる。すべての罪を捨て、熱心に神の祝福を求めようとしなければそれを得ることができない。しかし、ヤコブのように、神の約束をしっかりにぎり、彼のように熱心に屈せず願い求める者はみな、彼のように聞かれるのである。「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう」(ルカ18:7、8)。 PP 100.3