人類のあけぼの

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第17章 ヤコブの逃亡と放浪

本章は、創世記28~31章に基づく PP 91.1

エサウの怒りに生命をおびやかされて、ヤコブは逃亡者となって父の家を出た。しかし、彼は、父の祝福をたずさえていった。イサクは、契約の約束をヤコブにもう1度くり返し、彼がその相続者であるから、メソポタミヤの母方の家族のなかから妻をめとるように命じた。しかしヤコブは、深く物思いに沈んでさびしい旅に出かけた。彼は、ただ1本のつえをたよりにして、荒々しい遊牧の民の住んでいる原野を何百キロも旅しなければならなかった。彼は後悔と恐怖に襲われ、怒った兄につけられないように人目を避けていた。彼は、神が彼に与えようとされた祝福を永遠に失ったのかと恐れた。そして、サタンは、そばで彼を試みるのであった。 PP 91.2

2日目の夕方、彼は父の家から遠く離れたところに来ていた。彼は、自分が放浪の身に陥ったことを感じた。そして、この苦しみは、すべて、自分のまちがった行為の結果であることを悟った。絶望の暗黒が、彼の心におしかぶさり、祈ることすらできなかった。しかし、その極度の寂しさのなかで、これまでになかったほどに神の保護の必要を痛感した。彼は、涙を流して深く恥じ入り、罪を告白し、自分が全く見捨てられていないという確証を願い求めた。それでも彼の重い心は軽くならなかった。彼は全く自信を失い、祖先の神は彼を見捨てられたのではないかと感じた。 PP 91.3

しかし、神はヤコブを見捨てられなかった。神の憐れみは、なお、罪深い不信のしもべに注がれていた。主はヤコブを憐れみ、彼が最も必要としていた救い主を示されたのである。彼は罪を犯した。しかし、ふたたび神の恵みに回復される道が示されたので、彼の心は感謝にあふれた。 PP 91.4

放浪者は旅に疲れ果てて、石をまくらにして地に横たわった。彼が寝ていると、1つの光り輝くはしごが地上に立ち、その頂が天に達しているのが見えた。このはしごの上を天使たちが上り下りしていた。その上のほうに栄光の主がおられて、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」という彼の声が天から聞こえた(創世記28:13)。彼がいま、放浪者、逃亡者として横たわっている地は、彼と彼の子孫に与えられることが約束された。そして、「地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう」という確証が与えられた。この約束は、アブラハムとイサクに与えられたものであったが、それがいまヤコブに繰り返して与えられた。それから、現在の彼の寂しさと苦悩を特に考慮して、慰安と激励の言葉が語られた。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」(同14、15)。 PP 91.5

主は、ヤコブを取りかこむ悪感化と、彼がさらされる危険を知っておられた。主は、この悔い改めた逃亡者をあわれみ、彼の未来を示して、彼に関する神のみこころを理解させ、彼がただひとりで、偶像礼拝者や陰謀をめぐらす人々の中に行ったときにあわねばならぬ誘惑に抵抗する準備を与えられた。彼は、自分の目ざすべき高い標準を常に念頭に持っていなければならなかった。そして、神の計画は自分によって成就されるのだという自覚のもとに、常に忠実に励まなければならなかった。 PP 91.6

この幻の中で順罪の計画が彼に示された。それは、十分なものではなかったが、当時の彼に必要な部分が与えられた。彼の夢のなかの神秘的なはしごは、キリストがナタナエルとの会話の中で引用されたのと同じものであった。「天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」と彼は言われた(ヨハネ1:51)。人間が神 の政府に反逆するまでは、神と人との間に自由な交わりがあった。しかしアダムとエバの罪が天と地とを隔ててしまったので、人間は創造主と交わることができなくなった。ところがこの世界は、孤立した絶望のうちに放任されたのではなかった。はしごは、交わりの仲介者として任命されたイエスを代表していた。もし、彼がご自分のいさおしによって、罪がもたらした深い淵に橋をかけて下さらなかったならば、奉仕の天使たちは、堕落した人類と交わることができなかったであろう。キリストは、弱く力ない人間を、無限の力の源泉につないで下さる。 PP 91.7

このようなことが、すべて夢の中でヤコブにあらわされた。彼の心は啓示のある部分をすぐに理解したけれども、その偉大で神秘的な真理は、彼の一生涯の研究であって、彼の心に少しずつ明らかにされていった。 PP 92.1

ヤコブが目をさますと、あたりはまだ夜の静けさに包まれていた。幻の輝かしい光景は消えていた。さびしい山々の輪郭の上に星空が輝いて見えるだけであった。 PP 92.2

しかし、彼は、神が自分と共におられるという厳粛な感に打たれた。見えない臨在が寂しい場所に満ちていた。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。……これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」と彼は言った(創世記28:16、17)。 PP 92.3

「ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注い」だ(同28:18)。重大な事件を記念するときの習慣に従って、ヤコブは神のあわれみの記念碑を立てた。それは、彼がこのあたりを通るときに、この神聖な場所にしばらく足をとめて主を礼拝するためであった。そして、彼はその場所をベテル「神の家」と呼んだ。彼は深い感謝の念をいだいて、神が彼と共におられるという約束をくりかえした。そして、彼は厳粛な誓いをたてた。「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたかくださるすべての物の10分の1を、わたしは必ずあなたにささげます」(同28:20~22)。 PP 92.4

ヤコブはここで、神と取引をしようとしているのではなかった。主は、すでに彼に繁栄を約束しておられた。だからこの誓いは、神の愛とあわれみの保証に対する感謝として彼の心からあふれ出たものであった。ヤコブは神に感謝を言いあらわす必要を感じた。そして特別に神の恵みのしるしが与えられたならば、神に返礼すべきであると思った。それと同様に、われわれも、与えられるあらゆる祝福に対して、すべての憐れみの源泉であられる神に感謝をあらわさなければならない。クリスチャンは、時おり自分の過去の生涯をふりかえってみて試練のときに支持が与えられ、暗黒と絶望のなかで道が開かれ、倒れるはかりのときに勇気づけられたことなど神から与えられた尊い救済の経験を思い出して感謝しなければならない。彼は、こうしたすべてのことを、天使の保護の証拠と認めるべきである。このような数えつくすことのできない祝福を思うとき、クリスチャンは、謙虚で、感謝の心をもって、「わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか」と時おりたずねてみなければならない(詩篇116:12)。 PP 92.5

われわれの時間、才能、財産などは、これらの祝福をわれわれに委託された神に捧げるべきである。われわれが特別に危険から救出されるとか、または、新しい予期しない恵みにあずかる場合には、言葉て感謝を表現するだけでなくて、ヤコブのように神のわざのために捧げ物や献金をして、神の恵みに感謝はう。われわれは絶えず神の恵みを受けているのであるから、絶えず捧げるべきである。 PP 92.6

「あなたがくださるすべての物の10分の1を、わたしは必ずあなたにささげます」とヤコブは言った(創世記28:22)。福音の十分な光と特権にあずかっているわれわれは、十分恵みにあずからなかった古代の人々が神に捧げた物よりも少なく捧げて満足すべきであろうか。いや、大きな祝福にあずかればあず かるほど、われわれの責任も、それに従って大きくなるのではなかろうか。しかし、われわれの評価はなんと低いことであろうか。はかり知れない愛と想像に絶する価値ある賜物に応えるに当たって、われわれの時間や金銭や愛を、数学的法則によって測ろうとすることはなんとむなしいことであろう。キリストのために、10分の1なのであるか。これほどの価値あるものに対して、ああ、なんと僅少で恥ずかしい返礼であろうか。カルバリーの十字架から、キリストは全的献身を求めておられる。われわれの持ち物も、われわれ自身も、すべてを神に捧げなければならない。 PP 92.7

ヤコブは、神の約束に対する新しい永続的信仰と、天使の存在と保護の確証をいだいて、「東の民の地」にむかって旅を続けた(同29:1)。ところが、約百年前に、アブラハムのしもべが到着したときとは、状態がなんと異なっていたことであろう。しもべは、らくだに乗った多くの召使をつれ、金銭とりっぱな贈り物を持って来た。ところがむすこは、旅につかれた旅人として、つえのほか何の持ち物もなく、たった1人でやってきた。ヤコブも、アブラハムのしもべのように、井戸のかたわらで休んだ。そして、彼が、ラバンの妹娘のラケルに会ったのはここであった。井戸から石を取りのけ、家畜に水を飲ませる手伝いをしたのは、今度はヤコブであった。ヤコブは、自分が彼らの親類であることを話して、ラバンの家庭に歓迎されることになった。彼は、持ち物も、供の者も連れずにやってきたが、わずか数週間て彼の熱心さと熟練さとか認められて、長く滞在するように勧められた。こうしてヤコブは、ラケルを妻にめとろためにラバンのために7年間働くことになった。 PP 93.1

昔、結婚の契約が正式に認められるに先だって、花婿はその身分に応じて、いくらかの金銭またはそれに相当する物品を、妻の父に手渡す習慣であった。これは、結婚関係の安全を保つものと考えられていた。父親は家族を養うたくわえもしていない男に、娘の幸福を託すことは安全でないと考えた。もし彼らが倹約と努力によって家業にはげみ、家畜や土地を手に入れることができないようであれば、彼らの一生は見込みがないと思われた。それでも、妻のために支払うものを何も持っていない者を試みる方法が設けられていた。彼らは、納入すべき結納金の額に応じて、きめられた期間、愛する娘の父親のために働くことが許された。氷婚者が忠実に任務を果たし、他の点でもりっぱであることを証明すれば娘を妻にすることかできた。そして、一般には結納金として父が受け取ったものは、結婚のときに娘に与えられた。しかし、ラケルとレアの場合は、両方とも娘たちに与えるべき結納金を、ラバンは利己的に自分のものにしてしまった。このことについて、彼らはメソポタミヤを出発する直前に言った。「彼はわたしたちを売ったばかりでなく、わたしたちのその金をさえ使い果したのです」(同31:15)。 PP 93.2

古代の習慣は、時おり、ラバンのように悪用する者はあっても、よい結果をもたらした。求婚者が妻を得るために働かなければならなかったことは、早婚を防ぎ、家族をささえる能力とともに、その愛情の深さをもためすよい機会であった。今日はこれと全く反対なので、多くの悪い結果が生じている。結婚に先だって、お互いの習慣や性質などについて知る機会はほとんどない場合が多い。そして、日常生活については全く他人同然で式をあげてしまう。彼らが互いに適合していないことを発見したときは時すでにおそく、その結婚が一生悲惨な結果に終わる者が多い。人であり父である者の怠惰と無能、または悪習慣のために、妻や子供たちが苦しい思いをする場合がある。もし、古代の習慣に従って、求婚者の性格を結婚の前にためすことができれば、大きな不幸を避けることができたであろう。 PP 93.3

ヤコブは、ラケルのために7年間忠実に働いた。そして、その年月は、「彼女を愛したので、ただ数日のように思われた」(同29:20)。ところが、利己的で強欲なラバンは、非常に貴重な働き人を引きとめておくため、無情にもラケルのかわりにレアを与えて、ヤコブを欺いた。レアもこうした欺きに加担したために、ヤコブは彼女を愛する気になれなかった。ヤコブか憤慨して、ラバンを責めると、ラバンはあと7年働けば ラケルを与えようと言った。しかし、ラバンは家族の恥であるから、レアを捨ててはならないと言い張った。こうしてヤコブは、心も張り裂けるばかりの苦境に立たされた。彼はついに、レアをとどめておいたまま、ラケルと結婚する決心をした。ヤコブが最も愛したのはラケルであった。しかし、彼が彼女を他の者より愛したことは、ねたみとそねみの原因となった。そして、彼の生涯は、姉妹のふたり妻の争いによって悲惨なものになった。 PP 93.4

ヤコブは、メソポタミヤに20年間とどまって、ラバンのために働いた。ところがラバンは、肉身のつながりを無視して、彼らの間柄から得られるだけの利益を得ようとしていた。ラバンはふたりの娘のために14年の労働をヤコブに要求した。そして、その後の期間においては、ヤコブの賃銀を10回も変更した。それにもかかわらずヤコブの働きは勤勉で忠実であった。ラバンとヤコブが最後に会ったときの会話のなかで、彼がラバンに言った言葉は、無情な主人のために彼がどんなにたゆまず務めたかを生々しく描写している。「わたしはこの20年、あなたと一緒にいましたが、その間あなたの雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわたしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。また野獣が、かみ裂いたものは、あなたのもとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。わたしのことを言えば、昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした」(同31:38~40)。 PP 94.1

羊飼いは、昼も夜も群れを守っていなければならなかった。羊の群れは盗まれるおそれがあった。また、数多くのどうもうな野獣に襲われる危険もあり、よく見張っていないと群れが襲われ、大きな損害をこうむるのであった。ヤコブの下で多くの羊飼いが働いていて、ラバンの広範囲にわたる群れを養っていたが、彼自身がすべての責任を負っていた。1年の中のある期間は、彼自身が群れといつもいて、乾燥期には群れがかわいて死なないように、また最も寒い数か月の間は、群れがひどい夜の霜にこごえないように守らなければならなかった。ヤコブは羊飼いのかしらであった。彼の雇い人たちは、彼の下で働く羊飼いであった。もし、羊がいなくなれば、羊飼いのかしらの損失であった。もし群れの状態がよくなければ、ヤコブはその群れの世話をまかせた者を呼んで、詳しい説明を要求した。 PP 94.2

羊飼いが勤勉でよく羊の世話をして、委ねられた無力な生き物を憐れむことなどを例にあげて、聖書の記者は、福音の最も尊い真理をいくつか説明している。キリストは、ご自分と民との関係を羊飼いにたとえられた。人間の堕落後、キリストはご自分の質が、罪の暗い道で滅びる運命に陥ったのを見られた。彼は、これらのさまよう人々を救うために、天の父の家の誉れと栄光とを捨てられた。「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし」「それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず」「地の獣も彼らを食うことはない」(エゼキエル34:16、22、28)。「昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所」である彼のおりに群れを導く彼の声が聞こえる(イザヤ4:6)。彼は根気強く群れを守られる。彼は弱い者を強め、苦しみを和らげ、腕に小羊をだき、ふところに入れてたずさえられる。羊は彼を愛する。「ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」(ヨハネ10:5)。 PP 94.3

キリストは言われる。「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている」(ヨハネ10:11~14)。 PP 94.4

大牧者キリストは、彼の牧者たちに、彼の下で働く羊飼いとして群れの世話をすることを委ねられた。そして、ご自分が持たれた同じ関心を彼らも持って、主から委ねられた任務の清い責任を感じるように命 じられる。主は、彼らに、忠実に群れを養い、弱ったものを強め、気絶しそうになったものを生きかえらせ、かみ砕くおおかみから彼らを守るように、厳粛にお命じになった。 PP 94.5

キリストは羊を救うために、ご自分の命を捨てられた。そして、彼は、彼の牧者たちに、このように表現された愛を彼らの模範としてお示しになる。しかし、「羊が自分のものでない雇人は」群れに対して真の関心をいだいていない。彼は、ただ利益のために働くのであって、自分のことしか考えない。彼は、委ねられたものの益ではなくて、自分の利益を図る。そして、危険が迫ってくると、群れを捨てて逃げてしまう。 PP 95.1

使徒ペテロは、羊飼いたちに勧めている。「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである」(Ⅰペテロ5:2、3)。パウロもこう言っている。「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている」(使徒行伝20:28、29)。 PP 95.2

忠実な羊飼いに負わせられる世話や重荷を、好ましくない務めとみなすすべての者を、使徒は責めて言う。「しいられてするのではなく、……自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい」(Ⅰペテロ5:2)。大牧者キリストは、こうした不忠実な羊飼いをすべて進んで解任される。キリストの教会は彼の血によって贖われたものであるから、すべての羊飼いは委ねられた羊のために無限の犠牲が払われたことを自覚しなければならない。そのおのおのに無限の価値を認めて、彼らを健康ですぐれた状態に保つために、たゆまず努力しなければならない。キリストの霊に満たされた羊飼いは、彼の自己否定の模範にならい、委ねられたものの幸福のために絶えず働くのである。そして、群れは彼の保護のもとに栄える。 PP 95.3

すべての者は、各自の任務の責任を問われる。主はすべての羊飼いに、「あなたに賜わった群れ、あなたの麗しい群れはどこにいるのか」と要求される(エレミヤ13:20)。忠実な者は、豊かな報いを受ける。「大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」と使徒は言っている(Ⅰペテロ5:4)。 PP 95.4

ヤコブがラバンの仕事に疲れて、カナンに帰ろうと思い、ラバンに言った。「わたしを去らせて、わたしの故郷、わたしの国へ行かせてください。あなたに仕えて得たわたしの妻子を、わたしに与えて行かせてください。わたしがあなたのために働いた骨折りは、あなたがこぞんじです」(創世記30:25、26)。しかし、ラバンは、彼にとどまることを勧めて言った。「わたしは主があなたのゆえに、わたしを恵まれるしるしを見ました」(同30:27)。彼は、財産がヤコブの管理下で増加したのを知った。 PP 95.5

ヤコブは言った。「わたしが来る前には、あなたの持っておられたものはわずかでしたが、ふえて多くなりました」(同30:30)。しかし、時がたつにつれて、「大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった」ヤコブを、ラバンはうらやむようになった(同30:43)。ラバンのむすこたちも、父親と同じように彼をねたみ、その悪意に満ちた言葉がヤコブの耳に入った。彼は、「われわれの父の物をことごとく奪い、父の物によってあのすべての富を獲たのだ」「またヤコブがラバンの顔を見るのに、それは自分に対して以前のようではなかった」(同31:1、2)。 PP 95.6

ヤコブは、エサウに会う恐れさえなければ、とっくの昔に、この悪賢い親類のもとを去っていたことであろう。ところがヤコブは、ラバンのむすこたちが、彼の富を自分たちのものだと考えて、暴力に訴えてでも手に入れようとする危険を感じた。彼は、非常に悩み苦し んで、どうしてよいかわからなくなった。しかし、彼は、ベテルでの慈悲深い約束を思い出し、この問題を神に訴えて指示を仰いだ。彼の祈りは夢のなかでこたえられた。「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいるであろう」(同31:3)。 PP 95.7

ラバンの不在のときが出発の絶好の機会であった。家畜や羊の群れが大急ぎで集められ、先に送り出された。そしてヤコブは、妻子、しもべたちを伴ってユフラテ川を渡り、カナンの国境にあるギレアデに向かって急いだ。ラバンは、彼らの逃亡を3日後に知ってその後を追いかけ、彼らが出発してから7日目に、彼らに追いついた。ラバンは、激怒していた。 PP 96.1

そして、彼の一隊はヤコブの群れよりははるかに強力だったので、わけなく彼らを引きもどせると思っていた。逃亡者たちは、まさに一大危機に当面した。 PP 96.2

ラバンの抱いた敵対心が実行に移されなかったのは、神ご自身が、彼のしもべを守護するために介入されたからである。「わたしはあなたがたに害を加える力をもっているが、あなたがたの父の神が昨夜わたしに告げて、『おまえは心して、ヤコブによしあしを言うな』と言われました」とラバンは言った(同31:29)。つまり彼は無理にヤコブを引き戻したり、または、有利な条件を出して誘ってはならなかった。ラバンは娘たちの結納金を取り上げ、ヤコブを、悪がしこくきびしく取り扱った。ところが、今、彼は、彼独特のそらぞらしい態度で、ヤコブがひそかに出発したことと、父親に告別の宴を開く機会を与えず、娘や孫たちに別れを言う暇を与えなかったことを責めた。 PP 96.3

それに答えて、ヤコブは明瞭にラバンの利己心と強欲な仕打ちを述べた。そして、彼白身の忠実さと誠実さをあかししてもらいたいと彼に訴えた。「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクのかしこむ者がわたしと共におられなかったなら、あなたはきっとわたしを、から手で去らせたでしょう。神はわたしの悩みと、わたしの労苦とを顧みられて昨夜あなたを戒められたのです」(同31:43)。 PP 96.4

ラバンは、ヤコブの言った事実を否定することはできなかった。そこで彼は、平和の契約を結ぼうと言った。ヤコブはその申し出に同意し、石を積み重ねて、その契約のしるしにした。ラバンは「われわれが互に別れたのちも、どうか主がわたしとあなたとの間を見守られるように」と言って、この石塚をミズパ(見守る塔)と名づけた(同31:49)。 PP 96.5

「更にラバンはヤコブに言った、『あなたとわたしとの間にわたしが建てたこの石塚をごらんなさい、この柱をごらんなさい。この石塚を越えてわたしがあなたに害を加えず、またこの石塚とこの柱を越えてあなたがわたしに害を加えないように、どうかこの石塚があかしとなり、この柱があかしとなるように。どうかアブラハムの神、ナホルの神、彼らの父の神がわれわれの間をさばかれるように』。ヤコブは父イサクのかしこむ者によって誓った」(同31:51~53)。この契約を確認するために、彼らは宴を開いた。彼らは、その夜楽しく語り合って過ごした。そして夜明けにラバンと彼の従者たちは去って行った。この離別を境にして、アブラハムの子孫とメソポタミヤの住民との接触はとだえてしまった。 PP 96.6