人類のあけぼの
第19章 カナンに帰る
本章は、創世記34~36章に基づく PP 100.4
ヤコブはヨルダン川を渡って、「無事カナンの地のシケムの町」に着いた(創世記33:18)。こうして、ふたたび故郷に安全に帰らせてくださいと、神に願ったべテルでのヤコブの祈りは聞かれた。彼は、しばらくの間シケムの谷に住んでいた。アブラハムが100年以上も前に初めて天幕を張り、約束の国で最初の祭壇を築いたのはここであった。ヤコブはここで、「天幕を張った野の一部をシケムの父ハモルの子らの手から100ケシタで買い取り、そこに祭壇を建てて、これをエル・エロへ・イスラエルと名づけた」(同33:19、20)。——「神、イスラエルの神」の意である。アブラハムと同様に、ヤコブも自分の天幕のそばに主のための祭壇をたて、朝夕の犠牲を捧げるときに、家族の者を集めた。また後に、彼が井戸を掘ったのもここであった。そして、それから17世紀が経過したときに、ヤコブの子であられる救い主イエスが来られて、真昼の暑さの中で、そのかたわらに休み、驚嘆して聞き入る人々に「永遠の命に至る 水」の泉についてお語りになったのである(ヨハネ4:14)。 PP 100.5
ヤコブとそのむすこたちのシケム滞在は、暴行と流血に終わった。家族のなかの1人の娘がはずかしめられた。そして娘の2人の兄弟は殺人罪を犯した。1人の軽はずみな若者の不法行為に対する報復として、町中が破壊され、男たちは殺された。このような恐ろしい結果の元をただせば、ヤコブの娘が、「その地の女たちに会おうと出かけて行」き、神を敬わない人々と交際しようとしたからであった。神を恐れない人々の中で楽しみを求める者は、自分をサタンの側において、彼の誘惑を招いているのである。 PP 101.1
シメオンとレビの非道な残虐行為には、それ相当の理由がなかったわけではなかった。しかし、シケム人への彼らの行動は、恐ろしい罪であった。彼らは、自分たちの策略を巧みにヤコブから隠していた。ヤコブは彼らの行った報復の知らせを聞いて恐怖に満たされた。彼は、むすこたちの虚偽と暴行にはなはだしく心を痛めて、ただこう言っただけであった。 PP 101.2
「あなたがたはわたしをこの地の住民……に忌みきらわせ、わたしに迷惑をかけた。わたしは、人数が少ないから、彼らが集まってわたしを攻め撃つならば、わたしも家族も滅ぼされるであろう」(創世記34:30)。しかし、ヤコブが彼らの流血の行為をどんなに悲しみ、きらったかということは、それから約50年後に、彼がエジプトでの臨終の床にあったときに言った言葉にあらわれている。「シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。……彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる」(同49:5~7)。 PP 101.3
このようなことは、深く恥じ入るべきことであるとヤコブは感じた。彼のむすこたちの性格のなかに、残酷と虚偽があらわれていた。天幕のなかには、偽りの神々があった。そして、彼の家族のなかでさえ、偶像礼拝が、ある程度まで根をおろし始めていた。もし、主が彼らにふさわしい取り扱いをされるとすれば、彼らが周りの国々の復讐を受けるのをそのまま放任されるのではなかろうか。 PP 101.4
こうして、ヤコブが苦しみに沈んでいたときに、主は、ベテルにむかって南へ進むように彼にお命じになった。ヤコブは、この場所のことを考えると、天使の幻と神のあわれみの約束だけでなくて、自分がそこで、主を自分の神にすると契ったことも思い出した。この聖なる場所に行くに先だって、彼の家族は偶像礼拝の汚れから清められなければならないと、ヤコブは決心した。そこで彼は、天幕にいるすべての者に命じた。「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かっわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」(同35:2、3)。 PP 101.5
ヤコブは深い感激にふけりながら、自分が父の天幕を逃げ出して、1人さびしく流浪の生活に入り、初めてベテルに来たときのこと、そして、主が夜の幻のうちに彼にお現れになった物語を語った。神がどんなに驚くべき恵みを彼にお与えになったかを思い起こしたときに、彼自身が感謝の念にあふれるとともに、彼のむすこたちもまた強く心を打たれた。これは、彼らがベテルに着いてから、神の礼拝に参加するのにこの上もないよい準備であった。「そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた」(同35:4)。 PP 101.6
神は、カナンの住民の心に恐怖心を起こされたので、彼らはシケムの虐殺の復讐をしなかった。ヤコブの一族は、無事、ベテルに到着した。主は、ここで再びヤコブに現れて、契約の約束を新たにされた。「そこでヤコブは神が自分と語られたその場所に、1本の石の柱を立て」た(同35:14)。 PP 101.7
ヤコブは、ベテルで、彼の父の家の尊ばれた一員として長く共に暮らしていたリベカのうば、デボラの死を悲しむために呼ばれた。デボラは、女主人のリベカに従って、メソポタミヤからカナンの地に来たのであった。この婦人の存在は、ヤコブに自分の幼かっ たころ、特に、強くやさしい愛をもって自分をはぐくんでくれた母をなつかしく思い起こさせた。デボラは大きな悲しみのうちに、かしの木の下に葬られ、その木は、「なげきのかしの木」と呼ばれた。デボラの忠実な奉仕の生活の記念と、その死に対する人々の悲しみとが、神のみ言葉のなかに保存される価値のあるものとみなされたことは、注目に値することである。 PP 101.8
ベテルからヘブロンまでは、わずか2日で行ける所であったが、その途中でヤコブは、ラケルの死という耐えがたい悲しみに出会った。ヤコブは、彼女のために7年間の労働に2度も従事したが、彼女を愛したためにその労苦をいとわなかった。その愛がいかに深く永続的なものであったかは、ずっと後になって、ヤコブが死に臨んだときにたずねてきたに、その生涯をふりかえって言った言葉のなかにあらわれている。「わたしがパダンから帰って来る途中ラケルはカナンの地で死に、わたしは悲しんだ。そこはエフラタに行くまでには、なお隔たりがあった。わたしはエフラタ、すなわちベツレヘムへ行く道のかたわらに彼女を葬った」と彼は言った(同48:7)。ヤコブは、その長い苦しい一生の出来事のなかで、ただラケルの死だけを思い起こしたのである。 PP 102.1
ラケルは死ぬ前に、2番目のむすこを生んだ。彼女は、最後の息のなかから、その子を「ベノニ」(わたしの悲しみの子)と呼んだ。しかし、父親は「ベニヤミン」(わたしの右の手の子、またはわたしの力)と名づけた。ラケルは、死んだ場所に葬られた。そして、記念のためにその場所に柱が建てられた。 PP 102.2
エフラタへ行く途中で、もう1つのかくれた罪悪がヤコブの家族を傷つけ、長子ルベンは、長子の特権と名誉とを失うにいたった。 PP 102.3
ついに、ヤコブは旅路の終わりに来た。そして、「ヘブロンのマムレにいる父イサクのもとへ行った。ここはアブラハムとイサクとが寄留した所である」(同35:27)。彼は父が死ぬまでここにとどまっていた。衰弱して目の見えないイサクにとって、長く離れていたむすこの親切な心づかいは、1人さびしくとり残された彼の晩年の慰めであった。 PP 102.4
ヤコブとエサウは、父の臨終の床で出会った。かつて兄は、このときを復讐の機会にしようとしていたのであったが、その後、彼の気持ちは大きく変わった。そして、ヤコブは、長子の特権の霊的祝福に満足して、父の富の継承を兄に譲った。エサウが求め尊んだ遺産もこれだけであった。彼らは、もう、ねたみや憎しみによって仲たがいをしてはいなかったが、彼らは別れて、エサウはセイル山に移っていった。豊かな祝福をお与えになる神は、ヤコブが求めた更にすぐれたものをお与えになっただけではなく、それに加えて世の富もまたお与えになった。2人の兄弟の「財産が多くて、一緒にいることができなかったからである。すなわち彼らが寄留した地は彼らの家畜のゆえに、彼らを支えることができなかったのである」(同36:7)。こうして別れることは、ヤコブに関する神のみこころにかなったことであった。兄弟たちは、その信仰が著しく異なっていたから、彼らが別れて住むほうがよかったのである。 PP 102.5
エサウとヤコブは、同じように神の知識を授けられた。そして、2人は自由に神の戒めの道を歩いて、神の恵みにあずかることができたのである。しかし、彼らは、2人ともそうはしなかった。2人の兄弟は、異なった道を歩き、彼らの道はさらに広く大きく別れていくのであった。 PP 102.6
神が独断的選択を行い、エサウを救いの祝福から閉め出されたというようなことはない。神の恵みの賜物はキリストによって、すべての者に分け隔てなく与えられている。人間が滅びるのは、自分自身の選択によるのであって、そのように選ばれたのではない。神は、み言葉の中に、すべての魂が永遠の命に選ばれる条件をお示しになった。それは、キリストを信じる信仰によって、神の戒めに従うことである。神は、神の律法と一致した品性を選ばれるのであるから、だれでも神の要求される標準に達する者は、栄光の王国にはいることができる。キリストご自身はこう言われた。「御子を信じる者は永遠の命をもつ」(ヨハネ3:36)。 PP 102.7
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな 天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)。そして、主は、黙示録のなかで言われる。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(黙示録22:14)。人間の最後の救いについて、み言葉の中にあらわされている選びとは、これだけである。 PP 102.8
おそれおののいて自分の救いを達成しようとする者はみな選ばれている。武具をまとって、信仰のよき戦いをする者は選ばれている。目をさまして祈り、み言葉を研究し、誘惑からのがれる者は選ばれている。常に信仰を持ち、神のみ口から出るすべてのことばに従おうとする者は選ばれている。贖罪に必要なことがらはすべての者に無代で与えられている。贖罪の成果は、条件に応じる者に与えられる。 PP 103.1
エサウは契約の祝福を軽べつした。彼は霊的利益よりは、物質的利益を高く評価した。そして、彼は望んでいたものが与えられた。彼が神の民から離されたのは、彼自身が故意にそう選んだのであった。ヤコブは、信仰の遺産を選んだ。彼は、策略と欺きと偽りによってそれを手にしたが、神は、彼の罪が矯正されていくことをお許しになった。ヤコブは、その後あらゆる苦い経験をなめたのであったが、自分の志をひるがえしたり、自分の選択を放棄したりはしなかった。彼は、人間の技巧や策略にたよって祝福を得ようとすることは、神にさからっていることであることを学んだ。ヤコブは、ヤボクの渡しで、夜、組打ちをしてから後は全く変わった人になった。自己過信が根本からぬき取られた。それ以来、初めのころの狡猾さがみられなくなった。策略と欺瞞のかわりに、そぼくと真実さが彼の生活にあらわれた。彼は、全能のみ腕にひたすらたよるという教訓を学んだ。そして、試練と苦難のただなかにあっても、心を低くして神のみこころに従った。彼の品性の卑しい性質は炉の火で焼かれ、真の金が精練されて、アブラハムとイサクの信仰が、なんのかげりもなくヤコブのうちに見られるようになった。 PP 103.2
ヤコブの罪とその罪への一連の出来事は、悪影響を及ぼさないわけにはいかなかった。それは、彼のむすこたちの性質とその生涯に苦い実となってあらわれるにいたった。このむすこたちが成人したころ、彼らの性質に重大な欠点があらわれた。一夫多妻の結果が家庭内に明らかに見られた。この恐ろしい悪は、愛の源泉そのものを枯らし、その影響は最も神聖なきずなを弱める。数人の母のねたみは、家庭の関係をみじめなものにした。子供たちは争い合い、他からのさしずを受けるのをきらって成長した。そして、父親の生涯は心労と悲しみにおおわれ、暗くなった。 PP 103.3
しかし、ラケルの長男ヨセフは、著しく異なった性質の持ち主であった。彼のまれに見る容貌の美は、彼の精神と心の内面的美の反映であった。ヨセフは純粋で、活動的で、歓喜にあふれていた。そして、道徳的にも真剣で堅固な性質をあらわしていた。彼は、父親の教えに耳を傾け、神に従うことを愛した。後年エジプトに行ったとき、彼のうちに著しくあらわれた柔和、忠誠、誠実などの特性が、すでに彼の日常生活のなかに見られた。母親がなくなっていたために、彼は、父親に強い愛着をおぼえた。そして、ヤコブの心は、年をとってから生まれたこの子と堅く結ばれていた。彼は「他のどの子よりも」ヨセフを愛した。 PP 103.4
しかし、この愛情さえ、悩みと悲しみの原因になった。不覚にも、ヤコブはヨセフに対する偏愛を表面にあらわして、他のむすこたちのねたみを起こさせた。ヨセフは、兄弟たちの悪い行動を見て非常に苦しんだ。彼は、穏やかに兄弟たちに忠告したが、それはただ、彼らの憎しみと恨みをさらに激しくするだけであった。ヨセフは彼らが神に対して罪を犯すのを見るにしのびなかった。そこで彼は、そのことを父に話し、父の権威によって彼らを改めさせることができるように望んだ。 PP 103.5
ヤコブは、苛酷または厳格な処置をとって、彼らを怒らせることを注意深く避けた。ヤコブは、自分がどんなに子供たちのことを憂慮しているかを、強い感動 をもって話した。そして、父の自髪を尊びその名をはずかしめないように願った。特に、こうした神の律法を無視する行為によって、神の名を汚さないように彼らに熱心に訴えた。むすこたちは、彼らの悪行が父に知られたことを恥じ、悔い改めたように思われた。しかし、明るみに出たために彼らの気持ちはさらに悪化したが、彼らはそれをかくしているに過ぎなかった。 PP 103.6
普通なら偉い人々が着るような高価な上衣を、ヤコブが無分別にもヨセフに与えたことは、さらに父親の偏愛を示すものと思われて、年上の兄弟たちをさしおいて、ラケルのむすこに長子の特権を授けるのではないかという疑念をさえ起こさせるのであった。 PP 104.1
ある日、少年が、彼の見た夢を彼らに語ったために、彼らはますますヨセフを憎んだ。「わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立っと、あなたがたの東がまわりにきて、わたしの束を拝みました」とヨセフは言った(創世記37:7)。「あなたはほんとうにわたしたちの王になるのか。あなたは実際わたしたちを治めるのか」と兄弟たちは、彼をねたましく思い、怒って言った(同37:8)。 PP 104.2
やがて彼は、また同じような意味の夢をもう1つ見て、それを語った。「日と月と11の星とがわたしを拝みました」(同37:9)。この夢は、最初のものと同様にその意味がすぐわかった。そこにいた父は、彼をとがめて言った。「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」(同37:10)。彼の言葉はきびしい譴責であったけれども、ヤコブは、主がヨセフに将来のことをあらわしておられるのを信じた。 PP 104.3
ヨセフが兄弟たちの前に立ったとき、彼のりっぱな顔は、聖霊の啓示の光に輝いていたので、彼らは称賛せずにはおれなかった。しかし、彼らは、自分たちの悪行を捨てようとはせず、自分たちの罪を責める彼の純潔さを憎んだ。カインの心を動かしたのと同じ精神が彼らの心に燃え上がった。 PP 104.4
兄弟たちは、羊の群れの草を求めて、ここかしこと移動し、時には数か月も遠くへ行って家にいないことがよくあった。前述のような事情のあとで、兄弟たちは、父がシケムに買っておいた場所へ出かけて行った。ところが、しばらく時がたってもなんのたよりも来ないので、父親は彼らの安全を気づかいだした。というのは、彼らが前にシケムの人々に残酷なことをしていたからである。そこで彼は、ヨセフを彼らのところへつかわし、彼らが安全かどうかを行って見てこさせることにした。もしヤコブが、兄弟たちのヨセフに対する憎悪心を知っていたならば、ヨセフを1人で彼らのところへは送らなかったであろう。しかし兄弟たちは注意深くヨセフに対する感情を表に出さなかった。 PP 104.5
ヨセフは喜んで父から離れていった。しかし、年とった父も、この若者も、ふたりがもう1度会うまでの間にどんなことが起こるのかを夢想だにしなかった。ヨセフは、1人で長いさびしい旅を終えてシケムに到着したが、兄弟たちや羊の群れはそこには見つからなかった。彼らのことを尋ねているうちに、1人の人がドタンに行くように教えてくれた。ヨセフはすでに50マイル以上も歩いてきたが、まだこれから15マイルも先に行かなければならない。しかし、ヨセフは、兄弟たちが自分には不親切であっても、なお彼らを愛していたから、彼らに会って父親を安心させようと思い、疲労を忘れて先へ急いだ。 PP 104.6
兄弟たちはヨセフが近づくのを見た。彼が、彼らに会うために遠くから旅をしてきて疲れて、うえているのであるから、兄弟の愛をもって喜んで迎えるべきであるにもかかわらず、彼らは激しい憎しみを和らげなかった。彼らは父の愛のしるしである上衣を見て、怒り狂った。「あの夢見る者がやって来る」と彼らはあざ笑って叫んだ。長い間ひそかにいだいていたねたみとふくしゅうの精神が、今彼らをとりこにした。「さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」と彼らは言った(同37:19、20)。 PP 104.7
もしルベンがいなかったら、彼らはその計略を実行していたことであろう。ルベンは兄弟を殺害することに加わることができなかった。そして、ヨセフを生き たまま穴に投げ入れて、そのままほうっておいて死ぬにまかせようと言った。しかし、ルベンはひそかにヨセフを助けて、父のところに帰らせようとたくらんでいた。ルベンは、その計画に一同の同意を得たあとで、自分の感情をおさえきれなくなった。そして自分の真の目的が何であるかを発見されるのを恐れて仲間を離れていった。 PP 104.8
ヨセフは危険が身に迫っていることも気づかず、さがしていた兄弟たちが見つかったことを喜んだ。しかし彼は、期待していたあいさつの言葉の代わりに、怒りとふくしゅうの目でにらまれて驚いた。彼は捕えられ、上衣を脱がされた。そのあざけりと脅かしは、彼らがヨセフの命を奪おうとしていることを明らかに示した。だれも彼の哀願に耳をかす者はなかった。彼は怒り狂った男たちのなすままになっていた。彼らは、ヨセフを荒々しく引っぱって行き、深い穴へ投げこんだ。そして逃げられないことを確かめた上で、そのままの状態で彼を餓死させようとした。こうして彼らは、「すわってパンを食べた」(同37:25)。 PP 105.1
しかし、兄弟たちのなかには、不安な気持ちをいだいた者があった。復讐によって得られると思った満足感がなかったのである。やがて旅人の一団が近づいてくるのが見えた。それはヨルダンの向こうのイシマエルの隊商で、香料その他の商品を持ってエジプトへ行く途中であった。ユダは、兄弟を穴の中においたまま死なせるよりは、異邦の商人に売ろうと言い出した。そうすれば、彼を都合よく追放することができて、殺さないですむ。「彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」と言った(同37:27)。他の者もみなこれに賛成したので、ヨセフは急いで穴から引き上げられた。 PP 105.2
ヨセフは、隊商を見るとすぐに恐ろしい自分の運命に気づいた。奴隷になることは死ぬよりも恐ろしい運命であった。恐ろしさのあまり、泣き叫んで、兄弟たち1人1人にすがって頼んだがなんの役にも立たなかった。あわれみの情を表した者もあったが、他の者から嘲笑されることを恐れて何も言わなかった。すべての者が、こうなっては引くに引けないところまで行ってしまったことに気づいた。もしもヨセフを救うならば、ヨセフは起こったことを父に知らせるにちがいない。そして父は、愛するむすこに対する彼らの残酷な行為を許すはずはないのであった。彼らは、ヨセフの哀願に対して心を鬼にして異邦の商人の手にヨセフを渡してしまった。隊商は進んで行き、やがて見えなくなった。 PP 105.3
ルベンが穴にもどってみると、ヨセフはいなかった。ルベンは驚きと自責の念にさいなまれて、自分の着物を裂き、兄弟たちのところに来て、「あの子はいない。ああ、わたしはどこへ行くことができよう」と叫んだ(同37:30)。ルベンは、ヨセフの運命を聞いてもう彼を取りもどすことができないことを知り、彼らと1つになってその罪をかくすようになってしまった。彼らは雄やぎを殺してヨセフの着物をその血にひたした。そしてそれを父のところに持って行って、これを野で見つけた、これはヨセフのではないかと思う、と言った。「わたしたちはこれを見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見さだめてください」と彼らは言った(同37:32)。 PP 105.4
彼らは、この時の恐ろしさを予期してはいたが、父の心がはり裂けるばかりに苦しみ、悲しみの窮みに達して泣き叫ぶのを目撃しなければならないとは思っていなかった。「わが子の着物だ。悪い獣が彼を食ったのだ。確かにヨセフはかみ裂かれたのだ」とヤコブは言った(同37:33)。むすこや娘たちがどんなに彼を慰めようとしてもむだであった。ヤコブは、「衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた」(同37:34)。時がたっても彼の悲しみは慰められなかった。「わたしは嘆きながら陰府(よみ)に下って、わが子のもとへ行こう」と言って彼は嘆き悲しんだ(同37:35)。むすこたちは、自分たちのしたことの恐ろしさを感じた。しかし彼らは父の譴責を恐れて、彼らの罪を心にかくしていた。それは自分たちにさえ、非常に大きな罪と思われたのである。 PP 105.5