人類のあけぼの
第71章 ダビデの罪と回心
本章は、サムエル記下11、12章に基づく PP 373.3
聖書には、人間を賞賛する言葉がほとんどない。この世に生存した最も善良な人々の美徳でさえ、聖書にあまり書かれていないのである。この沈黙は無意味ではない。そこに教訓が隠されている。人間が持っている美点は皆、神の賜物である。彼らの善行は、キリストを通して与えられた神の恵みによって行われた。彼らは、すべてを神に負うているのであるから、彼らがどんな人間で、どんな行為をしようとその誉れは神にだけ帰すべきである。彼らは、ただ、み手の中の器に過ぎないのである。そればかりではない。聖書の歴史のすべての教訓が教えているように、人間を賞賛し、高めることは危険である。なぜなら、人間が神に全く依存していることを見失い、自分自身の力にたよるようになると、彼は必ず堕落するからである。人間は、人間以上に強い敵と戦っている。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ6:12)。われわれは、自分の力で戦い続けることはできない。そして、心を神からそらし、自己高揚と自己依存に陥れるものは何であっても、必ずわれわれを敗北させるものである。聖書は、人間の能力にたよらず神の力にたよることを奨励するのをその主題としている。 PP 373.4
ダビデを堕落させたのは、自己過信と自己高揚の精神であった。甘言、陰険な権力の誘惑、ぜいたくなどが、彼に影響を与えずにはおかなかった。周りの国々との交際もまた悪影響を及ぼした。東方の諸王の間の習慣に従って、国民の間では許されない犯罪が王には許された。王には、国民と同様の自制をする義務がなかったのである。こうしたことは、すべて、罪が、はなはだしく憎むべきものであることを、ダビデに感じさせなくしたのである。そして、彼は心を低くして主の力にたよる代わりに、自分自身の知恵と力にたよりはじめた。サタンは、唯一の力の源である神から魂を引き離すとすぐに、人間の肉の心の汚れた欲望を起こさせようとする。敵の働きは、急激ではない。それは、最初は、突然でも驚くほどのものでもない。それは、原則の城塞をひそかにくつがえすことである。それは、初め、神に対する忠誠と、全く神に信頼することを怠るとか、世の風俗や習慣に従おうとする気持ちなどの、一見小さいことから始まる。 PP 373.5
ダビデは、アンモン人との戦争を終結する前に、軍務をヨアブに委ねて、エルサレムに帰った。スリヤ人はすでにイスラエルに降伏していた。そして、アンモン人の全滅も確実に思われた。ダビデは、戦勝の成果と彼の賢明で有能な統治の栄光に包まれていた。誘惑者が彼の心を捕らえる機会をつかんだのは、彼がくつろいで油断していた時であった。神が、ダビデを神との密接な交わりに入れ、大きな恵みを彼に現されたということが、彼の品性を汚さずに守る最も強力な刺激となっていなければならなかった。しかし、落ちついて、自己の安全が確保された時に、彼は神を手放した。ダビデはサタンに敗れて、魂に罪の汚点をつけた。国家の指導者として神の命を受け、神 の律法を施行するために神に選ばれた彼自身が、その戒めをふみにじった。悪人を恐れさせるべきであった者が、自分自身の行為によって、悪を勧めたのである。 PP 373.6
ダビデは若いころ、危険のまっただ中にあったとき、自分の潔白を意識して、自分のことを神に委ねることができた。主の手は、彼の足をつまずかせようとしておかれた無数のわなの間を導いて、無事に通らせてくださった。しかし、彼は、今、罪を犯しても悔い改めず、天の神の助けも導きも求めずに、罪のために陥った危険から、自分で脱出しようとしたのである。王を罪に陥れた美しい女バテシバは、ダビテの最も忠勇な将軍の1人ヘテ人ウリヤの妻であった。もし、犯罪が明るみに出たら、どういうことになるかは、誰も予測できなかった。神の律法は、姦淫の罪を犯した者に死の宣告を下していた。であるから、このように恥辱をこうむった高慢な軍人は、王の生命をとるか、あるいは国民に反逆を扇動して報復を企てるかも知れなかった。 PP 374.1
罪を隠そうとするあらゆる努力は、すべてむだに終わった。彼は、サタンの権下に自分を陥れてしまった。危険が彼を取り巻き、死よりもきびしい恥辱が迫っていた。脱出する道はただ1つしかないように思われた。そして、彼は絶望のあまり、急いで姦淫に殺人の罪を加えたのである。サウルの滅びを企てた者が、ダビデをも滅ぼそうとしていた。誘惑は異なっていたが、それらは、ともに神の律法を犯させるものであった。もし、ウリヤが戦場で敵の手によって殺されたならば、彼の死の責任を王が問われることはない。そして、バテシバは、なんの妨げもなくダビデの妻になることができ、疑惑は排除され、王の名誉は維持されるのであった。 PP 374.2
ウリヤは、自分自身の死の命令書を持って送り出された。彼によって王からヨアブへ送られた手紙は、こう命じていた。「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」(サムエル記下11:15)。ヨアブは、すでに非道な殺人の罪を1つ犯していたので、王の命令に従うことをためらわなかった。こうして、ウリヤはアンモン人の手によって倒れた。 PP 374.3
これまで、ダビデの王としての記録は、どんな王も及ばなかったほどのものであった。彼について、「そのすべての民に正義と公平を行った」と書かれている(同8:15)。彼の誠実さが、国民の信頼と忠誠をかち得たのであった。しかし、彼が神から離れ、悪魔に従った時に、彼は、一時的にサタンの手下になったのである。しかし、彼は、なお神が彼にお与えになった地位と権威を保持していた。であるから、彼は従う者の魂を危険に陥れるような要求をしたのである。こうして、神に対してでなくて、王に忠誠を尽くしたヨアブは、王が命令を下したために、神の律法を犯したのである。 PP 374.4
ダビデの権力は、神から与えられたものであって、それは、神の律法と調和した時にだけ行使されるべきものであった。彼が神の律法に反して命令を下した時には、それに従うことは罪となったのである。「おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたもの」であるが、神の命令に反したものに従ってはならない(ローマ13:1)。使徒パウロは、われわれが従うべき原則をコリント人に書いた。「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」(Ⅰコリント11:1)。 PP 374.5
ダビデの命令が実行されたという報告が彼に送られたが、それは、ヨアブにも王にもなんの関係もないように、注意深く表現されていた。ヨアブは、「その使者に命じて言った、『あなたが戦いのことをつぶさに王に語り終ったとき、もし王が怒りを起して、……言われたならば、その時あなたは、「あなたのしもべ、ヘテびとウリヤもまた死にました」と言いなさい』。こうして使者は行き、ダビデのもとにきて、ヨアブが言いつかわしたことをことごとく告げた」(サムエル記下11:19~22)。 PP 374.6
王は答えて言った。「『この事で心配することはない。つるぎはこれをも彼をも同じく滅ぼすからである強く町を攻めて戦い、それを攻め落しなさい』と。そしてヨアブを励ましなさい」(同11:25)。 PP 374.7
バテシバは、定められた日数の間、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時に、「ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となっ」た(同11:27)。自分の生命が危機に瀕した時でさえ、主が油を注がれた者に手を下さなかったほどに敏感な良心と強い栄誉尊重の心をもっていたダビデが、彼の最も忠実で勇敢な軍人の1人に対して悪事を行って殺害し、罪によって手にしたものを、ひそかに楽しもうとするまでに堕落したのである。ああ、精金はなんと曇ったことであろう。最も純粋な金は、なんと変化したことであろう。 PP 375.1
サタンは、最初から罪によって利益が得られると人々に言ってきた。こうして彼は、天使たちをあざむいた。同様に彼はアダムとエバを罪に誘惑した。彼は、今もなお、こうして多くの人々を神に従わせまいとしている。罪の道は好ましいもののように見せられているが、「その終りはついに死に至る道」である(箴言14:12)。この道に踏み込んでも、罪の結果の苦さを悟って、早くその道から離れた者は幸福である。神はダビデをあわれんで、彼が罪のいつわりの報酬によって完全な滅びに陥るままに放任されなかった。 PP 375.2
また、イスラエルのためにも、神の介入が必要であった。時の経過につれて、バテシバに対して行ったダビデの罪が明るみに出て、彼がウリヤの死を計画したのではないかという疑惑が起こった。主のみ栄えが汚された。主はダビデを恵み、高められた。ところがダビデの罪は、神の品性を誤表し、神のみ名をはずかしめた。それは、イスラエルにおける敬神の念の標準を下げ、多くの人々の心の中の罪に対する嫌悪感を低下させるものであった。他方では、神を愛することも恐れることもしない人々は、それによって、大胆に罪を犯すのであった。 PP 375.3
預言者ナタンが、ダビデに譴責の言葉を伝えるように命じられた。それは、恐ろしくきびしい言葉であった。たいていの王は、このような譴責を受ければ、譴責者を死刑に処することは確実であろう。ナタンは、神の言葉をひるまず伝えたが、それを天から授かった知恵によって語り、王の共感を呼び、良心を覚醒させ、彼自身のくちびるから、自分に死の宣告を下させたのである。預言者は、国民の権利を守るために神の任命を受けたダビデに、補償を必要とする不正と圧迫の物語を告げたのである。 PP 375.4
「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、貧しい人は自分が買った1頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから1頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」(サムエル記下12:1~4)。 PP 375.5
王は怒って叫んだ。「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を4倍にして償わなければならない」(同12:5、6)。 PP 375.6
ナタンは、王を見つめた。そして、彼の右手を天にあげ、厳粛に言った。「あなたがその人です」(同12:7)。彼は続けて言った。「どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか」(同12:9)。悪人は、ダビデのように、人間から犯罪を隠そうとする。彼らは、悪い行為を人間の目と記憶から永久に葬り去ろうとする。しかし、「すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない」(ヘブル4:13)。「おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない」(マタイ10:26)。 PP 375.7
ナタンは言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし……た。……どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをも ってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。……つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。……『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。……あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」(サムエル記下12:7~12)。 PP 375.8
預言者の譴責は、ダビデの心を感動させた。良心は目覚めた。彼の罪がどんなに憎むべきものであるかが明らかにされた。彼は、神の前に悔いくずおれた。彼は、くちびるをふるわせて言った。「わたしは主に罪をおかしました」(同12:13)。他人に対して犯した悪事は、すべて害を受けた者から神へとさかのぼるのである。ダビデは、ウリヤとバテシバの両方に恐ろしい罪を犯したことを痛感した。しかし、神に対する罪は、それより無限に大きかったのである。 PP 376.1
主に油を注がれた者に死刑を執行するものは、イスラエルにおいて思いだすことはできなかったのであるが、罪を犯して、まだ赦しを受けていないダビデは、神の急速な刑罰がくだって殺されるのではないかとおののいた。しかし、預言者によって、彼に言葉が送られた。「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう」(同12:13)。 PP 376.2
しかし、正義は維持されなければならなかった。死の宣告は、彼から、彼の罪の子に移された。こうして、王は悔い改める機会が与えられた。彼にとって、子供の苦痛と死とは、彼の刑罰の一部であったが、それは、自分の死よりもはるかに苦いものであった。預言者は言った、「あなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」(同12:14)。 PP 376.3
ダビデは、子供が撃たれたとき、断食と深くへりくだった思いをもって、その子の命のために嘆願した。彼は王衣と王冠とをぬいで、毎夜、地に伏して自分の罪のために苦しむ幼児のために、はりさけるばかりに悲しんで嘆願した。「ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとは」しなかった(同12:17)。個人または、町に刑罰の宣告が下された時に、謙遜と悔い改めによって災いが止められ、即座に赦しをお与えになる恵み深い神が、和解の使者を送られることがよくあったのである。ダビデは、こうしたことに心を励まし、子供の生命がある間、嘆願し続けたのである。しかし、子供が死んだことを聞いて、彼は静かに神の命に従った。彼が、自分自身で正当であると宣言した罪の報復の第一撃がくだったのであった。しかし、ダビデは、神の恵みに信頼して、慰めを得たのである。 PP 376.4
ダビデの堕落の記録を読んで、「なぜこの記録が公表されたのだろうか。天の神から非常な栄誉を与えられた者の生涯のこの暗い出来事を世界に知らせることを神はなぜよしとされたのだろう」と尋ねる人が非常に多い。預言者は、ダビデを譴責したとき、彼の罪について言った。「なんじこのわざによりて、主の敵に大いなるののしる機会を与え」た(同12:14・文語訳参照)。その後、各時代を通じて無神論者たちは、この暗いしみをもつダビデの品性を指摘し、勝ち誇るとともに嘲笑して、「これが神の心にかなった人だ」と叫んだ。こうして、宗教が恥辱をこうむり、神と神の言葉が冒瀆された。人々は、神を信じようとせず多くの者は、敬虔なよそおいの陰で大胆に罪を犯すようになったのである。 PP 376.5
しかし、ダビテの生涯は、罪を犯すことを勧めてはいない。彼が、神のみこころにかなった人だと言われたのは、彼が神の指示に従って歩んでいた時のことであった。彼が罪を犯した時に、悔い改めて、主に立ち返るまでは、そうではなかったのである。神の言葉は、「ダビデがしたこの事は主の目に悪であった」と明らかに宣言している(同11:27・文語訳参照)。主は、預言者を通じてダビデに言われた。「どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。……あなたがわたしを軽んじ……たので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう」(同12:9、10)。ダビデは罪を悔い改めて許赦され、主に受け入れられたのではあっ たが、彼は、自分自身がまいた種の痛ましい実を刈り取ったのである。彼と彼の家にくだった刑罰は、罪に対する神の憎しみを証明している。 PP 376.6
これまで、神の摂理は、敵のあらゆる策略からダビデを守り、直接サウルを制するために働いてきた。しかしダビデの罪は、彼と神との関係を変えた。主が彼の悪を是認することは、どうしてもおできにならなかった。主はサウルの敵意からダビデを保護したように、彼を、彼の罪の結果から保護する力を働かせることはおできにならなかった。 PP 377.1
ダビデ自身にも大きな変化が起こった。ダビデは、彼の罪とその広範囲に及ぶ影響とを自覚して、心がくだかれた。彼は、国民の前で恥辱をこうむった。彼の感化力は弱まった。これまで、彼の繁栄は、彼が主の戒めに忠実に従ったためであると考えられていた。しかし、彼の罪を知った国民は、さらにかって気ままに罪を行うに至った。彼自身の家の中での彼の権威と、むすこたちに尊敬と服従を要求する彼の力とは弱まった。彼は、罪を責めるべき時にも、自己の罪悪感のために沈黙を守った。これは、彼の腕を弱めて、彼の家の中で正義を行うことを不可能にした。彼の悪行がむすこたちに影響を及ぼした。そして、神は、そうした結果が起こらないように介入することをされなかったのである。神は、物事を自然のなりゆきにまかせられた。こうして、ダビデはきびしく罰せられた。 PP 377.2
ダビデは、堕落後、まる1年間というものは、一見、安泰に暮らしていた。表だった神の怒りのしるしはなかった。しかし、神の宣告は、彼の頭上にかかっていた。どんな悔い改めも避けることのできない刑罰と報復の日は、急速にしかも確実に近づいていた。それは、彼の全生涯を陰うつにする苦悩と恥辱であった。ダビデの例を引用して、自己の罪のとがを軽減しようと試みるものは、不真実な者の道は滅びであることを聖書から学ばなければならない。彼らも、ダビデのように悪の道から立ち直っても、罪の結果はこの世においてさえ、苦く耐えがたいものであることを知るであろう。 PP 377.3
ダビデの生涯は、神に大いに祝福され、恵まれた者でさえも、自分は安全であると思ったり、目をさまして祈ることを怠ったりすべきでないことを警告するためのものであった。こうして、これは心を低くして、神が教えようとされた教訓を学ぼうと努める者たちに対する警告となったのである。このようにして、世代から世代を通じて幾千という人々が、誘惑者の力に襲われる危険を自覚したのである。主から大きな栄誉を与えられたダビデの堕落は、彼らに自己不信の念を起こさせた。信仰によって与えられる神の力だけが、彼らを守ることができることを彼らは悟ったのである。彼らは、神の中に、彼らの力と安全とがあることを知って、サタンの領分に1歩でも踏み込むことを恐れた。 PP 377.4
神の宣告がダビデに下される以前から、彼はすでに、罪の実を刈り始めていた。彼の良心は休まらなかった。その時の彼の心の苦しみが、詩篇32篇に描かれている。彼は言っている。 PP 377.5
「そのとががゆるされ、 PP 377.6
その罪がおおい消される者はさいわいである。 PP 377.7
主によって不義を負わされず、 PP 377.8
その霊に偽りのない人はさいわいである。 PP 377.9
わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、 PP 377.10
ひねもす苦しみうめいたので、 PP 377.11
わたしの骨は古び衰えた。 PP 377.12
あなたのみ手が昼も夜も、 PP 377.13
わたしの上に重かったからである。 PP 377.14
わたしの力は、夏のひでりによって PP 377.15
かれるように、かれ果てた」 PP 377.16
(詩篇32:1~4) PP 377.17
そして、詩篇51篇は、神からの譴責の言葉が与えられて、ダビデが悔い改めたときの言葉である。 PP 377.18
「神よ、あなたのいつくしみによって、 PP 377.19
わたしをあわれみ、 PP 377.20
あなたの豊かなあわれみによって、 PP 377.21
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。 PP 378.1
わたしの不義をことごとく洗い去り、 PP 378.2
わたしの罪からわたしを清めてください。 PP 378.3
わたしは自分のとがを知っています。 PP 378.4
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。…… PP 378.5
ヒソプをもって、わたしを清めてください、 PP 378.6
わたしは清くなるでしょう。 PP 378.7
わたしを洗ってください、 PP 378.8
わたしは雪よりも白くなるでしょう。 PP 378.9
わたしに喜びと楽しみとを満たし、 PP 378.10
あなたが砕いた骨を喜ばせてください。 PP 378.11
み顔をわたしの罪から隠し、 PP 378.12
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。 PP 378.13
神よ、わたしのために清い心をつくり、 PP 378.14
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。 PP 378.15
わたしをみ前から捨てないでください。 PP 378.16
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。 PP 378.17
あなたの救の喜びをわたしに返し、 PP 378.18
自由の霊をもって、わたしをささえてください。 PP 378.19
そうすればわたしは、とがを犯した者に PP 378.20
あなたの道を教え、 PP 378.21
罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。 PP 378.22
神よ、わが救の神よ、 PP 378.23
血を流した罪からわたしを助け出してください。 PP 378.24
わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょ PP 378.25
う」 PP 378.26
(詩篇51:1~14) PP 378.27
こうして、祭司、士師、つかさ、軍人たちの居並ぶ宮廷の国民の公の集会で歌われる聖歌の中で、彼の堕落は最後の世代にまで伝えられるのであった。イスラエルの王は、彼の罪と悔い改めと、神の恵みによって赦される希望とを語ったのである。彼は、自分の罪を隠そうとせずに、彼の堕落の悲しい物語によって、他の者が教訓を受けるようにと望んだのである。 PP 378.28
ダビデは、心から深く悔い改めた。彼は、自分の罪の弁解をしようとはしなかった。彼は、自分に下る刑罰からのがれようと望まずに、神に祈りを捧げた。しかし、彼は、神に対する自分の罪の大きさを認めた。彼は、自分の心の汚れを悟った。彼は、自分の罪を嫌悪した。彼が祈ったのは、ただ赦されることだけでなくて、心が清められることであった。ダビデは、絶望して苦闘を放棄することをしなかった、悔い改める罪人に対する神の約束の中に、赦されて受け入れられる証拠を彼は見たのである。 PP 378.29
「あなたはいけにえを好まれません。 PP 378.30
たといわたしが燔祭をささげても PP 378.31
あなたは喜ばれないでしょう。 PP 378.32
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。 PP 378.33
神よ、あなたは砕けた悔いた心を PP 378.34
かろしめられません」 PP 378.35
(詩篇51:16、17) PP 378.36
ダビデは倒れたのであるが、主は彼を起こされた。彼は、堕落する以前よりももっと神と調和し、同胞と心を1つにするようになった。彼は、解放された喜びを歌った。 PP 378.37
「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、 PP 378.38
自分の不義を隠さなかった。 PP 378.39
わたしは言った、 PP 378.40
『わたしのとがを主に告白しよう』と。 PP 378.41
その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。 PP 378.42
…… PP 378.43
あなたはわたしの隠れ場であって、 PP 378.44
わたしを守って悩みを免れさせ、 PP 378.45
救をもってわたしを囲まれる」 PP 378.46
(詩篇32:5~7) PP 378.47
神は、こうしたことよりは、はるかに軽く思われる罪を犯したサウルを拒否したあとで、このように大罪を犯したダビデを赦すとは不公平であると言って、つぶやく人が多い。しかし、ダビデは謙遜に自分の罪を告白したが、サウルは譴責を軽んじて、心を頑固にして、悔い改めなかったのである。 PP 378.48
ダビデの生涯の中のこの出来事は、悔い改める罪 人にとって、非常に重大である。これは、人類の苦闘と誘惑、そして、神に対する悔い改めと、われらの主イエス・キリストに対する信仰に関して与えられた最も感銘深い例の1つである。これは、各時代を通じて、堕落して罪の重荷にあえぐ魂を鼓舞してきたのであった。罪に負け、今にも絶望に陥ろうとした神の子供たちの多くは、ダビデが罪に苦しんだとは言え、真心からの悔い改めと告白によって、神に受け入れられたことを思い出したのである。そして、彼らもまた勇気づけられて、悔い改め、神の戒めの道を歩もうと、ふたたび試みたのである。 PP 378.49
神の譴責を受けた時に、謙遜に罪を告白して悔い改める者は、誰でもダビデのように希望をもつことができるのである。信仰をもって神の約束を受け入れる者は、誰でも赦されるのである。 PP 379.1
主は、真に悔い改める魂を1人でもお捨てにならない。彼は、このように約束しておられるのである。「わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」(イザヤ27:5)。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(同55:7)。 PP 379.2