人類のあけぼの
第8章 ノアの洪水
本章は、創世記6、7章に基づく PP 46.5
ノアの時代、地は、アダムの罪とカインの殺人の結果2重ののろいを受けていた。しかし、これは、自然の表面に大きな変化を与えなかった。衰退の兆候は明らかに認められはしたが、地は、なお神の摂理 の賜物に恵まれて、豊かで美しかった。山々にはりっぱな樹木が繁茂し、枝もたわわなぶどうのつるをからませていた。広々とした庭園のような平原は、一面の緑で、数多くの草花が甘くにおっていた。地のくだものの種類は無類といっていいほど多かった。樹木は、その大きさ、美しさ、完全に整っている点などで、今日のどれよりもはるかにまさっていた。木目は、細かく、石のように堅く、石同様の永続性をもっていた。金、銀、宝石なども豊富にあった。 PP 46.6
人類は、まだ初期の活力を多く保っていた。アダムが、生命を長らえさせる木に近づくことができたときからわずか数代しか経ていなかったので、人間の一生はなお、世紀を単位として数えられていた。非凡の能力をもって計画し、実行することができた長命のこうした人々が、もし、神の奉仕のために自分を捧げていたならば、彼らは地上で創造主のみ名に誉れを帰し、彼らに生命をお与えになった神の目的にそい得たことであろう。しかし、彼らは、そうしなかった。偉大な体格と体力を持ち、その知恵深いことで有名な巨人がたくさんいた。彼らは、実に巧妙に驚くべきものを作り出すことにたけていた。しかし、彼らは、その技量と能力に応じて、ほしいままに悪を行う罪も大きかった。 PP 47.1
神は、これらの洪水前の人々に、多くの豊かな賜物をお与えになった。ところが彼らは、自分自身をあがめるためにそれを用い、それをお与えになった方よりも、賜物そのものに愛着を持って、それらをのろいに変えた。彼らは、金、銀、宝石、最上の木材などを用いて自分たちの家を建築し、技術の限りを尽くして住居を飾りたて、互いにしのぎを削った。彼らは、自分たちの高慢な心の欲望を満たすことだけを求め、快楽と罪悪に夢中になっていた。彼らは、神のことを考えようともしなかったので、いつのまにか神の存在を否定するようになった。彼らは、自然の神のかわりに、自然を拝んだ。彼らは、人間の才能をたたえ、自分自身の手のわざを拝み、子供たちに刻んだ像を拝むことを教えた。 PP 47.2
彼らは、緑の野や形のよい樹木の陰に自分たちの偶像の祭壇を築いた。広大なときわ木の林は、偽りの神を礼拝するために捧げられた。これらの林には、美しい園が続いていて、その長くくねった小道にはあらゆる種類の木が枝もたわわに果実を実らせていた。また、そこには、人々の感覚をたのしませ、肉欲をほしいままにさせるものがすべて備わっていて、彼らを偶像礼拝に誘っていた。 PP 47.3
人々は神を全く忘れ、自分たちがかってにつくり上げたものを拝んでいた。その結果、彼らはますます堕落した。偶像を拝むものが偶像からどんな影響を受けるかについて、詩篇記者はこう言っている。「これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これに等しい者になる」(詩篇115:8)。ながめることによって変化するのは、人間の精神の法則である。人間は、真理、純潔、聖潔に関して、自分が持っている観念以上に到達するものではない。もし、精神が、人間的水準以上に高められず、無限の知恵と愛を瞑想するために信仰によって高尚にされないならば、人間は常に低い方へ低い方へと沈んでいくのである。偽りの神の礼拝者は、その神々に人間の性質と情欲とを付与した。こうして、彼らの品性の標準は罪深い人間の形に下落した。その結果、彼らは堕落したのである。「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた」「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」(創世記6:5、11)。神は、生活の規準として、律法を人々にお与えになったが、人々は、律法を犯し、そのためにありとあらゆる罪が生じた。人々は公然と、しかも大胆に悪を行った。正義は地にふみにじられ、圧迫される者の叫び声は天に達した。 PP 47.4
最初に、神が定められたことに反して多くの妻を持つことが早くから行われていた。主は、アダムに1人の妻を与えて、この事に関する神の定めを示された。しかし、堕落後、人々は自分たちの罪深い欲望を満たそうとした。そのために、犯罪と不幸が急激に増加した。結婚関係や所有権は尊重されなかった。他人の妻でも財産でも、ほしいと思えば力づくで奪って、その暴力行為を彼らは勝ち誇った。彼らは、動物の 生命を奪うことを喜び、肉を食物に用いることによっって、彼らは、ますます残虐、凶悪になり、ついには、人間の生命に対して驚くべき無関心を示した。 PP 47.5
世界は、まだ黎明期であった。それにもかかわらず、はなはだしく罪悪がはびこり、神は、もはや耐え忍ぶことができなくなった。神は仰せになった。「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう」(同6:7)。神は、神の霊がながく人の中にとどまらないと宣言された。もし彼らが、罪によって、世界と地の豊かな宝を汚すのをやめないならば、神は、彼らを神の世界から消し去り、神が彼らを祝福するためにお与えになったものを滅ぼそうとされた。神は、野の獣、豊かな食物を供給した植物を一掃して、美しい地球を破滅と荒廃の広漠としたところに変えようとされた。 PP 48.1
堕落がはびこるさなかにあって、メトセラ、ノアなどその他多くの者は真の神の知識を保ち、道徳的罪悪の潮流を止めようと努めた。洪水の起こる120年前に、主は天使によってみこころをノアに伝え、箱舟を造ることを指示された。ノアは、箱舟を造りながら、神が洪水によって悪人を滅ぼされることを説かなければならなかった。その言葉を聞いて、悔い改めと改革によってその事件に備える者は赦され、救われるのであった。エノクは、洪水について神から示されたことを子孫に語ってきかせた。そして、生きながらえてノアの説教を聞いたメトセラとむすこたちは、箱舟の建造を手伝った。 PP 48.2
神は、箱舟の正確な大きさと、その建造上の指示を明確にノアにお与えになった。人知では、こうしたがんじょうで耐久性のある建造物を考案することは不可能であった。神が設計家て、ノアが建築家であった。それは水に浮くように、船の形に造られてはいたが、ある面では家屋によく似ていた。それは3階建てで、ただ1つの入り口が横についていた。あかりは上からとってあって、各部屋が明るくなるように工夫されていた。箱舟を建造するために用いられた材木はいとすぎの木で、それは、数百年たっても腐らないものであった。この巨大な建造物の工事は遅々として進まず、骨のおれる仕事であった。樹木の大きさとその質の関係上、当時の人々は、そのはるかにすぐれた力をもってしても現在の製材よりも非常に労力が多くかかった。工事の完壁を期するために、人力のかぎりか尽くされた。しかし、箱舟は、やがて地をおそう暴風雨に、それだけでは耐える力はなかった。荒れ狂う水の上で、神のしもべたちを守ることかできるのは神だけであった。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった」(ヘブル11:7)。ノアは、世に警告の使命を伝えるとともに、その行為によって、自分が真剣であることをあかしした。こうして彼の信仰は完成され、明白に示された。彼は、神が仰せになったことを、そのまま信じる模範を世に示した。彼は、全財産を箱舟につぎこんだ。彼が、この巨大な舟を陸上で建造しはじめると、群衆がこの奇妙な光景を見、風変わりな預言者の語る熱烈な言葉を聞こうと、四方から集まってきた。箱舟の槌音の1つ1つは、人々に対するあかしであった。 PP 48.3
最初、多くの者は、警告を受け入れたように思われた。しかし、彼らは、真に悔い改めて神に立ち帰ったのではなかった。彼らは、罪を捨てようとはしなかったのである。洪水が来るまで、しばらくの間、彼らの信仰は試みられたが、彼らはその試練に耐えられなかった。彼らは、一般の不信仰に負け、ついに、以前の仲間といっしょになって、厳粛な使命を退けた。ある者は、深く感動して、警告の言葉に聞き従おうとした。しかし、あざけり笑う者が多いために、ついに彼らと同調して、恵みの招待を拒み、やがてだれよりも大胆不敵に嘲笑する者になった。というのは、一度光を与えられながら、罪を示す神の霊に逆らった者ほど無謀で、罪の深みに沈む者はないからである。 PP 48.4
厳密な意味において、当時の人々は、全部偶像礼拝者であったのではない。神を礼拝すると公言する者が多くいた。彼らの偶像は、神を代表するものであって、人間はそれによって、神に関する明確な観念をいだくことができると彼らは主張した。この種 の人々が、率先してノアの説教を拒否した。神を物物質的対象によって表そうとすることによって、彼らの思いは暗くなり、神の威光と力とを見ることができなくなった。彼らは、神の品性の神聖さ、また、神の要求の神聖さも不変性も悟らなくなった。罪が一般に広く行われ、罪が罪と思われなくなって、ついに彼らは、神の律法は廃され、罪を罰することは神の品性に反するというようになった。そして、地に神のさばきが行われることを否定した。もし、あの時代の人々が、神の律法を守っていたならば、神のしもべの警告が、神の声であったことを認めたことであろう。しかし、彼らの心は光を拒んだために暗黒に閉ざされ、ノアの使命は妄想だとほんとうに思い込んだ。 PP 48.5
正しい側についたのは、大多数の群衆ではなかった。世をあげて神の義と神の律法に反対し、ノアは狂信者だと思われた。サタンは、エバを誘惑して神にそむかせようとしたときに、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」と言った(創世記3:4)。世的に栄誉を受けた偉人や賢者は、同じことをくり返して言った。「神の警告はおどしのためであって、実際には起こらない。驚く必要はない。神が造られた世界を滅ぼし、神が創造された人々を罰するようなことは決してない。安心せよ、恐れるな。ノアは熱狂的狂信家だ」。世の人々は欺かれた老人の愚かさを冷笑した。彼らは、神の前に心を低くするどころか、神が、神のしもべを通してお語りにならなかったのも同然で、彼らは不服従と罪悪にふけっていた。 PP 49.1
しかし、ノアは、暴風の中の岩のように立っていた。人々の侮りとあざけりに囲まれながら、彼は清廉潔白で不動の忠実さを示した。ノアの言葉には力があった。それは、神がそのしもべによって人間に語られる神の声であった。神との結合が、彼を無限の力によって強くした。彼は120年の間、人間の知恵で判断すればとうてい不可能だと思われる出来事に関して、当時の人々に厳粛な声で語った。 PP 49.2
洪水前の人々は、数世紀間に自然の法則は固定したと論じた。季節の移り変わりは周期的にやってきた。雨はそのときまで降ったことがなかった。地は、霧や露でうるおされていた。川は、まだあふれたことかなく、安全に海に注いでいた。定められた法則によって、水は堤を越えてあふれなかった。しかし、これを論じ合った人々は、「ここまで来てもよい、越えてはならぬ」と宣言して、水をとどめられたおかたのみ手を認めなかった(ヨブ38:11)。 PP 49.3
時が経過しても、自然界にこれといった変化が起こらないのを見て、初めは恐れおののいた人々も安心しだした。今日の多くの人が考えるように、自然のほうが、自然の神よりも上で、自然の法則は堅く定められたものであり、神ご自身もそれを変更することはできないものであると考えた。もし、ノアの使命が正しければ、自然はその軌道からはずれるであろうと彼らは論じ、その言葉が惑わしであり、最大の欺瞞であると世の人々に思いこませた。彼らは、警告が発せられる前に行っていた通りのことをなしつづけて、神の警告をあなどっていることを示した。彼らは、歓楽と饗宴をつづけた。彼らは、食べ、飲み、植え、建てなどして、将来得ようと望んでいる有利な立場について思いを練っていた。そして、彼らは、ますます罪悪の深みに沈み、神の要求を大胆に無視して、無限の神をおそれていないことを示した。もし、ノアの言葉に少しでも真理があるとすれば、知者、識者、偉大な人々がそれを理解するはずであると彼らは言った。 PP 49.4
もし、洪水前の人々が、警告を受け入れ、その悪行を悔い改めたならば、主は後にニネベになさったと同様に彼の怒りをとどめられたことであろう。しかし、その時代の人々は、良心のとがめと神の預言者の警告に頑強に逆らって、彼らの罪の升目を満たし、滅亡の期は熟した。 PP 49.5
彼らの猶予の期間は、まもなく終わろうとしていた。ノアは、神からの指示に忠実に従っていた。箱舟は、主のさしず通りにすべてのところが完成し、人間と動物の食糧が貯蔵された。そして、今、神のしもべは彼の最後の厳粛な訴えを人々にした。彼は、言葉では表現できない心の苦しさをもって、避難所があるうちに救いを求めるように訴えた。彼らは、またもや彼の言葉を退け、ののしりとあざけりの声をあげた。突 然、あざける群衆は沈黙した。最もおとなしい動物も、最もどうもうな動物も、あらゆる種類の動物が一様に山や森から箱舟に向かって静かに進んでくるのが見えた。突風のような音が聞こえたので、見ると天を暗くするほどの多くの鳥類が四方から群がってきて、秩序正しく箱舟の中にはいった。人間は従わないのに、動物は神の命令に従った。彼らは天使に導かれて、「2つずつノアのもとに来て、……箱舟にはい」り、きよい動物は、7つずつ入った(創世記7:9)。世の人々は、驚いてながめた。恐れた人もあった。哲学者が、この異常な出来事を説明するために召集されたが、彼らは、どうすることもできなかった。それは、彼らにとってさぐり得ない神秘であった。人々は、頑強に光を拒んでかたくなになっていたので、この光景もつかの間の印象を与えただけであった。滅亡の運命にあった人類は、太陽がさん然と輝き、大地がエデンのように美しく飾られているのを見たとき、そうぞうしい歓楽の声をあげて、つのってくる恐怖を払いのけた。そして、彼らは、暴虐な行いによって、すでに下ろうとしている神の怒りを招いているように思われた。 PP 49.6
神は、ノアに命じて言われた。「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである」(同7:1)。世の人々はノアの警告を拒否したが、彼の感化と模範は、彼の家庭に祝福をもたらした。彼は忠実で誠実であったので、神はその報いとして彼とともに彼の家族を残らずお救いになった。親の任務に忠実な者に対して、これはなんと励ましを与えることであろう。 PP 50.1
罪深い人類に対するあわれみの訴えはやんだ。野の獣と空の鳥は避難所に入った。ノアと彼の家族は、箱舟に入った。そして「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」(同7:16)。目がくらむ光がひらめき、いなずまより明るい栄光の雲が天から下って、箱舟の入り口の前にただよった。内側にいる者では閉じることのできない巨大な扉が、目に見えない手で静かに閉ざされた。ノアは、内側に入れられ、神のあわれみを退けた者は閉め出された。その扉の上には、神の印が押された。神がそれをおしめになった。だから、ただ神だけがそれをあけることがおできになるのである。そのように、キリストが天の雲に乗ってこられる前に、罪深い人間のためのキリストのとりなしは終わり、恵みの扉は閉ざされる。そうすると、神の恵みは、これ以上悪者を抑制しなくなるので、サタンは、恵みを退けた人々を完全に支配する。彼らは、神の民を滅ぼそうとする。しかし、ノアが箱舟のなかに閉じこめられたように、義人は、神の力に保護される。 PP 50.2
ノアとノアの家族が箱舟に入ってから7日の間、暴風雨がやってくるしるしはあらわれなかった。この間、彼らの信仰は試みられた。それは、外部の世界にとっては、勝ち誇った時であった。 PP 50.3
いかにも遅れているので、人々は、ノアの使命が惑わしであって、洪水は起こらないという考えを強くした。獣や鳥が箱舟にはいり、神の天使が扉を閉じるという厳粛な光景を目撃したにもかかわらず、彼らはなお、遊戯や宴会を続け、こうした著しい神の力の現れさえも物笑いの種にした。彼らは、箱舟のまわりに群がって、内部にいる人々をあざけり、これまでになかったほどの乱暴を働いた。 PP 50.4
しかし、8日目に暗雲が空をおおった。雷鳴がとどろき、いなびかりがひらめいた。間もなく大粒の雨が降り出した。世界には、今までこのようなことは起こったことがなかった。そして、人々の心は恐怖におそわれた。「ノアは正しかったのだろうか。世界は、滅びるのだろうか」と、皆はひそかにたずねた。空は、ますます暗くなって雨足は早くなってきた。獣たちは、激しい恐怖にかられてさまよい歩き、そのさわがしい叫び声は、彼らと人間の運命を嘆いているようであった。それから、「大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開け」た(同7:11)。水は、雲のなかから大きな滝のように流れ出た。川は堤を越えて谷間にあふれた。地からはものすごい勢いで水がふき出して、巨大な岩石を何百フィートも空高く飛ばした。それらは落下して地中深くうずまった。 PP 50.5
人々はまず、自分たちの手のわざが破壊されるのを見た。豪華な建物や、彼らが偶像を安置した美しい庭園や林は、天からのいなずまによって破壊され、その残骸はここかしこに散らばっていた。人間を犠牲として捧げた祭壇はくずされた。偶像礼拝者たちは、生きた神の力におののき、破滅を招いたのは自分たちの堕落と偶像礼拝であることを悟った。 PP 51.1
暴風雨が激しくなるにつれて、樹木、建物、岩石、土などが四方八方に飛び散った。人間と動物の恐怖のさまは、表現することができなかった。暴風雨のとどろきを越えて、神の権威を軽視した人々の嘆きの声が聞こえた。荒れくるう暴風雨のなかにとどまっていなければならなかったサタンでさえ、身の危険を感じたほどであった。彼は、力強い人類を思うままにしたことを喜んでいた。そして、彼らに憎むべき罪を行わせて、天の支配者への反逆を続けさせようとしていた。ところが彼は今、神は不正で残酷だと言って神をのろった。サタンと同様に神を冒瀆する者が多かった。彼らは、できることであれば、権威の座から神を引きおろそうとしたことであろう。他の者は恐怖のため、狂気のようになって箱舟に手をのばしながら、入れてくれと頼んだ。しかし、彼らの願いは入れられなかった。ついに良心がめざめ、天を支配しておられる神の存在を彼らは知ったのである。彼らは、必死になって神をよび求めたが、彼らの叫びに神の耳は開かれなかった。この恐怖のときに、彼らは神の律法に違反したことか自分たちの滅亡の原因であることを悟った。しかし、彼らは刑罰を恐れて罪を認めたとはいえ、真に悔い改め、悪をきらったのではなかった。もし、刑罰が取り除かれたならば、彼らは、またもや神に反逆したことであろう。同様に、この世界が火で滅ぼされる前に地に下る刑罰のときに、悔い改めない者は自分たちの罪の正体を知り、それが、神の清い律法を軽視した罪であることを知るのである。しかしながら、古代の罪人と同様に、彼らは真に悔い改めるのではないのである。 PP 51.2
中には、死にものぐるいになって箱舟に乗り込もうとする者もあったが、堅固に造られていたのでびくともしなかった。箱舟にしがみつく者もあったが、うす巻く波にさらわれたり、岩石や木にぶつかったりして手を離してしまった。風が容赦なく吹きつけ、大波にほんろうされるたびに、巨大な箱舟はすみずみまで震動した。内部の動物たちは、恐怖と苦痛の叫びをあげた。しかし、暴風雨の最中でも、箱舟は安全に浮かんでいた。すぐれた力をもった天使たちが、箱舟の保護を命じられていた。 PP 51.3
暴風雨にあった獣たちは、人間の援助を期待するかのように寄ってきた。ある者は、たくましい力を持った強い動物の背に、子供たちや自分たちのからだを結びつけて、一番高いところにのがれ、増してくる水を避けようとした。高い山の頂上にある大きな木にからだを結びつけたものもあったが、木は根こぎにされて、人間もろともあわ立つ波のなかに沈んでいった。安全だと思われた場所が次々とだめになった。水かさが増すにつれて、人々は、最高の山に避難した。人間と動物が足場の奪い合いをして争うこともあったが、ついには両方とも流されてしまうのであった。 PP 51.4
人々は最高の峰から、果てしのない大海原をながめた。神のしもべの厳粛な使命は、もはやあざけりや軽蔑の的ではなかった。命運つきた罪人たちは、なおざりにしてしまった機会が、もう一度与えられることをどんなに望んだことであろう。あと1時間の猶予、もう一度だけのあわれみの機会、ノアの唇からもれるもう一度だけの招声を、彼らはどんなに切望したことであろう。しかし、彼らは、あわれみに満ちたやさしい声を再び聞くことはできなかった。正義とともに愛もまた、神の刑罰が下って、罪にとどめをさすことを要求したのである。報復の水は、最後ののがれ場を流し去って、神を侮った者は暗黒の淵に滅び去った。 PP 51.5
「その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである」(Ⅱペテロ3:6、7)。別のあらしが近づいている。地は、再び神の怒りによって荒廃に帰して一掃され、罪と罪人は滅ぼされる。 PP 51.6
洪水前の人々に、報復をもたらす原因になった同じ罪が今日行われている。神をおそれることは、人々の心から消えうせ、神の律法は冷淡と軽蔑をもってあしらわれている。あの時代の極度の世俗化が、現在の世代にも同様に行われている。キリストは言われた。「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子が現われるのもそのようであろう」(マタイ24:38、39)。神は、洪水前の人々が、飲み食いすることを非難されたのではなかった。神は、彼らの体の必要を満たすために、地の産物を豊富にお与えになったのである。彼らの罪は、与え主であられる神に感謝せずに、これらの賜物を受け、なんの抑制もなく食欲を満たして、堕落したことであった。彼らが結婚することは正当なことであった。結婚は、神が制定されたものである。これは、神が定められた最初の制度の1つであった。神は、この儀式に特別の指示を与え、それを神聖で美しいものとされた。しかし、人々は、こうした指示を忘れ、結婚を悪用して情欲を満たすものにした。 PP 52.1
今日も同じ状態である。それ自身、正当なことが、過度に行われている。なんの制限もなく、食べたいだけ食べている。今日、キリストに従うと公言し、その名がりっぱな教会員名簿にしるされている者が、飲酒家と飲み食いしている。不節制が道徳的、また霊的能力をにぶらせて、いやしい情欲にふけらせるに至る。情欲を制することが、自分たちの道徳的責任であることを感じない者が非常に多い。彼らは、情欲の奴隷になる。人々は感覚の快楽を求めて生き、この世界と現世のためだけに生きる。社会のいたるところに浪費が行われている。ぜいたくと虚飾のために、誠実は犠牲にされる。急いで富を得ようとする者は、正義を曲げ、貧者をしいたげ、今なお、「奴隷と人々の魂」は売買されている。社会の上層部にも下層部にも、詐欺、贈収賄、盗みなどが、堂々とまかり通っている。新聞の報道は、殺人の記事で満ちている。冷酷で理由のない犯罪が行われ、人道は全く地に落ちたかのように思われる。こうした残酷なことかありふれたことになり、人々は、それを話題にもせず、驚きもしなくなった。無秩序の精神は、あらゆる国家に浸透し、時々暴動が起こって世界を恐怖に陥れるが、これは閉じこめられた激情と無法の火のあらわれで、一度抑制が除かれると、全地に災禍と荒廃をきたらせることであろう。霊感が示す洪水前の世界の状態は、現代の社会が急速に近づきつつある状態をあまりにもよく描写している。現在、キリスト教国といわれる国においてさえ、邪悪で恐ろしい犯罪が毎日行われている。そうした罪のために、古代の罪人は滅ぼされたのであった。 PP 52.2
神は、洪水が来る前に、ノアをつかわして世界に警告を発し、人々を悔い改めさせて、切迫している破滅から彼らをのがれさせようとされた。キリスト再臨の時が近づくにつれて、主は、主のしもべたちを世界につかわして警告を発し、その大事件の準備をするように促される。群衆は、神の律法に逆らった生活をしてきた。そこで神は、彼らをあわれんで、清い戒めに従うように呼びかけられる。神に対して悔い改め、キリストを信じて、罪を捨てる者はみな赦しが与えられる。しかし、罪を捨てることは、大きすぎる犠牲だと感じる者が多い。彼らは自分たちの生活が、神の道徳的統治のきよい原則と調和していないために、神の警告を退け、神の律法の権威をいなむのである。 PP 52.3
洪水前の地上のおびただしい人口の中から、わずか8人だけが、ノアによって与えられた神の言葉に従った。義の説教者は、120年の間、来たるべき破滅について世界に警告を発したが、彼の使命は拒否され、軽蔑された。今日も同様である。律法を賦与された方が、不従順な者を罰するために来られるに先だち、罪人らに、悔い改めて再び忠誠をつくすように警告されるが、大多数の者にとって、こうした警告は無益なものであろう。使徒ペテロは言った。「終わりの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、『主の再臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変 っていない』と言うであろう」(Ⅱペテロ3:3、4)。これと全く同じ言葉が公然と不信心者ばかりでなくて、この国の説教壇に立つ多くの牧師たちの口から聞かれないであろうか。「何も驚くことはない。キリスト再臨に先だって、全世界は悔い改める。そして、義は、1000年の間支配する。平和だ。平和だ。万物は、世の初めから同じように続く。誰も、こうした警世家の扇動的な言葉に動かされてはならない」と彼らは叫ぶ。しかし、この福千年期の教理は、キリストや使徒たちの教えと一致していない。キリストは、重大な問いを発しておられる。「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)。すでに述べた通り、世界の状態は、ノアの時代のようであると主は言われた。終末が近づくにつれて、罪悪が増すことを予期すべきであるとパウロは警告している。「しかし御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」(Ⅰテモテ4:1)。使徒は、「終りの時には、苦難の時代が来る」と言っている(Ⅱテモテ3:1)。そして、彼は、信仰を持っているふりをする人々の間にある驚くべき罪の数々をあげている。 PP 52.4
洪水前の人々は、猶予の期間が終わろうとしていたとき、刺激的娯楽や祭りに熱中していた。勢力と権力をもった者は、人々の心を歓楽と快楽に夢中にさせておいて、最後の厳粛な警告に誰も心を動かすことがないようにしむけていた。われわれの時代にも、同様のことがくり返されているのを見ないであろうか。神のしもべたちが、万物の終末の接近の使命を伝えても、世は、娯楽と快楽の追求に心を奪われている。次々と心を刺激するものがあって、神に対する関心を失わせ、来たるべき破滅から人々を救う唯一の真理に、深い感銘を受けることを妨げている。 PP 53.1
ノアの時代に、哲学者たちは、この世界が水によって滅ぼされることはあり得ないと言ったように、今日でもこの世界が火で滅ぼされることはあり得ない、また、それは自然の法則に反することであるということを示そうとする科学者たちがいる。しかし、自然の法則を定め、それを支配しておられる自然界の神は、ご自分のみ手のわざを用いて、ご自分の目的を達成することがおできになるのである。 PP 53.2
偉人や知者たちが、水による世界滅亡の不可能性について証明し、人々の恐怖がしずまり、万人がノアの預言を妄想だといい、彼を狂信家とみなした、そのときこそまさに神の時の到来であった。「大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開け」て、あざける人々は、洪水にのまれた。人々は、彼らの誇った哲学も知恵もみな愚かなものであって、法則を制定されたお方こそ、自然の法則より偉大であり、また、全能の神は、その目的を果たすための手段にこと欠かれないことを悟ったのであったが、そのときではもうおそすぎたのである。「ノアの時にあったように、……人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」(ルカ17:26、30)。「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」(Ⅱペテロ3:10)。哲学の論理が、神の審判の恐怖を去り、宗教家が長い平和と繁栄の時代の到来を指摘し、世が事業と快楽、植樹や建築、飲食や歓楽に心を奪われて神の警告を退け、神の使者たちをあざけっているその時、突如として滅びが彼らをおそってくる。そして、それからのがれることは決してできない(Ⅰテサロニケ5:3参照)。 PP 53.3