人類のあけぼの

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第7章 セツとエノクの時代

本章は、創世記4:25~6:2に基づく PP 41.5

神の約束の相続者、霊的長子権の継承者として、アダムにもうひとりのむすこが与えられた。このむすこにつけられたセツという名は、「定められた者」とか「償い」とかいう意味をもっていた。母親は、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」と言った(創世記4:25)。セツは、カインやアベルよりは、はるかに背が高くて気品を備え、他のむすこたちよりアダムによく似ていた。彼はりっぱな人物で、アベルの足跡に従った。しかし、彼は、生来の美点をカインよりも多く受け継いだのではなかった。アダムの創造について、「神は自分のかたちに人を創造された」と言われている(同1:27)。しかし、人間は堕落後、「自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生んだ」のである。アダムは、神のかたちにかたどり、罪のないものに創造されたが、カインと同様に、セツも両親の堕落した性質を受け継いだ。しかし彼は、贖い主に関する知識と、義の教訓をも受けた。彼は、神の恵みによって、神に仕え、神を尊んだ。彼は罪深い人々が悔い改めて創造主をあがめ、服従するようになるために努力した。これは、アベルも生きていたなら、したと思われることであった。 PP 41.6

「セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた」(同4:26)。それまでも忠実な人々は神を礼拝していた。しかし、人間が増加するに従って、2種類 の人々の差はますます明らかになった。一方は神への忠誠を公に告白していたが、他力は軽蔑と不服従をあらわした。 PP 41.7

われわれの祖先は、堕落する以前からエデンで制定された安息日を守っていた。そして、楽園からの追放後も安息日を守り続けていた。彼らは、不従順の苦い結果を味わっていたので、神の律法をふみにじる者が、早晩、学ばねばならないこと、すなわち、神の戒めは、清くて不変のものであることと、違反に対しては必ず罰が加えられることを学んでいた。安息日は、神に忠誠を保っていたすべてのアダムの子孫によってあがめられていた。しかし、カインとその子孫は、主の明白な命令にもかかわらず、自分かってなときに働いたり休んだりして、神が休まれた日を重んじなかった。 PP 42.1

カインは、神ののろいを受けて父の家から離れた。彼はまず、土を耕す仕事を選んだ。そして、その次に、町を築き、彼の長男の名にちなんで町に名をつけた。彼は、エデンの回復の約束をなげうち、罪ののろいのもとにある地上で、財産や快楽を求めるために主の前を去っていった。こうして、彼は、この世の神を礼拝する多くの人々の先頭に立ったのである。彼の子孫は、世俗的、物質的発展の面だけでは、すぐれた力量をあらわした。しかし、彼らは神のことには無関心で、人類に対する神の計画にはそむいていた。カインが、まず殺人の罪を犯したのに続いて、彼から5代目のレメクは、一夫多妻の罪を加えた。彼は高慢で反抗的であった。彼が神を認めたのは、カインについて言われた復讐の言葉から、自分の身の安全の保証を得ようとしたときだけであった。アベルは羊飼いの生活を送って、天幕や仮り住まいに住んでいた。そして、セツの子孫も、自分たちを、「地上では旅人であり寄留者」であるとみなして、「もっと良い、天にあるふるさと」を求めながら、同じ道を歩んだ(ヘブル11:13、16)。 PP 42.2

しばらくの間、この2種類の人々は離れていた。カインの子孫は最初住みついた所から広がっていって、セツの子孫が住んでいた平原や谷間にまでちらばってきた。そして、後者は、彼らの悪影響を避けて山にのがれ、そこに住んだ。こうして離れているかぎり、彼らは神の礼拝の純粋性を保っていた。しかし、時の経過と共に彼らは徐々に谷間の住民と交わるようになった。この交際は最悪の結果をもたらした。「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見」た(創世記6:2)。カインの子孫の娘たちの美に魅せられたセツの子孫は、彼らと雑婚して主のみ心を痛めた。神の礼拝者の多くは、常にさらされている誘惑に負けて罪に陥り、彼ら独特の清い性質を失ってしまった。彼らは堕落した者と交わって、精神においても行為においても似てきた。彼らは、戒めの第7条の拘束を無視し、「自分の好む者を妻にめとった」(同6:2)。セツの子孫は、「カインの道」に歩み、世俗の繁栄と快楽に没頭し、主の戒めをないがしろにした(ユダ11)。人々は「神を認めることを正しい」とせず「その思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった」。それゆえに、「神は彼らを正しからぬ思いにわた」されたのである(ローマ1:21、28)。罪は、恐ろしい皮膚病のように地にはびこった。 PP 42.3

アダムは1000年近くも人々の間に生きて、罪の結果を目撃した。彼は、悪の潮流をせきとめようと忠実に努力した。彼は、主の道に従って、彼の子孫を教えるように命じられていた。それで彼は、神から受けた啓示を注意深く心にたくわえて、それを世代から世代へくり返し伝えた。彼は、楽園の清く幸福な状態を描写し、彼の堕落した経過をくり返し、苦難によって神の律法に厳格に服従する必要を神から教えられたことを告げ、そして、彼らの救いのために設けられたあわれみ深い用意について、9代におよぶ子々孫々に説明した。しかし、彼の言葉に耳をかしたものはわずかであった。彼はしばしば、このようなわざわいを後世にもたらした罪を問われて、子孫から激しく責められるのであった。 PP 42.4

アダムの生涯は、悲しみと屈辱と悔い改めの一生であった。彼はエデンを去ったときに、自分が死ななければならないことを考えて恐怖感におそわれた。長男のカインが弟を殺したとき、人類も死ぬべき運 命にあることを彼は初めて知った。自分の罪に対する痛烈な後悔の念に満たされ、アベルが死に、カインが捨てられて、2人を一時に失ったアダムは苦悩にうちのめされた。彼は、世がますます堕落するのを見た。そして、それが原因で世界は洪水によって滅ぼされるようになるのであった。そして、アダムは、創造主から受けた死の宣告を、最初はひどいもののように感じたが、1000年近くも罪の結果を見てきた後では、苦悩と悲嘆の生涯を終わらせてくださるのは、神のあわれみであることを感じた。 PP 42.5

洪水前の世界は、邪悪なものではあったが、一般に考えられているような無知と野蛮な時代ではなかった。人々は、道徳的にも知的にも高い標準に達する機会が与えられていた。彼らは、偉大な体力と知力とを持ち、宗教と科学の知識を得るにはこの上なく好都合であった。彼らは長命であったから、その頭脳は晩成であったと考えるのは誤りである。彼らの知的能力は早くから発達し、神をおそれ、神のみこころに一致した生活を送った者は、その生涯を通じて知識と知恵が増加した。もし現代の著名な学者たちと洪水前の同じ年齢の人々とを比較してみれば、現代の学者たちは、知力においても体力においてもはるかに劣ってみえることであろう。人間の年齢が縮まり、体力が衰えるに従ってその知力も減少した。今日、人々は、20年から50年の間研究に没頭し、世界はその人々の業績に感嘆する。しかし、これらの業績は、幾世紀にわたって、知力と体力が発達した洪水前の人々の場合と比較するならば、なんと限られたものであることであろう。 PP 43.1

確かに現代人は、先人の業績の恩恵に浴している。工夫、研究、著述などに従事したすぐれた頭脳の持ち主は彼らの作品を後世に残した。しかし、この点と単なる人間的知識だけのことにおいても、古代の人々はなんと有利な立場にあったことであろう。 PP 43.2

神のかたちにかたどって創造され、創造主ご自身が「良し」と宣言された人間、すなわち、物質界のあらゆる知識を神から教えられた人が、数百年もの間、彼らとともに生存していたのである。 PP 43.3

アダムは創造主から創造の歴史を学んだ。彼は、900年間の出来事を目撃した。そして、彼は、その知識を子孫に伝えた。洪水前の人々は、書物や記録などはもっていなかった。しかし、彼らは驚くべき体力と知力とを持っていたので記憶力は強かった。そして、教えられたことをよく理解して、それを自分の子孫にまちがいなく伝えることができた。そして、数百年にわたって、7代の人々が同時に生存していたので、共に意見を交換して、それぞれがすべての者の知識や経験によって、益を受ける機会に恵まれていた。 PP 43.4

神のみわざを通して神を知ることが、この時代の人々ほどに恵まれた立場におかれたものはなかった。その時代は、宗教的暗黒の時代どころか、大いなる光明の時代であった。全世界は、アダムから教えを受ける機会に恵まれていて、キリストと天使が主をおそれるものの教師であった。また、数百年の間、人間のなかにとどまっていた神の園は、真理に関する無言の証人であった。ケルビムに守護された楽園の入り口では、神の栄光があらわされ、ここに最初の礼拝者たちが集まった。彼らは、ここで祭壇を築き、捧げ物を供えた。捧げ物をたずさえて来たカインとアベルに、神が親しく交わられたのもここであった。 PP 43.5

エデンが眼前に存在し、見張りの天使がその入り口を守っているうちは、懐疑論者もその存在を否定することはできなかった。創造の順序、楽園の目的、そして、園のなかにあって、人間の運命に深い関係のあった2本の樹木にまつわる出来事などは、疑う余地のない事実であった。アダムが彼らのうちにいた間は、神の存在とその至上権、神の律法の義務などは、容易に疑い得ない真理であった。 PP 43.6

罪悪がはびこってはいたが、神との交わりによって、高められ、気高くされ、天の交わりのような生活を送った聖徒の群れが常にあった。彼らは著しい知能と、すぐれた学識の持ち主であった。彼らには、正しい品性を築き、信心について、その時代の人々だけでなくて、後世の人々にも教えるという偉大で清い使命があった。聖書には、最も著名な人々のなかのごくわずかな人しか記録されていない。しかし、神は、各 時代を通じて、忠実な証人、誠実な礼拝者をもっておられた。 PP 43.7

エノクは、彼か65歳になってむすこを生んだとしるされている。彼は、その後300年の間神と共に歩んだ。エノクは、そうした初期の時代に、神を愛し、畏れ、神の戒めを守った。彼は、聖徒たちのひとりで、真の信仰の擁護者であり、約束のすえの先祖であった。彼は、アダムの口から堕落の暗い物語や、約束に示された神の恵みの喜ばしい物語を教えられて、来たるべき贖い主によりたのんだ。しかし、エノクは、彼の長男の誕生後、さらに高い経験に達し、神とさらに密接な関係に入っていった。彼は神の子として、自分に与えられた義務と責任を、もっと深く自覚した。子供が父を愛し、父の保護に単純に信頼するのを見たとき、そして、長男に対して深い愛情を自分の心に感じたときに、彼は、そのみ子を人間に賜わった驚くべき神の愛と、神の子らが天の父に対して持たなければならない信頼に関して、尊い教訓を学んだのである。キリストによって示された測り知れない無限の神の愛は、彼の昼夜の瞑想の課題になった。彼は、自分の力の限りを尽くして、いっしょに住んでいる人々にその愛を示そうとした。 PP 44.1

エノクが神と共に歩んだのは、慌惚状態や幻を見るようなものではなくて、日常のすべての務めを果たすことにおいてであった。彼は、自分を世から全く遮断して、隠者にならなかった。というのは、彼は、この世で神のためにしなければならない仕事があったからである。彼は、家庭においても、人々との交際においても、夫、父、友人、市民として、常に堅く立ってゆるがない主のしもべであった。 PP 44.2

彼の心は、神のみ旨に一致していた。「ふたりの者がもし約束しなかったら、一緒に歩くだろうか」(アモス3:3)。この清い歩みは300年続いた。もしクリスチャンが生命のはかなさを知り、または、キリストの再臨がまさに起ころうとしていることを知ったならば、ますます熱心になって献身しようとしない者はあるまい。しかし、エノクの信仰は、幾世紀の年月を経るにつれて強くなり、その愛はいっそう熱烈になっていった。 PP 44.3

エノクは、よく洗練され、すぐれた頭脳と広い知識の持ち主であった。彼は、神からの特別の啓示を受ける栄誉にあずかった。しかし、彼は、絶えず天との交わりを保って、神の偉大さと完全さとを常に実感していたので誰よりも謙遜であった。彼は、神とのつながりが親密になればなるほど、自分の弱さと不完全さとを深く感じた。 PP 44.4

エノクは、不信心な者の悪事が増加するのを嘆き、神へのエノクの崇敬の念が、彼らの不信心によって弱められるのを恐れて、常に彼らと交わることを避け、人々から離れて瞑想と祈りにふけった。こうして彼は主に仕え、神のみこころを明らかに知って、それを実行しようと努めた。彼にとって、祈りは魂の呼吸であった。彼は天の雰囲気の中で生きていた。 PP 44.5

神は、み使いによって、この世界を洪水で滅ぼそうとしておられることをエノクに知らせ、贖罪の計画をさらにくわしく彼に示された。神は、預言の霊によって、洪水後に生存する代々の人々と、キリストの再臨および世界の終末に関する大事件を彼にお示しになった。 PP 44.6

エノクは、死者に関して思い悩んでいた。彼は、義人も悪人も共に土に帰り、それですべてが終わるものと思った。墓のかなたに義人の生命があることが、彼にはわからなかった。彼は、預言の幻の中で、キリストの死について教えられ、キリストが、彼の民を贖い出すために清いみ使いたちを率いて、栄光のうちにおいでになることを示された。また、彼は、キリストが再び来られるときの世界の堕落の状態を見た。人々は、誇りと高ぶりに満ち、気ままにふるまい、唯一の神と主イエス・キリストをいなみ、律法をふみにじって贖罪を軽んじる姿を見た。彼は、義人が栄光と誉れを受け、悪人が主のみ前から追われて、火によって滅ぼされるのを見た。 PP 44.7

エノクは義の説教者になって、神がお示しになったことを人々に伝えた。主をおそれた人々は、エノクから教えを聞き、共に祈るために集まって来た。彼は、また、人々の間で公の伝道に従事し、警告の言葉に 耳を傾ける者には、誰にでも神の使命を伝えた。彼は、セツの子孫のためだけに働いたのではなかった。カインが主の前からのがれてきた土地でも、神の預言者は幻に見た驚くべき光景を人々に伝えた。「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざ……を責めるためである」(ユダ14、15)。 PP 44.8

彼は、恐れることなく罪を譴責した。彼は、その時代の人々に、キリストのうちに現される神の愛を説き、悪の道から離れることを熱心に訴えるとともに、広く行われていた罪悪を責め、律法にそむく者には、必ず刑罰が臨むことを警告した。エノクを通して語ったのは、キリストのみ霊であった。このみ霊は、愛と同情と勧告の言葉だけを語るのではない。聖者たちが語るのは、耳に快くひびくことだけではない。神は、その使命者の心とくちびるに真理を与えて両刃の剣のように、するどく痛烈な言葉を語らせられるのである。 PP 45.1

神のしもべを動かした神の力は、それを聞いた人々に感じとられた。警告に従って罪を離れた者もあったが、大多数は厳粛な使命を嘲笑し、ますます大胆に悪の道に走った。終末時代の神のしもべたちは、同様の使命を世に伝えなければならない。そして、それは、また、不信と嘲笑をもって迎えられるであろう。洪水前の世界は、神と共に歩んだ者の警告の言葉を拒否した。そのように、終末時代の人々も主の使命者たちの警告を軽んじるであろう。 PP 45.2

エノクは、活動的生活を送りながらも、変わることなく神との交わりを保った。仕事かふえ、忙しさが増すにつれて、彼の祈りは、ますます絶え間なく、熱心になっていった。彼は一定の期間、すべての交際を絶つという生活を続けた。 PP 45.3

彼は、しばらく人々の間にいて、教えと模範によって彼らのために働いたあと、ただ神だけが与えることのできる天来の知識を飢えかわくように求めて、人を避けて孤独の時を過ごすのであった。エノクは、こうして、神と交わることによって、ますます神のみかたちを反映するようになった。彼の顔には、イエスのみ顔に輝く清い光が輝いていた。彼か、こうした神との交わりからもどってきたときには、神を信じない者さえ畏敬の念に打たれて、彼の顔に押された天のしるしをながめた。 PP 45.4

人々の罪悪は極に達し、ついに滅びの宣告が彼らの上にくだされた。年月の経過とともに、人類の罪悪のうしおは深く、神の刑罰の雲はいよいよ暗くたれこめた。しかし、信仰の証人であるエノクは、たゆまず努めて、警告と訴えと勧告とによって、悪の潮流を押しかえし、報復の下るのを止めようとした。彼の警告は、罪深い快楽愛好者によって無視されたが、神の承認のあかしが与えられていた。彼は根強くはびこる悪と忠実に戦い続けた。そして、神は、ついに彼を罪の世界から、天の清い喜びに移されたのである。 PP 45.5

その時代の人々は、エノクが金銀をたくわえず、ここの世で財産を築こうとしないのを、愚かなことだと嘲笑した。しかし、エノクの心は永遠の宝に注がれていた。彼は天の都を見つめていた。彼は、シオンのなかで栄光に輝く王、キリストを見たのであった。彼の思想も感情も会話もすべて天に関することであった。彼の周囲の罪悪が大きければ大きいほど、神の家を慕う気持ちは熱烈であった。彼は地上におりながら、信仰によって、すでに光の王国に住んでいた。 PP 45.6

「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」(マタイ5:8)。エノクは300年の間、天と調和するために心が清くなることを求めていた。彼は3世紀の間神と歩いた。彼は、日々密接な結合を熱望した。交わりはいよいよ深まっていき、ついに神は、彼をみもとにお受けになった。彼は、永遠の世界の門口に立っていた。彼と祝福にみちた国との距離はわずか1歩であった。そして、門はあけられ、地上で長く続いた彼の神との歩みは続けられた。彼は、聖都の門を通って行った。彼は、人間の中から、そこにはいる最初の人となった。 PP 45.7

彼がいなくなって、人々はさびしく感じた。日々叫ばれた警告と教えの声は、もう聞かれなかった。義人のうちにも、悪人のうちにも、幾人かの者は彼が去 るのを目撃した。彼らは、彼が退いた場所のどこかかへ連れ去られたものと思い、彼を愛する人々は、後に預言者の子らがエリヤをさがしたように熱心にさがしたが、むだであった。神が彼をとられたので、いなくなったと彼らは報告した。 PP 45.8

主は、エノクの昇天を通して、重大な教訓を与えようとなさった。人々は、アダムの罪の恐ろしい結果によって、失望に陥る恐れがあった。「苛酷なのろいが、人類にくだされ、われわれすべての者は死ぬべき運命を負わされているのだから、主を恐れ、その戒めを守っても何の役に立つだろう」と多くの人は叫ぶばかりであった。しかし、神がアダムに与え、セツがくり返し、エノクが実践した教えは悲しみと暗黒を吹き払った。そして、アダムが死をもたらしたように、約束の贖い主は、生命と不死をもたらすという希望を人々に与えた。サタンは、義人が報いを受け、悪人が罰を受けることはなく、また、人間が神の戒めを守ることは不可能であると、人々に信じこませようとしていた。しかし、神はエノクの例をあげて、「ご自身を求める者に報いて下さる」かたであることを明言される(ヘブル11:6)。神は、戒めを守る者に何をなさるかをお示しになる。人間は、神の律法に従うことができることと、罪人や堕落した人間の間に混じって生活していても、神の恵みによって、誘惑に耐え、純潔で清くなれることを神はお教えになった。彼らは、エノクの模範をみて、こうした生活が幸福であることを知った。彼の昇天は従順な者には、喜び、栄光、永遠の命などの報いが与えられ、罪人には、断罪、災い、死などの罰が与えられるという、将来に関する彼の預言の真実性の証拠であった。 PP 46.1

信仰によって、エノクは、「死を見ないように天に移された。……彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである」(ヘブル11:5)。罪悪のために破滅にひんした世界の真っ只中で、エノクは神と密接に交わる生活を送っていたので、死の力は、彼を屈服することができなかった。 PP 46.2

この預言者の清い品性は、キリスト再臨の時に、「地からあがなわれ」る人々が到達しなければならない清い状態をあらわしている(黙示録14:3)。そのときには、洪水前の世界のように、罪悪が世にはびこる。人々は汚れた心の衝動と偽りの哲学の教えに従って、天の権威に逆らうのである。しかし、神の民は、エノクのように心の純潔と神のみこころとの一致を求めて、ついにキリストのみかたちを反映するに至るのである。彼らは、エノクのように、主の再臨と罪に対して下される刑罰について世界に警告を発し、その清い行状と模範とによって、不信心な者の罪を譴責する。世界が水によって滅ぼされる前にエノクが天に移されたように、生きている義人は、地が火によって滅ぼされる前に天にあげられる。 PP 46.3

使徒はこう言っている。「わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる」(Ⅰコリント15:51)。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに……天から下ってこられる」(Ⅰテサロニケ4:16)。「ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」(Ⅰコリント15:52)。「キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい」(Ⅰテサロニケ4:16~18)。 PP 46.4