人類のあけぼの

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第61章 サウル退けられる

本章は、サムエル記上15章に基づく PP 326.8

サウルは、ギルガルで難局に当面した時に、信仰の試練に耐えられずに、神の礼拝をはずかしめた。しかし、彼のまちがいは、取りかえしのつかないものではなかった。それで、主は、彼に再び機会を与えて彼が神のみことばを無条件に信じ、神の命令に従うという教訓を学ばせようとしておられた。 PP 326.9

サウルは、ギルガルで預言者から譴責された時に、自分の行為が、大きな罪であるとは思わなかった。彼は自分が不当な扱いを受けたと感じた。そして、自己の行為を正当化して過失の言い訳をした。彼は、このとき以来、預言者と交渉を持たなくなった。サムエルは、サウルをわが子のように愛していた。そして、サウルも大胆で気性は激しかったが、預言者を尊敬していた。しかし、彼は、サムエルの譴責に憤慨し、このとき以来できるだけ彼を避けた。 PP 327.1

しかし、主は、彼のしもべをつかわして、サウルにもう1つの使命をお与えになった。サウルは、服従することによって、神に対する忠誠とイスラエルを指導する彼の資格とをまだ証明することができた。サムエルは、王のところに来て、主の言葉を伝えた。サムエルは、命令に従うことの重要性を王に認めさせるために、神の権威すなわちサウルを王位につけたのと同じ権威によって語っていることを言明した。預言者は言った。「万軍の主は、こう仰せられる、『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」(サムエル記上15:2、3)。アマレク人は、荒野でイスラエルに戦いをいどんだ最初の民族であった。この罪と彼らの神への反抗と彼らの堕落した偶像礼拝のゆえに、主は、モーセによって彼らに宣告を下された。神によって、彼らのイスラエルに対する残酷な歴史は記録され、「あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。この事を忘れてはならない」と命じられていた(申命記25:19)。この宣告は、400年の間執行が延ばされていた。しかし、アマレク人は、彼らの罪を離れなかった。この邪悪な民族は、もしできることなら、神の民と神の礼拝とを地上からぬぐい去ろうとしていたことを主は知っておられた。今、長く延期されていた宣告の執行の時が来ていた。 PP 327.2

神が悪人を長く忍ばれるために、人々は大胆に罪を犯す。しかし、長く延期されても、刑罰の確実なことと恐ろしさにはなんの変わりもない。「主はペラジム山で立たれたように立ちあがり、ギベオンの谷で憤られたように憤られて、その行いをなされる。その行いは類のないものである。またそのわざをなされる。そのわざは異なったものである」(イザヤ28:21)。憐れみ深い神にとって、刑罰のわざは不思議な行為である。「主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ」(エゼキエル33:11)。主は、「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、……悪と、とがと、罪とをゆるす者」であるが、「罰すべき者をば決してゆるさ」ない(出エジプト34:6、7)。神は刑罰を喜ばれないが、神の律法を犯す者には刑罰を与えられる。地の住民が全く腐敗して滅亡することを防ぐために、神はやむをえずこれをなさらなければならない。神は、いくらかの人々を救うために、罪にかたくなになった人々を滅ぼさなければならない。「主は怒ることおそく、力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者」である(ナホム1:3)。主は、義をもって恐ろしいことを行い、彼のふみにじられた律法の権威を擁護される。主が刑罰の執行を延ばしておられること自体が、神の刑罰を招いた罪の恐ろしさと、罪人に臨もうとする報復のきびしさを証明している。 PP 327.3

神は、刑罰を与えながらも、憐れみを忘れられない。アマレク人は、滅ぼされなければならなかったが、彼らの中に住んでいたケニ人は救われた。この人々は、偶像礼拝から全く離れてはいなかったが、真の神の礼拝者で、イスラエルの友であった。モーセの義理の兄弟ホバブは、この種族の出身で、荒野のことをよく知っていたので、イスラエル人の荒野の旅に同行して良い助言を与えた。 PP 327.4

サウルは、ミクマシで、ペリシテ人を滅ぼしてから、モアブ、アンモン、エドム、アマレク、ペリシテなどの国々と戦った。そして、彼の行くところ連戦連勝であった。彼は、アマレク人を撃滅する任命を受けるや いなやすぐに宣戦を布告した。彼自身の権力に預言者の権力も加えられた。そして、イスラエルの人々は、召集に応じて彼の旗のもとに集まった。この遠征は、自己誇張のために行われるものではなかった。イスラエルの人々は勝利の栄誉も敵のぶんどり物をも受けてはならなかった。彼らは、ただ、アマレク人に対する神の刑罰の執行のために、神に対する服従の行為として戦いに従事するだけであった。神は、すべての国々が、神の主権に逆らった国民の運命を見、彼らが軽蔑したその国自身に滅ぼされることを注目するように計画された。 PP 327.5

「サウルはアマレクびとを撃って、ハビラからエジプトの東にあるシュルにまで及んだ。そしてアマレクびとの王アガグをいけどり、つるぎをもってその民をことごとく滅ぼした。しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した」(サムエル記上15:7~9)。 PP 328.1

アマレク人に対するこの勝利は、サウルのこれまでの勝利中の最大のものであった。そして、これは、彼にとって最も危険な誇りをふたたび燃え上がらせた。神の敵を全滅させよという神の命令は、部分的にしか行われなかった。サウルは、王を捕虜にして連れて帰り、凱旋の栄光を盛り上げるために、周囲の国々の習慣をまね、勇猛果敢なアマレクの王アガグを生かしておいた。人々は、羊と牛と家畜の最も良いものを残しておき、それらを主に犠牲として捧げるために保留したと彼らの罪の弁解をした。しかし、彼らは、自分たちの家畜の代わりに、これらを捧げようとしていたに過ぎなかった。 PP 328.2

サウルは、ここで、最後の試練に当面したのであった。彼は、神のみこころをあえて無視し、独立した王として国を治めようと決意したことを示したので、主の代表者として王権を委託されることができないことになった。サウルと彼の軍勢が、勝ち誇って帰途についたとき、預言者サムエルの家では大きな苦悩があった。彼は、王の行動を非難した主からの言葉を聞いたのであった。「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」(同15:11)。預言者は反逆した王の行為を深く悲しんだ。そして、彼は、この恐ろしい宣告の取り消しを求めて、一晩中泣いて祈った。 PP 328.3

神の悔いとは、人間の悔いのようなものではない。「イスラエルの栄光は偽ることもなく、悔いることもない。彼は人ではないから悔いることはない」(同15:29)。人間の悔いは心の変化を言うのである。神の悔いは環境と関係の変化を意味する。人間は、神の恵みにあずかることのできる条件に応じることによって、彼の神との関係を変えることができる。それとも、自己の行為によって、恵まれた状態の圏外に自分を置くこともできる。しかし、主は、「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13:8)。サウルの不服従は、彼の神との関係を変えた。しかし、彼が神に受け入れられる条件に変わりはなかった。神の要求は、なお、同じであった。神には、「変化とか回転の影とかいうものはない」のである(ヤコブ1:17)。 PP 328.4

翌朝、預言者は、悲痛な思いをいだいて、誤った王に会うために出かけた。サムエルは、サウルが自分の罪を認め、悔い改めて心を低くして、神の恵みにふたたびあずかるようになることを希望していた。しかし罪の道に1歩踏み込めばその先はやさしい。不服従によって心がゆがんだサウルは、サムエルに会いに来て偽りを言った。彼は、「どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました」と叫んだ(サムエル記上15:13)。 PP 328.5

預言者の耳に聞こえた音は、不服従な王の言葉が偽りであることを証明した。「それならば、わたしの耳にはいる、この羊の声と、わたしの聞く牛の声は、いったい、なんですか」と鋭く質問されて、サウルは言った。「人々がアマレクびとの所から引いてきたのです。民は、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです。そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました」(同15:14、15)。人々 は、サウルの命令に従ったのであったが、サウルは自分を弁護するために、その不服従の罪を彼らのせいにしてしまった。 PP 328.6

神がサウルを拒否されたというお告げば、サムエルの心に、口では表現できない悲しみを与えた。この言葉はイスラエルの全軍の前で言わなければならなかった。しかも彼らが誇りと凱旋の喜びに満ち、勝利を王の勇気とその指揮に帰している時においてであった。サウルはこの戦いにおいてイスラエルが勝利したことは、神の助けによるものであることを認めていなかった。しかし、預言者は、サウルの反逆の証拠を見た時に、彼が、神の大いなる恵みにあずかっていながら、天の神の律法を破り、イスラエルを罪に陥れたことに激しい怒りを感じるのであった。サムエルは、王の口実にまどわされなかった。悲しみに怒りを混じえて、彼は言った。「おやめなさい。昨夜、主がわたしに言われたことを、あなたに告げましょう。……たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた」と(同15:16、17)。預言者は、アマレクに対する主の命令をくりかえし、王の不服従の理由をたずねた。 PP 329.1

サウルは自分を弁護し続けた。「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」(同15:20、21)。 PP 329.2

預言者は、鋭く、きびしい言葉で、こうした偽りの口実を払いのけて、取り消すことのできない宣告を下した。「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」(同15:22、23)。 PP 329.3

この恐ろしい宣告を聞いて、王は叫んで言った。「わたしは主の命令とあなたの言葉にそむいて罪を犯しました。民を恐れて、その声に聞き従ったからです」(同15:24)。サウルは、預言者の告発に震えおののいてこれまで頑強に拒否していた罪を認めた。しかし、彼は、なお罪を犯したのは、人々を恐れたからであると言って民を非難していた。 PP 329.4

イスラエルの王は、罪を悲しんだためではなくて、刑罰を恐れたために、サムエルに嘆願して言った。「どうぞ、今わたしの罪をゆるし、わたしと一緒に帰って、主を拝ませてください」(同15:25)。もし、サウルが真に悔い改めていたならば、彼は、自分の罪を公に告白していたことであろう。しかし、彼は、自分の権威を保ち、民の忠誠を保持することをまず第一に考えていた。彼は、自分の国民に与える影響を強化するために、サムエルが臨席してくれることを希望した。 PP 329.5

預言者は答えて言った。「あなたと一緒に帰りません。あなたが主の言葉を捨てたので、主もあなたを捨てて、イスラエルの王位から退けられたからです」(同15:26)。こうして、サムエルが去ろうとすると、王は、震えおののき、彼の上着をつかまえて引きもどそうとしたところ、それは裂けてしまった。そこで預言者は言った。「主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた」(同15:28)。 PP 329.6

サウルは、神の不興を招いたことよりは、サムエルから見捨てられることのほうが、さらに不安であった。彼は、人々が自分よりは預言者をはるかに信頼していることを知っていた。今、神の命令によって他の者が王として油を注がれるならば、自分の権威を維持することはできないとサウルは考えた。もしサムエルが彼を全く見捨ててしまうならば、すぐに反乱が起こるのではないかと彼は恐れた。サウルは、預言者が彼と共に公に宗教的儀式を行い、人々と長老たちの前で、彼に栄誉を帰してくれることを懇願した。サムエルは、神の指示に従って王の願いを聞き入れた。それは、反乱を引き起こさないためであった。しかし、 彼は、ただ黙って礼拝を見守っているだけであった。 PP 329.7

きびしく、恐ろしい法的行為が、まだ行われなければならなかった。サムエルは、公に神の栄光を擁護し、サウルの行為を譴責しなければならなかった。サムエルは、アマレクの王を、彼の前に連れ出すことを命じた。アガグは、これまでイスラエルの剣に倒れたすべての人々にまさって最も罪深く、残酷な人間であった。彼は、神の民を憎んで滅ぼそうとし、偶像礼拝を強力に押し進めた。彼は、預言者の命によって引き出されて、死め苦しみは、もう過ぎ去ったと思って喜んだ。サムエルは言った。「『あなたのつるぎは多くの女に子供を失わせた。そのようにあなたの母も女のうちで最も無惨に子供を失う者となるであろう』。サムエルはギルガルで主の前に、アガグを寸断した」(同15:33)。こうしてサムエルは、ラマの彼の家に帰り、サウルはギベアの彼の家に帰った。このとき以来、預言者と王が顔を合わせたのはただ1度だけであった。 PP 330.1

サウルは、王位に召されたとき、自分自身の力量について謙遜な考えを持ち、教えを受ける気持ちが十分にあった。彼は、知識も経験も乏しく、品性の重大な欠陥を持っていた。しかし、主は聖霊を指導者また援助者として彼に与え、イスラエルの支配者として必要な特質を伸ばすことができる地位に彼をおかれた。もしも、彼が謙遜で、常に神の知恵を仰ぎ求めていたならば、その高い地位における任務を果たして成功を収め、栄誉にあずかることができたことであろう。神の恵みの力によってすべてのよい特質は強められ、悪い傾向は、その力を失っていくのであった。こうしたことは、主に献身するすべての者のために、主がしようとしておられることである。謙遜で教えを受ける精神を持っているために、神の働きの中の種々の地位に召される人々が多くある。神は、み摂理のうちに、彼らを、神について学ぶことができるところにおかれる。神は、品性の欠点を彼らに示される。そして、神は、助けを求めるすべての人々に、彼らの誤りに打ち勝つ力をお与えになる。 PP 330.2

しかし、サウルは、彼の高い地位に心がおごり、不信と不服従によって、神のみ栄えを汚した。彼は、最初王位に召されたときには、謙遜で自己の力にたよっていなかったが、成功するにつれて、自己過信に陥った。彼の治世の1番最初の勝利が、心の誇りを燃え立たせて、彼を最大の危険に陥れた。ヤベシギレアデの救出に当たってあらわされた彼の勇気と軍事的技量は、全国民を熱狂させた。人々は、王に栄誉を帰し、王が単に神に用いられた器に過ぎないことを忘れた。サウルは初めのうちは神に栄光を帰したが、あとになってからは、それを自分の栄誉に帰した。彼は自分が神に依存していることを忘れ、主から離れていった。こうして彼が、ギルガルで不遜と冒瀆の罪を犯す素地がつくられていったのである。同様の盲目的自己過信が、サムエルの譴責を彼に拒否させるに至ったのである。サウルは、サムエルが神からつかわされた預言者であることを知っていた。であるから、彼は、自分では罪を犯したような気がしなくても、その譴責を受け入れるべきであった。もし彼が快く自分の誤りを認めて告白したならば、この苦い経験は、将来の安全を守るものとなったことであろう。 PP 330.3

もし主が、このときサウルから全く離れてしまわれたならば、彼の預言者を通じて、ふたたび彼に語りかけることもなく、一定の務めをなすことを彼にゆだねて、過去の過失を正させようとはなさらなかったことであろう。自分は、神の子であるととなえているものが、神のみこころを行うことをなおざりにし、そのために、人々に主の戒めに対する不敬と冷淡の念をいだかせることもあろう。しかし、彼が真に悔い改めて譴責を受け入れ、謙遜と信仰によって、神に立ち帰るならば、彼は、失敗を勝利に変えることができる。敗北の恥辱は、われわれに神の助けがなければ神のみこころを行う力がないことを示して、祝福となることがよくある。 PP 330.4

サウルは、聖霊によって与えられた譴責を拒否し、頑強に自分を弁護し続けたとき、自我から彼を救うことができる神の唯一の方法を拒否したのであった。彼は、故意に神から離反した。罪を告白して、神に立ち帰るのでなければ、神の助けも導きも受けることは できなかった。 PP 330.5

サウルは、ギルガルでイスラエルの軍隊の前に立って犠牲を捧げたとき、非常に良心的にふるまった。しかし、彼の敬神は純粋ではなかった。神の命令に真正面から反対して行った宗教の儀式は、ただサウルの手を弱め、神が彼に与えようとされた援助を受けられなくしただけであった。 PP 331.1

サウルはアマレクの遠征に関して、主が彼に命じられた重要なことは、皆、行ったと考えた。しかし、主は部分的服従を喜ばれず、もっともらしい動機によって彼がおろそかにしたことを、不問に付されないのである。神は、人間が神の要求にそむく自由を与えておられない。主は、イスラエルに言われた。「めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。……あなたはわたしが命じるこれらの事を、ことごとく聞いて守らなければならない」(申命記12:8、28)。どんな行為の決定に当たっても、われわれは、その結果が有害かどうかではなくて、それが神のみこころにかなっているかどうかをたずねなければならない。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」(箴言14:12)。 PP 331.2

「従うことは犠牲にまさり」(サムエル記上15:22)。犠牲の捧げ物は、ただそれだけでは、神の前になんの価値もない。それは、犠牲を捧げる者が、罪の悔い改めとキリストを信じる信仰を表し、将来神の律法に従うことを約束することを表すためのものであった。しかし、悔い改めと信仰と服従心がないならば、捧げ物に価値はない。サウルは、神の命令に真正面から反逆して、神が滅ぼせと言われたものを捧げ物にしようとした時に、彼は、公然と神の権威を軽蔑した。儀式は、天の神に対する侮辱であった。それなのにサウルの罪とその結果を眼前に見ながら、なんと多くの者が同じ道を歩いていることであろう。彼らは、主の要求の一部を信じて従うことを拒んでいるにもかかわらず、形式的な礼拝は熱心に続けている。こうした礼拝には、神の霊の応答がない。もし人々が、神の戒めの1つを故意に犯し続けているならば、彼らがどんなに熱心に宗教的な儀式を守ったとしても、主は、それをお受けになることができない。 PP 331.3

「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである」(同15:23)。反逆の創始者はサタンである。神に対する反逆は、すべてサタンの直接の影響によるものである。神の統治に反逆する者は、大反逆者と同盟を結んだのである。そして、彼は、人々を魅惑して理解を誤らせるために、その能力と技能を働かせる。彼は、すべてのものを虚偽で彩る。彼の魔力に惑わされたものは、われわれの先祖と同様に、罪によって得ることができる大きな利益のことしか考えない。 PP 331.4

サタンの欺瞞の力は、実に強力で、彼に従う多くの者が、実際に神に仕えていると思い込んでしまうほどである。コラ、ダタン、アビラムがモーセの権威に逆らったとき、彼らは、自分たちと同様の人間的指導者に反対していると考えた。そして、彼らは、真に神のために働いていると信じこんだ。しかし、彼らは神が選ばれた器を拒むことによってキリストを拒んだ。彼らは、神の霊を侮辱した。そのように、キリストの時代の学者や長老たちは、神のみ栄えに対する非常な熱意を持っていると言いながら、キリストを十字架につけた。神のみこころにそむいて、自分の意志に従おうとする者の心に、同じ精神が宿っている。 PP 331.5

サウルは、サムエルが神の霊感を受けたことについての十分な証拠を与えられていた。彼が預言者によって与えられた神の命令を彼があえて無視したことは、理性と健全な判断の命じることにそむいていた。彼の致命的不遜な態度は、サタンの魔術のためであったに違いない。サウルは、非常な熱心さをもって偶像礼拝と魔術とを禁止した。それにもかかわらず、彼は、神に対抗する同様の精神に支配されて、神の命にそむき、魔術を行う人々と同様に、実際にサタンの力に動かされていた。彼は譴責された時に、反逆に強情の罪も加えた。彼がたとえ公然と偶像礼拝に加わったとしても、神の霊をこれ以上侮辱することはできなかった。 PP 331.6

神の言葉、または聖霊の譴責と警告を軽んじることは危険なことである。多くの者は、サウルのように 誘惑に負けて目がくらみ、罪のほんとうの性質がわからなくなってしまう。彼らは、有意義な目標をめざしているという自負心をいだいていて、神の要求から離れても悪を行ったとは思っていない。こうして、彼らは恵み深い霊を軽んじて、ついにその声を聞くことができなくなって、自分たちの選んだ欺瞞の中に取り残されてしまう。 PP 331.7

神は、人々が望んだ通りの王サウルをイスラエルにお与えになった。サムエルは、ギルガルでサウルを王に立てて言った。「それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい」(同12:13)。彼は眉目秀麗で背が高く、風釆がりっぱであったので、彼の外観は、人々の王に対する期待にかなっていた。そして、彼の勇気と軍隊を指揮する能力とは、他国の尊敬と誉れとを得るために何よりもたいせつなものであると彼らが考えた特質であった。彼らは、王が正義と公平とをもって、国を治めるためには、不可欠のより高尚な特質を持っているかどうかは少しも考えなかった。彼らは真に品性の気高い人、神を愛しおそれる人を求めなかった。彼らは、神の特選の民としての独特の清い生活を保つために、支配者が持つべき特質について、神の勧告を仰がなかった。彼らは、神の望まれることではなくて、自分たちのしたいことをしようとしていた。であるから、神は、彼らが求めたような王を彼らに与え、彼らと同じ品性の持ち主をお与えになった。彼らの心は、神に従っていなかった。そして、彼らの王もまた、神の恵みに従っていなかった。彼らは、この王の支配下にあって、自分たちの誤りを認め、神に忠誠を尽くすようになるために必要な経験を得るのであった。 PP 332.1

しかし、主は、サウルに王国の責任を負わせられたので、彼をそのまま放任なさらなかった。神は、サウルに聖霊を与えて、彼の弱さと神の恵みの必要をあらわされた。だから、サウルが神に信頼したならば、神は、彼と共におられるのであった。彼の意志が神のみこころに支配されているかぎり、そして、彼が霊の訓練に服するかぎり、神は、サウルの努力を成功させられるのであった。しかし、サウルは、神を度外視して行動した時に、主は彼を指導することができなくなり、彼を捨てられたのである。そのとき、「主は自分の心にかなう人」を王位に召された(同13:14)。彼は、品性の欠点がなかったわけではなかった。しかし、彼は自己にたよる代わりに神にたより、神の霊に導かれるのであった。彼は、罪を犯した時には、譴責とこらしめに従うのであった。 PP 332.2