人類のあけぼの
第60章 サウルの不遜な態度
本章は、サムエル記上13、14章に基づく PP 322.1
サウルは、ギルガルにおける集会後、アンモン人を打ち破るために召集した軍隊を解散させ、彼の指揮下の2000人をミクマシに残し、1000人を王子のヨナタンと共にギベアにおいた。これは、大きなまちがいであった。彼の軍隊は、今度の勝利によって希望と勇気にあふれていた。であるから、サウルがすぐにイスラエルの他の敵を攻めたならば、国家を自由にするために効果的打撃を与えることができたはずであった。 PP 322.2
そうこうしているうちに、好戦的隣国のペリシテ人は活発に動いていた。彼らは、エベネゼルで敗北したあとも、なお、イスラエル国内の山地に数か所の要塞を確保していたが、今度は、国の中央に陣取るようになった。ペリシテ人は、装備、軍備、設備などの点で、イスラエルよりは、はるかにすぐれていた。彼らは、彼らの長期にわたる圧制中、イスラエル人が鉄工に従事することを禁じて武器を作らせず、彼らの勢力の維持に努めた。ヘブル人は、和平を結んだあとも、なお、ペリシテ人の陣地へ行って、必要な細工をしてもらった。イスラエルの人々は長年の圧制のために安易を好み、卑劣な精神をいだくようになり、大部分の者は武器の準備を怠っていた。戦いの時には弓や石投げが用いられ、こういうものは、イスラエル人も手に入れることができた。しかし、サウルと彼のむすこヨナタンのほかには、やりもつるぎも持っている者はいなかった。 PP 322.3
サウル王の治世の第2年目になって、初めて、ペリシテ人を征服しようとする動きが起こった。王子ヨナタンが、まず攻撃を開始し、ゲバにある彼らの要塞を攻撃して打ち破った。この敗北に激怒したペリシテ人は、すぐにイスラエルを急襲する準備を開始した。ここで、サウルはラッパを吹きならして、全国に戦いの布告を伝え、ヨルダンの向こうの部族も含めて、すべての戦士をギルガルに召集した。人々は、この召集に応じた。 PP 322.4
ペリシテ人は、ミクマシに巨大な軍勢を結集した。「戦車3000、騎兵6000、民は浜べの砂のように多かった」(サムエル上13:5)。この知らせが、ギルガルのサウルとその軍勢に伝えられたとき、人々は、彼らの戦わなければならない敵の大軍に、びっくりぎょうてんした。彼らには、敵に当面する準備がなかった。多くの者は恐怖におびえて、あえて戦ってみようともしなかった。ヨルダンを渡った者もあれば、その地域一帯に多くあった穴や岩に隠れる者もあった。合戦の時が近づいた時には、脱走者が急激に増加して、隊にふみとどまっていた者も、不吉な予感と恐怖に満たされた。 PP 322.5
サウルが、最初、イスラエルの王として、油を注がれた時にもこの時の行動について、明確な指示がサムエルから与えられていた。「あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、7日のあいだ待たなければならない」と預言者は言った(同10:8)。 PP 322.6
サウルは、いく日もとどまっていたが、その間に、人々を励まし、神に対する信頼心を起こさせるためになんの決定的努力もしなかった。定められた期間が完了する前に、彼は遅延にしびれを切らし、周囲の困難な状況に失望してしまった。サムエルが到着して行うことになっていた儀式のために、忠実に人々の準備を促す代わりに、彼は、不信と不安感をいだいた。犠牲を捧げて神に祈り求めることは、最も厳粛で重要な務めであった。そして、捧げ物が神に受け入れられ、彼らの敵を征服しようとする努力が神に 祝福されるためには、神の民が心をさぐり、罪を悔い改めることを神はお求めになった。しかし、サウルは落ち着きを失った。そして人々は、神の助けに信頼する代わりに、彼らの選んだ王の指導を期待した。 PP 322.7
しかし、主は、なお彼らをみ心にとめ、もし彼らが弱い肉の腕だけに頼ったとしたなら陥ったであろう不幸には、あわせられなかった。神は、彼らが人間に頼ることの愚かさを悟って、神だけを頼りにするようになるために、彼らを窮地に陥れられた。サウルを試みる時が来た。ここで、彼は、神に信頼するかどうか、また神の命令に従って忍耐して待つかどうかを明らかにしなければならなかった。こうして、彼は、困難に当面した場合、神の民の指導者として、神の信頼を受けるに足る人物であることを示すか、それとも、動揺して、彼に委ねられた聖なる責任を負う価値がないかを示すことになった。イスラエルが選んだ王は、諸王の王なる神に聞き従うであろうか。彼は、気力を失った兵隊たちの心を、永遠の力と救いの所有主に向けるであろうか。 PP 323.1
彼は、サムエルの到着を、今か今かと待った。そして、軍勢の混乱と兵の脱走事件などは、預言者が来ないためであると思った。定められた時が来たのに、神の人はすぐに現れなかった。神の摂理が、神のしもべを引き留めたのであった。しかし、サウルの落ち着かない衝動的精神は、これ以上制しておくことができなかった。何かをして人々の恐怖を静めなければならないと思って、彼は宗教的祭りの集会を開き、捧げ物を捧げて、神の助けを求めることにした。神は、その務めのために聖別された者だけが、神の前で捧げ物を捧げなければならないという指示を与えておられた。しかし、サウルは、「燔祭……をわたしの所に持ってきなさい」と命じた(同13:9)。彼はよろいを着て、武器を持ったまま祭壇に近づいて、神の前に犠牲を捧げた。「その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た」(同13:10)。サムエルは、すぐにサウルが明白な指示とは反対のことを行ったことを悟った。主は、この危機において、イスラエルがなすべきことを、この時に示すと、神の預言者を通じて語っておられたのである。もしサウルが、神からの援助を受ける条件に従っていたならば、主は、王に忠誠を尽くした少数の者を用いて、イスラエルのために驚くべき救いをもたらされたことであろう。しかし、サウルは自分と自分の業績に満足し、譴責ではなく賞賛に値するもののように、預言者を出迎えた。 PP 323.2
サムエルの表情は、心配と苦悩に満ちていた。「あなたは何をしたのですか」という彼の問いに答えて、サウルは、彼の不遜な行為の言いわけをした。「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」と彼は言った(同13:11、12)。 PP 323.3
「サムエルはサウルに言った、『あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた』。……こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギベアに上っていった」(同13:13~15)。 PP 323.4
イスラエルは、神の民でなくなるか、それとも、王国の基礎である原則を維持して、神の力に支配される国になるかのどちらかにならなければならなかった。もし、イスラエルが、全く主のがわに立ち、人間的で地上的な意志を神の意志に服従させるならば、神は、引き続きイスラエルの支配者になられるのであった。王と国民とが神に従属したものとして行動するかぎり、神は彼らの防御となられるのであった。しかし、イスラエルでは、すべてにおいて神の至上権を認めない王国は、栄えることができなかった。サウルが、この試練の時に、神の要求に対する尊敬を示したならば、神は、彼によって、神のみこころをなさることが できたのである。ところが、彼は、そうしなかったために神の民の代表者としての資格を失った。彼は、イスラエルを迷わせるのであった。神の意志でなくて、彼の意志が支配力になるのであった。もし、サウルが忠実であったならば、彼の王国は、永遠に確立されたことであろう。しかし、彼の失敗のために、神の計画は他の者によって完成されなければならなかった。イスラエルの統治権は、天の神のみこころに従って、人々を治める者に委ねられなければならなかった。 PP 323.5
われわれは、神の試練を受ける時に、それがどのような重大事にかかわりがあるかを知らない。神のみ言葉に、全的に服従する以外に安全はない。神の約束は、すべて、信仰と服従を条件にして与えられたもので、神の命令に応じなければ、聖書にしるされている豊かな恵みにあずかることができない。われわれは衝動にかられたり、人間の判断に頼ったりしてはならない。われわれはどんな環境にあっても、神の啓示されたみこころを仰ぎ、神の明らかな戒めに従って歩かなければならない。結果は、神が責任を負って下さる。われわれは、試練の時に、神のみことばに忠実に従い、どんな困難な事態においても、神に信頼され、神のみ名に栄光を帰し、神の民の祝福となることができることを、人々と天使の前で実証することができるのである。 PP 324.1
サウルは、神のみこころを痛めたが、それでも悔い改めて心を低くしようとしなかった。彼は、真の敬神の念の欠乏を、宗教の形式に対する熱意によって補おうとした。サウルは、ホフニとピネハスが神の箱を陣営に持ち出して、イスラエルの敗北を招いたことを知らなかったわけではなかった。しかし、サウルは、こうしたことをみな知りながら、聖なる箱とそれに付き添っている祭司を迎えにやった。こうして彼は、人々の信頼を得ることができれば、離散した軍勢をふたたび結集して、ペリシテ人と戦うことができると希望していた。彼は、サムエルがそこに来て彼を支持することを待たずに実行した。こうして彼は、預言者のうれしくない批評と譴責をのがれようとした。 PP 324.2
サウルには、彼の理解を深め、心を和らげるために、聖霊が与えられていた。彼は、神の預言者の忠実な指示と譴責を受けていた。それにもかかわらず彼は、なんと邪悪な心の持ち主であったことであろう。イスラエルの最初の王の生涯は、幼少のころの悪習慣の力がどんなに強いかを示す悲しい実例である。サウルは、若いころ神を愛しおそれなかった。そして、幼い時に服従を教えられなかった性急な情神が、常に神に反抗した。若い時に、神のみこころを尊重し、自分の置かれた立場の義務を忠実に果たす者は、後年、さらに大きな奉仕をするための準備が与えられる。しかし、神がお与えになった能力を長年にわたって乱用しておきながら、急にそれを全然反対の方向に向けて生き生きと自由に活動させることはできない。 PP 324.3
サウルが、人々を奮起させようとした努力は失敗に終わった。サウルは、軍勢が600人になってしまったのでギルガルを去って、さきごろベリシテ人から占領したゲバの城塞に退いた。この城塞は、深く、けわしい峡谷の南側にあって、エルサレムの北方約数マイルのところにあった。同じ谷間の北側が、ペリシテ人の陣地のミクマシで、彼らは、そこから軍隊を方々に送って国中を荒らしていた。 PP 324.4
神は、サウルの強情な心を譴責し、神の民に謙遜と信仰の教訓を与えるために、事態が、こうした危機に陥ることをお許しになった。主は、サウルが、僭越にも捧げ物を捧げて罪を犯したために、ペリシテ人を滅ぼす栄誉を彼にお与えにならなかった。主をおそれた王子のヨナタンが、イスラエルを救う器に選ばれた。彼は神からの感動を受けて、武器をとる若者に向かって、敵の陣地にひそかに乗り込もうと言った。「主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」と彼は言った(同14:6)。 PP 324.5
武器をとる若者も、また信仰と祈りの人で、その計略を実行することを勧め、他の者に反対されるのを避けるために、2人でひそかに陣地を抜け出た。彼 らは、先祖たちを導かれた神に熱心な祈りを捧げてから、その後の行動に移る場合の合図をきめた。こうして、彼らは、両軍を隔てている谷間におり、断崖の陰に隠れたり、山々の峰の間をぬったりして黙々と前進した。やがて彼らは、ペリシテ人の陣地に近づいて、敵前に姿を現した。すると、ペリシテ人は彼らをあざけって、「見よ、ヘブルびとが、隠れていた穴から出てくる」と言った(同14:11)。彼らは、「われわれのところに上ってこい。目に、もの見せてくれよう」といどみかけ、接近してきたこの2人のイスラエル人に罰を与えようと考えた(同14:12)。この挑戦は、主が彼らの企てを成功させてくださる証拠として、ヨナタンと武器をとる若者とが定めておいた合図であった。勇者たちは、ペリシテ人の前から姿を消して、けわしい隠れた通路を選び、接近するのが不可能と思われていた断崖の頂上に進んで行った。そこは、強固な防備がほどこされていなかった。こうして、彼らは、敵の陣地に侵入して、守備兵を殺した。敵は不意を打たれて、あわてふためき、なんの抵抗もしなかった。 PP 324.6
天使たちが、ヨナタンと武器をとる若者を守護し、彼らと共に戦ったので、ペリシテ人は、彼らの前に敗れ去った。騎兵と戦車の大軍が接近するかのように、地は、震え動いた。ヨナタンは、神の助けの証拠を認めた。そして、ペリシテ人でさえ、神がイスラエルを救済するために働かれたことを知った。ペリシテ人は、野にいる者も陣営にいる者も、全軍が大きな恐怖に襲われ、大混乱を起こし、味方を敵軍とまちがえて同士打ちを始めた。やがて、戦いの音が、イスラエルの陣営に聞こえてきた。王の見張りは、ペリシテ人の間に大混乱が起こり、その数が減少していることを報告した。しかし、ヘブルの軍勢の中から、陣営を離れた者があることは、まだわからなかった。調査の結果、ヨナタンと武器をとる者の2人だけが不在であることがわかった。しかし、ペリシテ人が退却しているのを見て、サウルは軍勢を率いて攻撃に加わった。敵軍のがわに逃亡していたヘブル人たちも、今度は逆にペリシテ人に立ち向かった。隠れがから出て来た者も多くいた。サウルの軍勢は計略が破れて敗走するペリシテ人をさんざんに苦しめた。 PP 325.1
サウルは、彼の優位を最大限に活用しようと思い、向こう見ずにも、丸1日間食物をとることを兵隊たちに禁じ、「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言って、厳粛な誓いのもとに命令を断行した(同14:24)。こうした事態になったことを知って、サウルが協力するまでもなく、勝利はすでにきまっていた。しかし、彼は、敵を全滅させて自分の名をあげようとした。王が断食の命令を出したことは、利己的野心からであって、自己を賞揚するためには、民の必要などには無関心であることを明らかにした。その禁令を誓ってまでも厳守させたことは、サウル王が向こう見ずで、神を敬わない人間であることをあらわした。のろいの言葉自体も、サウルのこの熱心さが、神の栄光のためではなくて、自己のためであることを証明している。彼の目的は、「主が敵にあだを返される」ことではなくて、「わたしが敵にあだを返す」ことであると彼は言った。 PP 325.2
禁令は、人々に神のおきてを犯させることになった。彼らは、何も食べずに1日中戦ったので倒れそうになった。それで、禁令の時間が過ぎるやいなや、彼らは、ぶんどり物をほふって、その肉を血のまま食べて、血を食べることを禁じていたおきてを犯した。 PP 325.3
王が禁令を出したことを知らなかったヨナタンは、昼間、戦っていた時に通った森の中ではち蜜を少し食べて、禁令を知らずに犯した。夕方になって、サウルはこのことを聞いた。禁令の違反者は、死に処せられると彼は言っていた。ヨナタンは故意にそむいたのではなかった。また、彼の生命は奇跡的に保護され、彼によって救済がもたらされたにもかかわらず、王は、刑の執行を命令した。サウルが王子の命を救うことは、このような向こう見ずな誓いをさせた自分が罪を犯していたことを自認することになるのであった。それでは、彼の誇りが傷つけられるのであった。「神がわたしをいくえにも罰してくださるように。ヨナタンよ、あなたは必ず死ななければならない」と、彼は恐ろしい宣告を下した(同14:44)。 PP 325.4
サウルは、勝利の栄光を自分に帰することはできなかった。しかし、誓いの神聖さを保とうとする彼の熱意によって誉れを得ようと望んだ。彼は、自分のむすこを犠牲にしてでも、王の権威を保つべきであるということを国民に印象づけようとした。サウルは、この少し前に、ギルガルにおいて、差し出がましくも、神の命令に反して祭司の務めを行ったのであった。彼は、サムエルの譴責を受けると、頑強に自分を正当化した。ところが、彼の命令の違反者があれば、その命令が不合理で、しかも、知らずに犯したものであっても、王であり父であるサウルは、王子の死を宣告したのである。 PP 326.1
人々は、その宣告の執行を拒否した。彼らは、王の怒りを恐れずに言った。「イスラエルのうちにこの大いなる勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。決してそうではありません。主は生きておられます。ヨナタンの髪の毛ひとすじも地に落してはなりません。彼は神と共にきょう働いたのです」(同14:45)。 PP 326.2
高慢な王は、この満場一致の裁決を無視することはできなかった。そして、ヨナタンは救われた。 PP 326.3
サウルは、王子が自分以上に神からも人々からも愛されていることを、感じないわけにいかなかった。ヨナタンが救われたことは、王の無分別に対するきびしい譴責であった。彼は、自分ののろいが自分の頭にかえってくるのを感じた。彼は、ペリシテ人との戦いを長く続けないで、ゆううつと不満のうちに家に帰った。 PP 326.4
すぐに自分の罪の言い訳をしたり、弁解をしたりする人は、他人をきびしくさばき非難する人でもある。多くの者は、サウルのように、神の不興を招くのであるが、勧告を拒み、譴責を軽蔑する。主が彼らと共におられないことが明らかになっても、悩みの原因が、自分たち自身にあったことを認めようとしない。彼らは、高慢で自負心をいだいている。その反面、彼らは、彼らよりも善良な他の人々を残酷にさばき、きびしく譴責する。こうして、自分たちを裁判官の座にすわらせる人々は、次のキリストの言葉をよく考えるがよい。「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」(マタイ7:2)。 PP 326.5
自己を高めようとする者は、その本性を暴露する立場に置かれることがよくある。サウルの場合もその通りであった。人々は、王が、正義、憐れみ、愛よりも、王の栄誉と権威を重んじたことを、彼自身の行動によってはっきりと知ることができた。こうして、人々は、神がお与えになった統治を拒否したことが誤りであったことを悟らされた。彼らは、彼らのために祝福を祈り求めた敬神深い預言者の代わりに、盲目的熱心さをもって祈り、彼らにのろいを下す王を選んだのであった。 PP 326.6
もし、イスラエルの人々が、ヨナタンを救うために介入しなかったならぼ、彼らの救済者は、王の命令によって殺されてしまったことであろう。その後、人々はどんな不安感をいだいて、王に従ったことであろう。人々は、彼ら自身がサウルを王位につけたことを、どんなに悲しんだことであろう。主は、人々の頑強さを長く忍ばれる。そして、すべての者に、罪を認めて悔い改める機会をお与えになる。神のみこころを無視し、神の警告を軽蔑する者は、栄えるように見えても、神がお定めになった時が来れば、必ずその愚かさをあらわすのである。 PP 326.7