人類のあけぼの

64/75

第62章 ダビデ油を注がれる

本章は、サムエル記上16:1~13に基づく PP 332.3

「大いなる王の都」(詩篇48:2)エルサレムの南方、数マイル離れたところにベツレヘムがある。幼子イエスが飼い葉おけに寝かされ、東方から来た博士たちの礼拝を受けられた時から、1000年以上もさかのぼった昔、ここでエッサイの子ダビデが生まれた。救い主降誕の何世紀も前に、活気に満ちた少年ダビデは、ベツレヘムのまわりの山々で、草を食べる羊の番をしていた。純朴な羊飼いの少年は、自分の作った歌をうたい、その新鮮で若々しい歌の調べに合わせてたて琴をかきならすのであった。主は、ダビデを選び、羊飼いの孤独な生活の中にあって、後年彼に委ねようと計画された任務に対する準備をさせておられた。 PP 332.4

こうして、ダビデが人里離れて身分の低い羊飼いの生活を送っていた時に、主なる神は、彼について預言者サムエルに語られた。「さて主はサムエルに言われた、『わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである』。……『1頭の子牛を 引いていって、「主に犠牲をささげるためにきました」と言いなさい。そしてエッサイを犠牲の場所に呼びなさい。その時わたしはあなたのすることを示します。わたしがあなたに告げる人に油を注がなければならない』。サムエルは主が命じられたようにして、ベツレヘムへ行った。町の長老たちは、恐れながら出て、彼を迎え、『穏やかな事のためにこられたのですか』と言った。サムエルは言った、『穏やかな事のためです』」(サムエル記上16:1~5)。長老たちは、犠牲の場への招待を受け入れた。そして、サムエルは、エッサイとそのむすこたちも招いた。祭壇が築かれ、犠牲が用意された。そこには羊のるす番をさせられた一番年下のダビデを除いて、エッサイの全家が集まっていた。羊を見張っていないと危険だったからである。 PP 332.5

犠牲を捧げ終わって、一同が供え物のふるまいにあずかるに先立ち、サムエルは堂々たる外見をしたエッサイのむすこたちを預言者の目で見始めた。最年長のエリアブは、背の高さといい美しさといい、他のだれよりもサウルに似ていた。彼の顔かたちとよく発達した体格は預言者の注目をひいた。彼の貴公子のような姿を見たサムエルは、「この人こそ、神がサウルの後継者として選ばれた人だ」と思った。そして、彼は、この人に油を注ぐようにという神のゆるしを待った。ところが主は、外観を見られなかった。エリアブは、主をおそれなかった。もしも彼が王位に召されたならば、高慢で苛酷な支配者になったことであろう。主は、サムエルに言われた。「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(同16:7)。顔かたちが美しいからといって、神によく思われることはできない。品性と行為にあらわれる知恵と美徳が、人間の真の美を表現する。内面の価値と心の卓越性とが、万軍の主に受け入れられるかいなかを決定するものである。われわれは、自己、または、他人を評価するに当たって、この事実を深く感じなければならない。顔の美しさや姿の気高さによる評価が当てにならないことを、サムエルの失敗から学ばなければならない。天からの特別の光を受けなければ、われわれは人間の知恵では、人の心の秘密も、神の勧告も理解することができないことを悟るのである。被造物に対する神の思いと方法とは、われわれの有限な心の思いを越えている。しかし、もし、神の子供たちが、人間の曲がった心によって神の恵み深い計画を無にしないように心がけ、その意志を神に従わせていさえすれば、彼らは、必ずそれぞれの力量に応じた地位を占め、彼らに委ねられた任務を完成することができるのである。 PP 333.1

エリアブは、サムエルの検査を受けて立ち去り、礼拝に出ていた6人の兄弟たちも次々と預言者に観察されたのであるが、主は、その中からはだれもお選びにならなかった。サムエルは、不安に心を痛めながら若者たちの最後の人を見た。預言者は、全く途方にくれた。彼は、エッサイに尋ねた。「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。父は答えた、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルは、彼を呼んでくるように指示して、「彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」と言った(同16:11)。 PP 333.2

1人で羊を飼っていたダビデは、預言者がベツレヘムに来て彼を呼んでいるという、使いの者の不意の招きに驚いた。彼は、イスラエルの預言者であり士師であるサムエルが、なぜ自分に会いたいのだろうかと、驚いてたずねた。しかし、彼は、すぐに招きに応じた。「彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった」。サムエルは、このりっぱで男らしい謙遜な羊飼いの少年を満足げに見ていた。すると、主は預言者に、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」と言われた(同16:12)。ダビデは、羊飼いの日常の仕事をしながら、勇敢さと忠実さを実証した。そこで、神は、彼を神の民の指導者に選ばれたのである。「サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ」(同16:13)。預言者は、委ねられた務めを果たして安心して ラマへ帰った。 PP 333.3

サムエルは、エッサイの家族にさえ、彼が来た用向きを知らせなかった。そして、ダビデに油を注ぐ式は、秘密のうちに行われた。これは若者に大きな運命が待っていることを暗示した。このことは、後になって、彼があらゆる種類の経験や危険にあいながらも、彼の生涯によって神が成し遂げようとされた神のみこころへの忠誠を彼に促すためであった。 PP 334.1

ダビデには大きな栄誉が与えられたが、高慢にならなかった。彼は、高い地位に就くことになったが、静かに自分の職業を続け、主が、ご自身の時と方法によって主の計画を進められるのを待って満足していた。羊飼いの少年は、油を注がれる前と同じ謙遜な気持ちで、山にもどって、以前と同様に羊の群れをやさしく見守り保護した。しかし、彼は新しく霊感を受けて曲を作り、たて琴をかなでた。彼の前には、豊かで種々さまざまの美に満ちた景色が展開された。ふさふさと実をつけたぶどうの木が、日の光に輝いていた。青葉をつけた森の木々がそよ風に揺れていた。花婿がその祝いの部屋から出てくるように、また勇士が競い走るように、太陽があかあかと空に輝いて昇ってくるのを彼は見た。また、空高くそびえ立つ山々の頂があった。はるか遠方には、モアブの不毛の山々のがけが、壁のように連なっていた。こうしたすべてのものの上に澄みきった青空が広がっていた。そして、その向こうに神がおられた。彼は、神を見ることはできなかった。しかし、神が造られたものは神に対する賛美にあふれていた。太陽の光は、森や山、野や小川を照らし、あらゆるよい贈り物、あらゆる完全な賜物の与え主である光の父を心に思わせた。 PP 334.2

日ごとに創造主の品性と威光の啓示に接した若い詩人の心は、賛美と歓喜に満たされた。ダビデの心の能力は、神と神のみわざを瞑想しているうちに、彼の将来の仕事のために啓発され強められた。彼は、日ごとに神と深く交わった。彼の心は、常に彼の歌に霊感を与え、彼のたて琴にメロディーを呼び起こす新しい主題を、深くさぐっていた、彼の豊かな歌の調べは、天の使いたちの歓喜の歌に応じるかのように、空気をふるわせ、山々に反響した。 PP 334.3

いったい誰がこうした寂しい山の中の長年の苦労と放浪の結果を知ることができよう。自然と神との交わり、羊たちの世話、危険と救出、悲哀と歓喜、低い境遇などは、ダビデの品性を形成し、彼の後の生涯に影響を与えただけではなかった。それは、イスラエルの美しい詩人の詩篇として書き残されて、その後のすべての時代の神の民の心に愛と信仰を呼び起こし、すべての被造物に命を与えられた主の愛の心に、彼らを近づけているのである。 PP 334.4

青春の美と活気に満ちていたダビデは、地の高貴な人たちと同じ高い地位に就く準備をしていた。彼の才能は、神からの尊い賜物として、与え主であられる神の栄光を賛美するために用いられた。彼の熟考と瞑想の機会は、彼の知恵と敬神の念をいよいよ豊かにし、彼を神と人から愛される者にした。彼は、創造主の完全さを瞑想することによって、神のことをはっきりと理解することができたのである。不明瞭な問題は明らかにされ、困難なことは平易にされ、混乱の中に調和が見いだされていき、新しい光が与えられるたびに、彼は歓喜の声をあげ、神と贖い主の栄光に対して美しい献身の歌をうたった。彼を感動させた愛、彼を悩ました悲哀、彼の得た勝利などは、みな、彼の活発な心の主題であった。そして、彼が自分の生涯のすべての摂理の中に、神の愛をながめたとき、彼の心は熱烈な賛美の感謝に脈打ち、彼の口からはさらに美しい旋律が流れ、たて琴は歓喜にあふれてかきならされた。こうして、羊飼いの少年は、力から力へ、知識から知識へと進んでいった。それは、神の霊が彼と共におられたからである。 PP 334.5