人類のあけぼの

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第46章 祝福とのろい

本章は、ヨシュア記8章に基づく PP 258.6

アカンに対する罪の宣告が執行された後で、ヨシュアは、すべての勇士たちを召集して、アイへ進撃するように命じられた。神の力が人々と共にあったので、彼らはすぐに町を占領した。 PP 258.7

イスラエル全体が、厳粛な宗教的礼拝を行うために、ここで軍事活動が停止された。人々は、カナンに 定住したいと熱望していた。しかし、まだ、家族のための家もなければ、土地もなかった。それらを手に入れるためには、カナン人を追い出さなければならなかった。しかし、この重要な働きは、延期しなければならなかった。彼らは、それよりももっと重要なことを先に果たさなければならなかった。 PP 258.8

民は、嗣業を手に入れる前に、神に対する忠誠の誓いを新たにしなければならなかった。部族をシケムのエバル山とゲリジム山に召集し、神の律法を厳粛に認めるようにとの指示が、モーセの最後の教えの中で、2回与えられていた。この命令に従って、人々は、みな、男ばかりでなく、「女と子どもたち、ならびにイスラエルのうちに住む寄留の他国人」もギルガルの陣営を出て、カナンの地の中央に近いシケムの谷へ、敵国を通って進んで行った(ヨシュア8:35)。彼らは、まだ征服していない敵にとり囲まれていたが、神に忠実であるかぎり、神の保護のもとに安全であった。ちょうどヤコブの時のように、「大いなる恐れが周囲の町々に起ったので」ヘブル人は妨害されなかった(創世記35:5)。 PP 259.1

この厳粛な礼拝のために定められた場所は、すでに彼らの父祖たちの歴史とつながりのある聖なる場所であった。ここは、アブラハムがカナンの地で主に最初の祭壇を築いたところであった。ここは、アブラハムとヤコブが天幕を張ったところであった。ここにヤコブは畑を買い、部族の人たちはヨセフの遺体をそこに埋葬することになった。ここはまた、ヤコブの掘った井戸と、彼が家族の偶像をその下に埋めたかしの木があった。 PP 259.2

選ばれた土地は、パレスチナ全地で最も美しい土地の1つで、この大いなる印象的な光景が演じられる舞台としてふさわしかった。緑の野にオリーブの森が点在し、こんこんとあふれて尽きない泉から流れ出る川にうるおされ、野の花に彩られている美しい谷間が、不毛の山々の間に魅力をたたえてひろがっていた。その谷間の両がわに、エバル山とゲリジム山が近くに向かい合っていて、その低いところにある突出部が自然の講壇のように見え、その一方の上で話されることばの1つ1つが向かいがわにはっきり聞こえ、後方に広がる山腹は、おびただしい会衆の集合場所となっていた。 PP 259.3

モーセから与えられた指示に従って、大きな石の記念碑がエバル山に建てられた。この石に前もってしっくいをぬっておき、その上に律法が書き込まれた。それはシナイ山で語られて石の板に刻まれた十戒ばかりでなく、モーセに伝えられて本に書かれた律法もあった。この記念碑のそばに、切り出されたものでない石で祭壇が築かれ、その上で主にいけにえが捧げられた。のろいをかけられた山であるエバル山に祭壇が築かれたことには意味があって、それは、イスラエルが神の律法を犯したゆえに当然神の怒りを招いたのであり、もし、いけにえの祭壇によって象徴されたキリストの贖いがなければ、神の怒りがすぐにものぞむであろうということを示していた。 PP 259.4

レアとラケルから出た6つの部族はゲリジム山に、一方、召使の女たちから出た部族は、ルベン、ゼブルンと一緒にエバル山にそれぞれ場所をとった。祭司たちは、契約の箱と共に、中間の谷に場所を占めた。合図のラッパの音で静粛が宣言された。そして、その深い静けさとこの大会衆の面前で、ヨシュアは、聖なる契約の箱の横に立って、神の律法に従うことに伴う祝福を読み上げた。ゲリジム山の全部族は、アーメンをもってこれに応じた。次にヨシュアがのろいを読み上げると、エバル山の全部族が同じように同意をあらわし、幾千の声がひとりの声のように相和して、厳粛に応答した。続いて神の律法と、モーセから民に伝えられたさだめと戒めが朗読された。 PP 259.5

イスラエルは、律法をシナイ山で神の口から直接に与えられ、そして、神ご自身の手によって書かれたその聖なる戒めは、まだ契約の箱の中に保存されていた。いま、それは再びだれもが読めるところに書かれたのであった。カナンを占領できる契約条件を誰もが自分の目で見る特権が与えられた。誰もが契約の条件を受け入れることを表示し、これに従えば祝福を受け、これに従わなければのろいを受けることに同意するのであった。律法は、記念の石に書かれ たばかりでなく、ヨシュア自身によって全イスラエルの聞いている前で読み上げられた。モーセが申命記全部を民に語り終えてから幾週間もたたない今、ヨシュアがふたたび律法を読み上げたのであった。 PP 259.6

イスラエルの男たちばかりでなく、女も子供たちも律法の朗読に聞き入った。彼らも、また、義務を知って実行することが重要であった。神はご自分のさだめに関して、イスラエルにこう命じておられた。「これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供たちに教え……なければならない。そうすれば、主が先祖たちに与えようと誓われた地に、あなたがたの住む日数およびあなたがたの子供たちの住む日数は、天が地をおおう日数のように多いであろう」(申命記11:18~21)。 PP 260.1

律法の全部は、モーセが命じたように、7年目ごとにイスラエルの全会衆の前で読まれるのであった。「7年の終りごとに、すなわち、ゆるしの年の定めの時になり、かりいおの祭に、イスラエルのすべての人があなたの神、主の前に出るため、主の選ばれる場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人の前でこの律法を読んで聞かせなければならない。すなわち男、女、子供およびあなたの町のうちに寄留している他国人など民を集め、彼らにこれを聞かせ、かっ学ばせなければならない。そうすれば彼らはあなたがたの神、主を恐れてこの律法の言葉を、ことごとく守り行うであろう。また彼らの子供たちでこれを知らない者も聞いて、あなたがたの神、主を恐れることを学ぶであろう。あなたがたがヨルダンを渡って行って取る地にながらえる日のあいだ常にそうしなければならない」(申命記31:10~13)。 PP 260.2

サタンは、神の語られたことを人々に曲解させ、心をくもらせ、理解力を暗くして、彼らを罪に陥れようと絶えず働きかけている。であるから、主は、この点を明確にし、だれもご自分の要求をまちがえることがないように、明らかにしておられるのである。神は、サタンが、神の民に残忍で欺瞞的な力を及ぼさないように、絶えず彼らをご自分の保護の下に引き寄せようとしておられる。神はおそれ多くもご自身の声で彼らに語り、ご自身の手で生きたみ言葉をお書きになった。生命力が満ちて、真理の光を放っているこれらの祝福の言葉は、完全な指針として人に与えられているのである。サタンが心を捕らえ、主の約束と要求から人々の気持ちをそらせようとするので、これを頭にきざみつけ、心に印象づけるには、いっそうの努力が必要である。 PP 260.3

聖書の歴史の事実と教訓および主の警告と要求について人々に教えることに、宗教教師はいっそうの注意を払わねばならない。それには子供たちの理解力に適した単純な言葉で説明しなければならない。若い人たちが聖書によって教えられるように留意することが牧師と親たちの働きの一部でなければならない。 PP 260.4

親は子供たちを聖書のなかにあるいろいろな知識によって教育することができる。また、そうすることが彼らの義務である。しかし、むすこ娘たちに神のみ言葉に対する興味を持たせるには、親がみずから興味を持たねばならない。親が聖書の教えをよく知り、神がイスラエルに命じられたように、「家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も」これについて語らねばならない(申命記11:19)。子供たちが神を愛し、おそれるようになることを望む者は、み言葉と、創造のわざにあらわされている神の恵みと威光と力について語らねばならない。 PP 260.5

聖書のどの章どの節も、神からの人類への伝達である。われわれは、その教えを手につけてしるしとし目の間に置いて覚えとしなければならない。われわれがそれを学んで従うときに、イスラエル人が、昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれたように、それは神の民を導くのである。 PP 260.6