人類のあけぼの

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第45章 エリコの陥落

本章は、ヨシュア記5:13~15、6~7章に基づく PP 253.1

ヘブル人は、カナンに入国はしたものの、国土を征服していなかった。そして、国土占領の戦いは、人間の目に、長く困難なものに思われた。そこには、強大な種族が住んでいて、その領土が侵されるのを防ごうとしていた。種々の種族は、共通の危険を感じて団結した。彼らの馬と鉄の戦車、彼らの国土に関する知識、そして、彼らの軍事的訓練などは、彼らにとって大いに有利であった。その上、国土は要塞に守られ、「その町々は大きく、石がきは天に達してい」た(申命記9:1)。このさし迫った戦いにおいて、イスラエル人が勝つためには、彼らの力以上の力の確証によるほかはなかった。 PP 253.2

国の強大な要塞の1つ、すなわち、巨大で富裕なエリコの町が、ギルガルの彼らの宿営から、少し離れて彼らの眼前にあった。熱帯のさまざまな産物を豊かに産出する肥沃な平野の縁に、華美と悪徳の住居であるほこらかな宮殿や神殿があった。そして、この高慢な町が、巨大な城壁に守られて、イスラエルの神に挑戦した。エリコは特に月の女神アシタロテに捧げられた偶像礼拝の本拠地の1つであった。カナン人の宗教において、最も卑しく、堕落的なものがことごとくここに集まっていた。ベテペオルで犯した自分たちの罪の恐るべき結果が、まだ心になまなましいイスラエルの民は、嫌悪と戦慄をもってこの異教の町を見ることができるだけであった。 PP 253.3

ヨシュアには、エリコを降伏させることがカナン征服の第一歩と思われた。だが、彼はまず神の指導の保証を求め、それが与えられた。彼が宿営を退いて瞑想し、イスラエルの神に、民に先立って進まれるように祈っていると、「抜き身のつるぎを手に」した背たけの高い威風堂々たる武装戦士の姿を彼は見た。「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」とヨシュアが問うたところ、「わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」という答えが与えられた。ホレブにおけるモーセと同じく、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」と命じられた(ヨシュア5:13~15)。このことは、この不思議なお方がどなたであるかを示していた。イスラエルの指導者の前に立ったのは、高められたお方、キリストであった。ヨシュアは恐れおののいて、ひれ伏して拝した。そのとき、「わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている」という保証のことばが与えられた(同6:2)。そして、彼は町を占領するための指示を受けた。 PP 253.4

ヨシュアは、神の命令に従ってイスラエルの軍勢を整列させた。攻撃はいっさいしてはならなかった。彼らはただ、神の箱をかつぎ、ラッパを鳴らして、町の周囲を巡るのであった。選ばれた一団の戦士たちが先頭を行ったが、この場合、勝利は、自分たちの技量と武勇によって得るのではなく、神から与えられた指示に従うことによって得るのであった。ラッパを吹き鳴らす7人の祭司がそれに従った。その次に、栄光に輝く神の箱を、聖職にふさわしい衣服を身につけた祭司がかついで歩いた。そして、イスラエルの軍勢の各部族がそれぞれの旗をひるがえして従った。これが滅びる運命にあった町を取り囲んだ行軍であった。この強力な軍勢の足音と、おごそかなラッパの音が山々にこだまし、エリコの町になり響いたほかは、何の物音も聞こえなかった。1周は終わり、軍勢は静かに天幕に帰り、箱は幕屋の所定の場所にもどされた。 PP 253.5

エリコの見張りは驚いて、すべての行動に注目して、当局に報告した。彼らは、この行動のすべての意味はわからなかったが、聖なる箱と祭司たちとともに、この強力な軍勢が、1日に1度、町のまわりを行軍するのを見て、その情景の不思議さに、祭司も民も恐怖をいだいた。もう一度、彼らは強固な要塞を点検し、どんな激しい攻撃にも耐えられることを確かめた。こうした奇妙な示威行進からは、なんの損害を受ける ことかと言って笑う者も多かった。毎日、町を1周する行進を見て恐れる者もいた。紅海が、かつてこの民の前で分かれたこと、また、彼らのためにヨルダン川に道ができたばかりであることを、彼らは思い起こした。彼らのために神がさらにどんな不思議なことを行われるかわからなかった。 PP 253.6

6日の間、イスラエルの軍勢は町のまわりを巡った。7日目になり、夜が明けそめると、ヨシュアは主の軍勢を集めた。そして彼らは、エリコのまわりを7回行進して、ラッパを力強く吹き鳴らし、大声で叫ぶように指令された。神が彼らにこの町をお与えになったからである。 PP 254.1

大軍は、滅びに定められた城壁のまわりをおごそかに行進した。規律正しい足並みと、時おり早朝の静けさを破るラッパの音以外は、すべてが静寂であった。堅い石でできた巨大な城壁は、人間の包囲をものともしないように思われた。1周が終わり、2周目が続き、3周、4周、5周、6周と進むにつれて、城壁の見張りの恐れは増していった。いったい、この不思議な行進はなんのためなのだろう。どんな大事件がこれから起ころうとしているのであろう。それには長い時間がかからなかった。第7周が終わると、長い行進が休止した。ひととき沈黙していたラッパが一度にどっと吹き鳴らされ、大地は震えた。堅固な石の城壁と巨大な塔と要塞は基礎からゆれ動いて、大音響を立てて地にくずれ落ちた。エリコの住民は、恐怖のために力を失い、イスラエルの軍勢は侵入して町を攻め取った。 PP 254.2

イスラエル人は、自分たちの力で勝利を得たのではなく、この征服はまったく主のものであった。そして、この地の初なりとして、エリコとその中のすべてのものは神への供えものとして捧げなければならなかった。カナンの征服にあたって、彼らは自分たちで戦うのではなく、ただ神のみ旨を果たす器として戦うにすぎないこと、また、財産や自己賞揚のためではなく、彼らの王であられる主の栄光を求めるべきことが、イスラエルに深く印象づけられなければならなかった。 PP 254.3

占領に先だって次のような命令が与えられていた。「この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない」「また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。……その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼさるべきものとし、それを悩ますことのないためである」(同6:17、18)。 PP 254.4

町の住民と、その中の命あるものは、「男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろば」も、みなつるぎにかけられた(同6:21)。斥候の約束どおりに、忠実なラハブとその家の者だけが助けられた。町は焼き払われ、宮廷と寺院、豪華な住居とそのぜいたくな設備、きらびやかな織物と高価な衣服は焼かれた火で焼くことのできないもの、すなわち「銀と金、青銅と鉄の器」は、幕屋の奉仕のために捧げなければならなかった(同6:24)。町のあった場所はのろわれた場所となり、エリコは、要塞として再建されてはならなかった。神の力によって崩壊された城壁を復興しようとする者があれば、その人の}二に刑罰が下るのであった。全イスラエルの前で厳粛な宣言が下された。「おおよそ立って、このエリコの町を再建する人は、主の前にのろわれるであろう。その礎をすえる人は長子を失い、その門を建てる人は末の子を失うであろう」(同6:26)。 PP 254.5

エリコの住民の完全な滅亡は、以前カナンの住民についてモーセを通して与えられていた、「あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない」「これらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない」という命令の実現であった(申命記7:2、20:16)。この命令は、聖書の他の箇所に命じられている愛とあわれみの精神に反していると思う人が多いが、実際、それは、無限の知恵と恵みに満ちた命令であった。神はカナンにイスラエルを定住させ、地上における神の王国の表示となるべき国家と政府を彼らのうちに展開しようとしておられた。彼らは、ただ、真の宗教を継ぐだけでなく、その原則を全世界に広めなければならなかった。カナン人は最も邪悪で堕落的な異教に陥っていた。であるから、神の恵み深いみ旨を妨害するに決まっているものをその国土か ら一掃する必要があった。 PP 254.6

カナンの住民には、悔い改めの機会が十分に与えられていた。40年前、紅海が開かれたことと、エジプトに刑罰がくだったことが、イスラエルの神の最高の能力を証明したのである。そして、今度は、ミデアンの王ギレアデと、バシャンの11の敗北によって、主がすべての神々の上におられることがさらに明らかに示された。神のご品性の神聖さと不潔をきらわれるお気持ちは、バアルペオルのいまわしい儀式に加わったイスラエル人にくだった刑罰にあらわされた。こうした出来事は、みな、エリコの住民に知られていた。そして、多くの者は、服従することは拒んだものの、ラハブと同じく、イスラエルの神、主は、「上の天にも、下の地にも、神でいらせられる」と悟った(ヨシュア2:11)。カナン人の生活は、洪水前の人々と同様に、ただ天をののしり、地を汚すだけであった。神に反逆し、人間に敵するこうした人々が、すみやかに処罰されることを、愛と義は共に要求していた。 PP 255.1

40年前、不信仰な斥候たちを恐怖に陥れた高慢な町エリコの城壁を、天の軍勢は、なんとやすやすと打ち破ったことであろう。「わたしはエリコ……を、あなたの手にわたしている」とイスラエルの全能者は言われた(同6:2)。このみことばに対して、人間の力は無力である。 PP 255.2

「信仰によって、エリコの城壁は……くずれおちた」(ヘブル11:30)。主の軍勢の将は、ヨシュアにだけお語りになった。彼は、全会衆には、ご自分を現されなかった。それで、ヨシュアの言葉を信じるか疑うか、また、彼が、主の名によって語った言葉に従うか、それとも彼の権威を拒否するかは人々にかかっていた。神のみ子の指揮のもとに、彼らに付き添っていた天使の軍勢を、彼らは見ることができなかった。「これは、なんという無意味な運動であろう。雄羊の角のラッパを吹いて、毎日町の城壁の周囲を回ることは、なんとおかしなことであろう。このようなことは、そびえ立つ城塞になんの効果もあり得ない」と彼らは考えることができた。しかし、城壁がついにくずれ落ちるに先だって、このように長い間、儀式を継続する計画そのものが、イスラエルの人々の信仰を助長する機会となった。それは、彼らの力が、人間の知恵や能力にあるのではなく、ただ彼らの救いの神だけにあることを、人々の心に印象づけるためであった。こうして、彼らは、天来の指導者に全く信頼するようになっていくのであった。 PP 255.3

神は、彼に信頼する者のために、大きなことをなさる。神を信じると言っている人々に、もっと力がないのは、彼らが自分たち自身の知恵に頼りすぎ、主が、彼らのためにみ力をあらわす機会を主に与えないからである。しかし、彼らが、全く主に信頼し、忠実に彼に従うならば、どのような事態が起こっても、主は、主を信じる子供たちをお助けになる。 PP 255.4

ヨシュアは、エリコを滅ぼしてから、しばらくしてヨルダンの谷を西に数マイル進んだ谷間の小さな町、アイを攻撃することにした。派遣された斥候の報告によれば、住民は少なく、町を滅ぼすのにはほんのわずかの軍勢でよいであろうということであった。 PP 255.5

神が、イスラエルのために大勝利をお与えになったために、彼らは自己過信に陥った。神が、彼らにカナンの国を約束なさったために、彼らは安心し、神の助けだけが、彼らに成功を与え得ることを自覚しなかった。ヨシュアでさえ、神の勧告を仰がないで、アイ征服の計画をたてた。 PP 255.6

イスラエルの人々は、自分自身の力を賛美し、彼らの敵を軽視しはじめた。勝利は、たやすく得られるように思われ、占領には、3000人で十分であろうと思われた。彼らは、神がいっしょにおられることを確かめもせずに攻撃した。彼らは、門のすぐそばまで突進したところ、そこで、頑強な抵抗を受けた。敵の数とその十分な準備にあわてふためいた彼らは、列を乱してがけをかけおりた。カナン人は、すぐその後を追ってきた。「彼らを門の前から……追って、下り坂で彼らを殺した」(ヨシュア7:5)。損害は少なく、死者は36人に過ぎなかったが、この敗北は会衆全体を失望させた。「民の心は消えて水のようになった」(同7:5)。彼らが、実際の戦場でカナン人に会ったのは、これが最初であった。そして、この小さな町 の防衛軍の前から彼らが逃げ去ったのであれば、彼らの前にあるもっと大きな戦闘の結果はどうなることであろうか。ヨシュアは、彼らの不成功を、神の怒りの表現とみなし、悲嘆と不安のうちに、「衣服を裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、ちりをかぶった」(同7:6)。 PP 255.7

「ああ、主なる神よ、あなたはなにゆえ、この民にヨルダンを渡らせ、われわれをアモリびとの手に渡して滅ぼさせられるのですか。……ああ、主よ。イスラエルがすでに敵に背をむけた今となって、わたしはまた何を言い得ましょう。カナンびと、およびこの地に住むすべてのものは、これを聞いて、われわれを攻めかこみ、われわれの名を地から断ち去ってしまうでしょう。それであなたは、あなたの大いなる名のために、何をしようとされるのですか」と彼は叫んだ(同7:7~9)。 PP 256.1

「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った」と、主はお答えになった(同7:10、11)。それは、失望したり、悲しんだりする時ではなくて、すぐに、決定的行動をとるべき時であった。宿営の中に、隠れた罪があった。そして、主が神の民と共におられて祝福して下さるためには、まず、それをさがし出して、除かなければならなかった。「あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう」(同7:12)。 PP 256.2

神の刑罰を実行するように命じられた者の1人が、神の命令を無視した。そして、その犯罪人の罪が全国民に問われた。「彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽っ」た(同7:11)。ヨシュアには、犯人を発見して、罰するようにという指示が与えられた。罪ある者を見破るために、くじが引かれることになった。罪人は、すぐに指摘されたのではなくて、しばらくの間、不明のままにされていた。それは、人々が、自分たちのなかにある罪の責任を感じるためであった。そして、深く心をさぐって、神の前にへりくだるためであった。 PP 256.3

ヨシュアは、朝早く、部族ごとに人々を集めた。そして、厳粛で印象的な儀式が始まった。調査は一歩一歩進められた。恐ろしい試験が、人々の身近に迫った。第一に部族、それから氏族、その次に家族、そして、その中の男と進行していき、ユダの部族のカルミの子アカンが、イスラエルを悩ます者として、神の指によって指摘されたのである。 PP 256.4

アカンがまちがいなく罪を犯し、不当の罰を受けたという非難が起こる余地を残さないために、ヨシュアは、アカンに、その事実を認めることを厳粛に命じた。アカンは、自分の犯罪を全部告白した。「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。……わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套1枚と銀200シケルと、目方50シケルの金の延べ棒1本のあるのを見て、ほしくなり、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります」(同7:20、21)。使者たちがすぐに天幕にっかわされた。そして、指示された場所を掘ってみた。「それは彼の天幕に隠してあって、銀もその下にあった。彼らはそれを天幕の中から取り出して、ヨシュアと……主の前に置いた」(同7:22、23)。 PP 256.5

宣告は下され、その執行もすぐに行われた。「なぜあなたはわれわれを悩ましたのか。主は、きょう、あなたを悩まされるであろう」とヨシュアは言った(同7:25)。人々は、アカンの罪の責任を問われ、その罪の結果悩んだ。であるから、人々はその代表者によって、アカンの刑の執行に参加するのであった。「すべてのイスラエルびとは石で彼を撃ち殺し」た(同7:25)。 PP 256.6

そうしてから、アカンの上に石塚を大きく積み上ば罪とその罰の記念とした。「その所の名は今日までアコルの谷と呼ばれている」。それは、「悩み」といり意味である(同7:26)。「アカルは……イスラエルを悩ました者である」と歴代志にしるされているのはアカンのことである(歴代志上2:7)。 PP 256.7

アカンは、最も明瞭で厳粛な警告と、最も偉大な神のみ力のあらわれに反抗して、罪を犯した。「あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。…… 滅ぼさるべきものと」ならないためであるとの警告が全イスラエルに発せられていた(ヨシュア6:18)。この命令は、彼らが奇跡的にヨルダン川を渡り、割礼を行って、神の契約を認め、過越の祭りを祝った後、また、契約の天使、主の軍勢の将が彼らにご自分を現された後に与えられた。その後、エリコが滅びて、すべて神の律法を犯す者の当然受けなければならない滅びの証拠となった。イスラエルの勝利が、ただ神の力だけによるものであって、人々が自力でエリコを占領したのでないという事実は、ぶんどり物を私有することを禁じた命令をさらに厳粛で重要なものにした。神は、神ご自身のみ言葉の力によって、この城塞をくつがえされた。征服は神ご自身のものであった。だから、町とその中のすべてのものは、神だけに帰すべきであった。 PP 256.8

そうした勝利と刑罰の厳粛なときに、幾百万のイスラエルの中のただ1人が、あえて神の命令にそむいた。アカンは、シナルの高価な衣服を見て、それがほしくなった。彼は死に直面したときでさえ、それを「シナルの美しい外套1枚」と呼んだ(同7:21)。1つの罪は次の罪へと導いた。そして彼は、主の倉に捧げられた金と銀とを自分のものにした。彼は、カナンの国の初穂を神から奪った。 PP 257.1

アカンを死に至らせた恐ろしい罪の根は貧欲であった。これは、すべての罪の中で最も一般的なもので、最も軽視されている。他の罪は、発見されて罰せられるのであるが、第10条の罪は、非難されることさえまれである。この罪がどんなに極悪で、その結果がどんなに恐ろしいものであるかという教訓をアカンの生涯が教えている。 PP 257.2

貪欲は、徐々にひろがる悪である。アカンがいだいた貧欲心は、ついに習慣となり、断ち切れない鎖のように彼を束縛した。彼は、この悪を心にいだいて、それが、イスラエルに災いをもたらすことを考えて、恐怖心をいだいたことであろう。しかし、彼の感覚は、罪のために鈍くなった。そして、誘惑にあったとき、彼はもろくも負けてしまった。 PP 257.3

同様に厳粛で明瞭な警告があるにもかかわらず、同じような罪がなお、行われていないであろうか。アカンがエリコのぶんどり物について禁じられていたのと同様に、われわれも貧欲心をいだくことを明らかに禁じられている。神は、それを偶像礼拝であると言われた(コロサイ3:5、エペソ5:5参照)。「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)。「あらゆる貧欲に対してよくよく警戒しなさい」(ルカ12:15)。「あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない」(エペソ5:3)という警告が与えられている。アカン、ユダアナニヤ、サッピラなどの恐ろしい運命に陥った人々の例が与えられている。これらの人々の背後に、「黎明の子」ルシファーがいる(イザヤ14:12)。彼は、さらに高い地位を求めたために天の栄光と祝福を永遠に失ってしまった。しかし、このような警告が発せられているにもかかわらず、貧欲は、いたるところで見られる。 PP 257.4

どこにでも貧欲のみにくい足跡が見える。それは、家族の中に不満と争いを起こし、貧者の心に、金持ちに対するねたみと憎しみを起こす。それは、また、金持ちが貧者を、搾取、圧迫する原因でもある。この罪悪は世の中だけにとどまらず、教会の中にも入っている。ここでも、利己心をいだき、強欲で、人を欺き、慈善を怠り、「10分の1と、ささげ物」において、神のものを奪うことが、なんと一般に行われていることであろう(マラキ3:8)。悲しいことであるが、「正規の」教会員の中に多くのアカンがいる。堂々とした風采の人が多く教会に来て、主の聖餐に連なる。しかし、彼らの持ち物の中には、不法の利益、神がのろわれたものが隠されている。シナルの美しい衣服のために、良心の声にそむき、天国の希望を犠牲にする者が数多くある。自分たちの誠実さと有用性を、銀貨の袋と交換してしまう者も多い。貧者の苦しい叫びを聞く者はいない。福音の光は、途中でさえぎられている。キリスト教の教えを裏切る行為を見て、世の人々は軽蔑の目を向ける。それにもかかわらず、貧欲な信者は宝をたくわえている。「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる」と主は言われる(マラキ3:8)。 PP 257.5

アカンの罪は、国民全体を不幸にした。1人の罪をさがし出してそれを取り除くまで、神の怒りは教会の上にとどまる。教会が最も恐れなければならない勢力は、公然と攻撃する反対者や、無神論者や、神を汚す者などではなくて、キリストを信じるといいながら、矛盾した生活を送る人々である。イスラエルの神の祝福をさえぎり、神の民を弱めるのは、このような人々なのである。 PP 258.1

教会が困難に陥り、人々が冷淡になって、霊的に衰えて、神の敵に勝利を与えるようなとき、教会の人々は、いたずらに手をこまねいて、不幸な状態を悲しむことなく、宿営のなかにアカンがいないかどうかをたずねよう。各自は、謙遜に自分の心をさぐり、神の臨在をさえぎる隠れた罪を発見するように努めよう。 PP 258.2

アカンは罪を告白したけれども、時はすでにおそく、彼にはなんの役にも立たなかった。彼は、イスラエルの軍勢がアイで敗北し、失望したのを見た。しかし、彼は進み出て罪を告白しなかった。彼は、ヨシュアとイスラエルの長老たちが、言葉で表現できない大きな悲しみのうちに、地にひれ伏したのを見た。もし彼がその時に告白していたならば、それは、真の悔い改めの証拠となったことであろう。しかし、彼はまだ黙したままであった。彼は、大きな犯罪が行われたこと、そして、その罪の性質さえもはっきり宣言されたのを聞いた。しかし、彼は、くちびるを閉じていた。それから厳粛な調査が始まった。彼の部族、氏族、そして家族が指摘されたとき、彼の心は恐怖にふるえたことであろう。それでも彼は告白しなかったので、ついに、神の指が彼を指さすにいたった。こうして、彼は、罪をこれ以上かくすことができなくなって事実を認めた。同様の告白が、なんと多くなされていることであろう。事実が証明されたあとで、それを認めることと、神とわれわれだけに知られた罪を告白するのとは、非常な相違がある。アカンは、告白することによって、犯罪の罰をのがれようとする気がなかったならば、告白はしなかったことであろう。しかし、彼の告白は、その刑罰の正当なことを示したに過ぎなかった。彼は、罪に対する真の悔い改めも、悔悟も、目的の変更も、悪に対する憎しみも感じていなかった。 PP 258.3

すべての人の運命が、生か死かに決定したあとで、罪人が神のさばきの座の前に立つとき、同じような告白をする。各自は、自分に与えられる罰によって、自分の罪を認める。罪の宣告を受けた恐ろしさと、恐怖すべき審判のことを考えて、魂は、そう言わないではおられない。しかし、そうした告白は、罪人を救うことができない。 PP 258.4

多くの者は、アカンのように、自分たちの罪を人間の目から隠すことができれば安全であると思い、神は、厳格に罪を指摘なさらないだろうと安易に考えている。しかし、犠牲やささげ物では永遠に清めることができないその日に罪が発見されたのでは、すでにおそいのである。天の記録が開かれるとき、審判の主は、人の罪を言葉で宣言されるのではなくて、心の奥底まで見抜き、人を納得させずにはおかないまなざしでごらんになる。そうすると、すべての行為や、人生のすべての取引が、悪者の記憶にまざまざと印象づけられる。ヨシュアの時代のように、部族から氏族と人をさがし出す必要はない。彼自身のくちびるが、その恥を告白する。そのとき、人に知られなかった隠れた罪が、全世界に広く知られるのである。 PP 258.5