人類のあけぼの
第44章 ヨルダン川を渡って
本章は、ヨシュア記1~4章、5:1~12に基づく PP 249.6
イスラエル人は、モーセの死を深く悲しみ、30日の間彼を記念して特別の式を行った。彼らは、彼が取り去られるまでは、彼の賢明な勧告、父親のような柔和、不動の信仰などを十分に理解することはできなかった。彼らは、改めて深い感謝をあらわして、彼の生前の尊い教訓を思い起こした。 PP 249.7
モーセは死んだ。しかし、彼の感化力も共に死んだのではなかった。それは、生き続けて民の心に再現されるのであった。あの聖なる無我の生活は、長く人の心におぼえられ、生前彼の言葉をないがしろにした人々の生活までも形造る無言の説得力を持っていた。太陽が沈んだ後も長く落日の輝きが山頂を照らすように、純粋な人、聖潔な人、善良な人の行為はその人が去った後も長く世に光を投げ続ける。彼らの行為、彼らの言葉、彼らの模範は永久に生きる。「正しい人は……とこしえに覚えられる」(詩篇112:6)。 PP 250.1
彼らは、大きな損失をこうむったことを悲しんだが、そのまま放任されてはいないことを知っていた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が幕屋の上に宿り、彼らが神の戒めに従って歩くなら、神は依然として彼らの導き手であり助け手であることを確証していた。 PP 250.2
今や、ヨシュアがイスラエルの指導者として認められた。彼は、これまで、主として軍人として知られてきており、その才能と人がらは、民の歴史のこの段階において、特に価値の高いものであった。彼は、勇気と決断力にすぐれ、忍耐強く、敏活、清廉で、自分にゆだねられた者たちを自分を忘れて世話し、とりわけ神に対する生きた信仰に動かされていた。これが、約束の地にはいるに際して、イスラエルの軍勢を指揮するように神から選ばれた人の特質であった。荒野を旅した間、彼はモーセに仕える首相として行動し、その静かで二心のない誠実と、他の人々が動揺したときにも堅く立ち、危険のさなかにあって真理を維持しようとした信念の強さによって、神のみ声によってその地位に召される以前でさえ、すでにモーセの後継者としてふさわしいことが明らかであった。 PP 250.3
ヨシュアは、彼の前にある仕事のことを考えた時に、大きな不安と自己に対する不信感をいだいたのであるが、神からの保証が与えられて、恐怖が取り除かれた。「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。……あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない」「あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう」(ヨシュア1:5、6、3)。はるか遠くのレバノンの高地まで、また、地中海の岸辺まで、そして、東はユフラテ川の岸辺まで、そのすべてが彼らのものとなるのであった。 PP 250.4
この約束に命令が加えられた。「ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもベモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って……行わなければならない」、主はまた言われた。「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い」「これを離れて右にも左にも曲ってはならない」「そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」(同1:7、8)。 PP 250.5
イスラエル人は、まだ、ヨルダン川の東がわに宿営していたが、このヨルダン川がカナン占領の最初の障害であった。神はまず、ヨシュアに、「あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしが……与える地に行きなさい」と命じられた(同1:2)。どのようにして渡るのかは、何も指示が与えられなかったが、ヨシュアは、神が何をお命じになろうとも、神の民がそれを果たすことができる道を開いてくださることを知っていた。この勇敢な指導者は、信仰をもって、直ちに前進の手配を始めた。 PP 250.6
川の数マイル向こう側で、イスラエル人が宿営している場所のちょうど反対のところに、強大な要塞都市エリコがあった。この都市は、事実上全土を攻め取るかぎであり、イスラエルの勝利の前に立ちはだかる、侮りがたい障害であった。そこで、ヨシュアは、2人の若者をつかわして町を偵察させ、その住民の数や、資源、また要塞の強固さなどを確かめさせた。恐怖と疑惑をいだいた町の住民は、常に警戒体制をとっていたので、2人の使者は大きな危険にさらされた。しかし、エリコの女ラハブが、自分の命の危険もかえりみず、彼らをかくまってくれた。彼女の心づくしに報いて、2人は町を攻め取るときに彼女を保護することを約束した。 PP 250.7
2人は偵察から無事に帰り、「ほんとうに主はこ の国をことごとくわれわれの手にお与えになりました。この国の住民はみなわれわれの前に震えおののいています」と報告した(同2:24)。エリコで2人は、こう言われてきた。「あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりのモシホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです」(同2:10、11)。 PP 250.8
今や前進の準備をととのえるようにという命令がくだされた。民は3日分の糧食を用意し、軍勢は戦闘の用意をしなければならなかった。すべての者がヨシュアの計画を心から受け入れ、信頼と支援を誓った。「あなたがわれわれに命じられたことをみな行います。あなたがつかわされる所へは、どこへでも行きます。われわれはすべてのことをモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、どうぞ、あなたの神、主がモーセと共におられたように、あなたと共におられますように」(同1:16、17)。 PP 251.1
シッテムのアカシヤの森の宿営をあとに、全軍は、ヨルダン川の岸にくだった。しかし、神の助けがなければとうてい渡る望みのないことが、だれにもわかっていた。その季節、すなわち春には山々の雪が溶けてヨルダンの水位を上げ、水は堤にまであふれて、いつもの浅瀬を歩いて渡ることは不可能であった。神は、イスラエルのヨルダン川を渡ることが奇跡的に行われることを意図なさった。ヨシュアは神の指令に従って、人々に自分たちを清めるように命じた。彼らは罪を捨て、すべての外面の汚れを払わなければならなかった。「あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」と彼は言った(同3:5)。「契約の箱」が全軍の前を行かなければならなかった。祭司たちのかついだこの主の臨在のしるしが、宿営の中央のその場所を離れて川のほうに進むのを見たなら、彼らも「その所を出立して、そのあとに従わなければならな」かった(同3:3)。川を渡る方法を前もって細かに述べたあとで、ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと……を、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。ごらんなさい。全地の一主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている」(同3:10、11)。 PP 251.2
定められたときに前進が始まり、祭司の肩にかつがれた箱が先陣の前を行った。民は退いて、箱との間に半マイル以上の距離を置くように命じられていた。祭司たちがヨルダンの岸をくだって行くのを、皆は非常な興味をもって見つめた。彼らは、祭司たちが聖なる箱をかついで1歩1歩、波立ちうねる流れのほうに進み、やがて、足が水につかるほどになるのを見た。そのとき突然、上の流れがうず高く立ち、下の水が流れ去り、川底が現れた。 PP 251.3
神の命令を受けて、祭司たちが川の中央にまで進んで立ちどまると、全軍が川に下って行って向こう岸に渡った。こうしてすべてのイスラエル人の心に、このヨルダン川の流れをとめたのは、40年前、先祖たちのために紅海を開いたのと同じ力であることが強く刻みつけられた。民がみな渡ってしまうと、箱自身も西岸にかつぎ上げられた。それが安全な場所に達し、「祭司たちの足の裏がかわいた地にあがると同時に」、とどめられていた水は、元どおりに動き出し、川をどっとばかりに流れ下った(同4:18)。 PP 251.4
後々の世代のために、この大いなる奇跡の証拠が残されることになった。箱をかついだ祭司たちが、なおヨルダン川のまん中にいる間に、前もって各部族から1名ずつ選ばれていた12人が、祭司の立っている川底の石を1つずつ取って西の岸に運んだ。これらの石は、川向こうの最初の宿営地に記念碑として立てられるのであった。「地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるため」とヨシュアが言ったように、人々は、神が行われた解放の物語を、子や孫に語り伝えるよ うに命じられた(同4:24)。 PP 251.5
この奇跡のもつ影響力は、ヘブル人に対してもその敵に対しても重大なものであった。それは神が絶えず臨在して守ってくださることをイスラエルに保証し、神がモーセを通して働かれたように、ヨシュアを通して彼らのために働いてくださることを明らかにした。こうした保証は、その地の征服、すなわち、40年前に父祖たちの信仰を動揺させた驚くべき任務に着手した彼らの心を強めるのに必要であった。川を渡る前に、主はヨシュアに、「きょうからわたしはすべてのイスラエルの前にあなたを尊い者とするであろう。こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう」と言っておられたが、この奇跡が約束の成就となった。「この日、主はイスラエルのすべての人の前にヨシュアを尊い者とされたので、彼らはみなモーセを敬ったように、ヨシュアを一生のあいだ敬った」(同3:7、4:14)。 PP 252.1
こうして、イスラエルのために現された神の力は、彼らに対する隣接諸民族の恐怖心を増大し、彼らをたやすく、しかも、完全に征服するためのものでもあった。神が、イスラエルの子らの前で、ヨルダンの水をとめたという知らせが、アモリ人の王やカナン人の王の耳に達したとき、彼らはふるえおののいた。ヘブル人はすでにミデアンの5人の王と、アモリ人の力ある王シホンと、バシャンのオグを殺していた上、今度は増水したヨルダンの急流を渡ってきたことが、すべての隣接諸民族を恐怖に陥れた。カナン人にとっても、全イスラエルにとっても、またヨシュア自身にとっても、天と地の玉であられる生ける神が、その民のうちにおられて、見放すことも、見捨てることもしないことが、まちがいなく明らかであった。 PP 252.2
ヘブル人は、ヨルダン川からさほど遠くないところに、カナンにおける最初の宿営を張った。ここでヨシュアは、「イスラエルの人々に割礼を行った」「イスラエルの人々はギルガルに宿営し……過越の祭を行った」(同5:3、10)。カデシにおける反逆のとき以来、割礼の儀式が中止されていたことは、割礼が象徴している神と彼らとの契約が破られたことを絶えずイスラエルに証言してきた。そして、エジプトからの解放の記念である過越の祭りが中断していたのは、彼らが奴隷であった国へ帰りたいという願いを主がきらわれたことを現すものであった。しかし、今、拒絶の年月は終わりを告げた。もうひとたび、神はイスラエルをご自分の民として認め、契約のしるしが回復された。割礼の儀式は、荒野で生まれた民のすべてに行われた。「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」と主はヨシュアに言われた(同5:9)。そして、このために、彼らの宿営の場所は、ギルガル、すなわち「ころがし去」ると呼ばれた。 PP 252.3
異邦の諸国は、エジプトを出たヘブル人が、彼らが期待していたほど早くカナンを占領しなかったために、主と主の民を軽べつしていた。イスラエルが長い間、荒野をさすらったために、敵が勝利を得てしまった。そして彼らは、ヘブル人の神は、民を約束の地に導き入れることができないのだと言って嘲笑していた。しかし今、主は、力と恵みを著しくあらわして、民の前にヨルダン川を開かれたので、敵はもはや彼らをさげすむことができなくなった。 PP 252.4
「その月の14日の夕暮」、エリコの平野で、過越の祭りが行われた。「そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた」(同5:10~12)。長い年月におよぶ荒野のさすらいは終わった。ついにイスラエルの足は、約束の地を踏んだのであった。 PP 252.5