人類のあけぼの

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第5章 人類救済の計画

人間の堕落は、全天を悲しみで満たした。神に造られた世界は、罪ののろいでそこなわれ、不幸と死に運命づけられたものの住むところとなった。律法を犯した者には、のがれの道がないように思われた。天使は、賛美の歌をやめた。天の宮廷には、罪がひき起こした破滅を嘆く声が満ちた。 PP 33.3

天の栄光に満ちた司令官であられる神のみ子は、堕落した人類を憐れまれた。彼の心は、失われた世界のわざわいをごらんになって、限りない憐れみの情を感じられた。しかし、神の愛は、すでに、人間を贖う計画をたてていた。破られた神の律法は、罪人の生命を要求した。人間に代わって、その要求に応じられるのは、全宇宙にただ1人しかいなかった。神の律法は、神ご自身と同様に神聖であるから、罪の贖いをすることができるのは、神と等しい方だけであった。罪を犯した人間を律法ののろいから贖い、再び、天と調和させることができるものは、キリストのほかになかった。キリストは、罪のとがと恥とをその身に負われるのであった。罪は天父とみ子とを離れさせるほど、聖い神にとっていまわしいものであった。キリストは、堕落した人類を救うために悲惨のどん底におりてこられるのであった。 PP 33.4

キリストは、罪人のために父の前に嘆願された。その間、天の万軍は、言葉で表現することのできない深い関心をもって、その結果を待ちうけた。神秘的な交わりは長く続いた。それは、堕落した人間の子らのための「平和の一致」であった(ゼカリヤ6:13)。救いの計画は、地球が創造される前にたてられていた。キリストは「世のはじめからほふられた小羊」(黙示録13:8/詳訳聖書)であった。しかし、宇宙の王であられる神にとっても、み子を、罪を犯した人類のために死にわたすことは苦闘であった。ところが「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。ああ、贖罪はなんと神秘なものであろうか。神を愛さなかった世界を、神はどんなに愛されたことであろう。「人知をはるかに越えた」その愛の深さをだれが知ることができるだろうか。永遠の命を与えられた人々は、このはかり知れない愛の奥義を、永遠にわたってさぐり求めて、驚き賛美するのである。 PP 33.5

神は、キリストによってご自分をあらわし、「世をご自分に和解させ」ようとなさった(Ⅱコリント5:19)。人間は罪を犯して堕落したために、自分の力では、清く恵み深いご性質の神と調和することができなくなった。しかし、キリストは、律法の罪の宣告から人間を贖ったあとで、上からの力を人間に与えて、人間の努力とそれを結合させることがおできになるのであっ た。こうして神に対する悔い改めとキリストを信じる信仰によって、アダムの堕落した子らは、もう一度「神の子」(Ⅰヨハネ3:2)となることができるのであった。 PP 33.6

人類の救いが達成される唯一の計画は、その無限の犠牲に全天を包んだものであった。キリストが贖罪の計画を示されたとき、天使たちは喜ぶことができなかった。というのは、人間の救いのために、彼らの愛する司令官が言葉に表せない苦悩をなめなければならないことを知ったからである。キリストが、天の純潔と平和、歓喜と栄光、そして、永遠の命を去って地に下り、堕落した人々と接し、悲しみと恥と死を経験しなければならないことを語られたとき、天使たちは、悲しみと驚きをもって彼の言葉に耳を傾けた。キリストは、罪人の仲保者として、罪の罰をお受けになるのであった。それにもかかわらず、彼を神の子として受け入れるものはわずかであった。彼は、天の王としての高い地位を捨て、人間として地上にあらわれて、自分を低くし、人間が耐えなければならない悲しみと誘惑を、経験によってお知りになるのであった。これは、みな、彼が試みられている者を助けるために必要であった(ヘブル2:18参照)。キリストは、教師としての任務を終えたあとで、悪者どもの手に渡されて、彼らがサタンにそそのかされて行うあらゆる侮辱と苦痛を受けなければならなかった。彼はとがある罪人として天と地の間にあげられ、最も残酷な死をとげなければならなかった。彼は、天使たちが、見るにたえかねて、顔をかくすほどの恐ろしい苦痛を長時間味わわなければならなかった。彼は律法を犯した罪、すなわち全世界の罪の重荷を背負うとともに、魂の苦悩と父のみ顔が隠されることにも耐えなければならなかった。 PP 34.1

天使たちは、彼らの司令官の足下にひれ伏して、自分たちが人間のために犠牲になりたいと申し出た。しかし天使の命では、負債を支払うことはできなかった。ただ人間を創造された方だけが、人間を贖う力をもっておられた。しかし、天使たちにも、贖罪の計画のなかで果たすべき役割があった。キリストは、「御使たちよりも低い者とされ……死の苦しみ」にあわれるのであった(ヘブル2:9)。彼が人性をおとりになれば、彼の力は天使の力とは同じでなくなる。それで、彼らはキリストに仕え、苦しみにあわれる彼を力づけ慰めるのであった。彼らは、また、救いを受け継ぐべき人々に奉仕するためにつかわされる仕える霊となるのである(ヘブル1:14参照)。彼らは、恵みにあずかる者たちを、悪天使の力とサタンが常に投げかける暗黒から守るものとなるのである。 PP 34.2

天使たちは、主の苦悩と屈辱を見るとき、悲しみと憤りに満たされて、殺人者たちから、主を救い出したいと願うのであったが、彼らの目撃することに介入して妨げてはならなかった。キリストが悪人の侮辱と虐待を受けられることは、贖罪の計画の一部であった。彼は、人間の贖い主となられたとき、こうしたすべてのことに同意されたのである。 PP 34.3

キリストは、ご自分の死によって、多くの者を贖い、死の力を持つ者を滅ぼすことを、天使たちに保証なさった。彼は、人間が罪のために失った王国を回復し、そして、贖われた人々は、彼とともにその王国を継ぎ、永遠にそのなかに住む。罪と罪人は消し去られて、二度と天と地の平和を乱すことはない。キリストは、父が承認なさった計画に天使軍が同意することを命じ、彼の死によって、堕落した人間が神と和解することができることを喜ぶようにお命じになった。 PP 34.4

そのとき、喜び——口では表現することのできない喜びが天に満ちた。贖われた世界の栄光と幸福は、いのちの君の苦痛と犠牲をはるかに越えたものであった。「いと高きところでは、神に栄光かあるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2:14)と、ベツレヘムの丘で鳴り響いたあの歌の最初の調べが、天の宮廷に反響した。新しい創造に歓喜したよりも、さらに深い喜びをもって、「明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった」(ヨブ38:7)。 PP 34.5

贖罪に関する最初の予告が人間に与えられたのは、園でサタンに宣告が下されたときであった。主は言われる。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおま えのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3:15)。アダムとエバが聞いているところで語られたこの宣告は、彼らにとっては、約束であった。そこには、人間とサタンとの戦いが予告されていたが、この大敵の力がついに砕かれることが宣告されていた。アダムとエバは、正しい審判者の前に罪人として立ち、犯した罪の宣告を待っていた。しかし、彼らは、自分たちの分である労苦と悲しみの一生、また、ちりに帰らなければならないという宣告を聞く前に、希望を与えずにはおかない言葉を聞いた。彼らは、大いなる敵の力に苦しまなければならなかったが、最後の勝利を待望することができたのである。 PP 34.6

サタンが、彼と女との間と、彼のすえと女のすえとの間に恨みがおかれることを聞いたとき、彼の人間の性質を堕落させる働きが妨げられ、人間は、何かの方法によって彼の力に抵抗することができるようになることを知った。しかし、救いの計画がさらに十分に示されたとき、サタンは、人間を堕落させたために、神のみ子をその高い地位からひきおろすことができることを彼の天使たちと共に喜んだ。彼はこれまでの彼の地上での計画は成功であったと言った。そして、キリストが、人性をおとりになる場合には、彼をも打ち負かして、堕落した人類の贖いを妨げることができると宣言した。 PP 35.1

天使たちは、われわれの祖先に、人間の救いのために考え出された計画をさらにくわしく教えた。アダムとエバは、大きな罪を犯したにもかかわらず、サタンのなすがままに放任されてはいないという保証が与えられた。神のみ子が、彼らの罪を贖うために、ご自身のいのちを提供されたのである。彼らに恵みの期間が与えられ、悔い改めとキリストを信じる信仰とによって、彼らはふたたび神の子となることができるのであった。 PP 35.2

アダムとエバの罪が要求した犠牲は、神の律法の神聖な性質を、彼らに明らかに示した。そして、彼らは、これまで感じたこともないほどに、罪のとがと罪の悲惨な結果とを知った。彼らは、後悔と苦悶のうちに、その刑罰が彼の上に負わせられないように嘆願した。彼の愛こそ彼らのすべての喜びの源であった。むしろ、その罰か彼らと彼らの子孫の上にくだることを願った。 PP 35.3

彼らは、主の律法が地上と同じく天上においても神の政府の基礎であるから、律法を犯したことに対しては、天使のいのちでさえ、犠牲として受け入れることはできないことを聞かされた。人間の堕落した状態に適合させるために、その戒めの1つでも、除いたり変更したりすることはできなかった。しかし、人間を創造なさった神のみ子は、人間を贖うことがおできになるのであった。アダムの罪が不幸と死をもたらしたように、キリストの犠牲は、命と不死をもたらすのであった。 PP 35.4

罪のために、人間だけでなく、地も悪者の支配下に陥った。そして、地も贖罪の計画によって、同復されなければならなかった。アダムは、創造されたときに、地の統治者としておかれた。ところが、誘惑に負けたためにサタンの支配下におかれた。「おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである」(Ⅱペテロ2:19)。人間がサタンの捕虜になったとき、彼の統治権は、征服者の手に移った。こうして、サタンは「この世の神」(Ⅱコリント4:4)となった。彼は、初めアダムに与えられた地の統治権を彼から奪った。しかし、キリストはご自分の犠牲によって、罪の罰を払い、人間を贖うばかりでなくて、人間が失った統治権をも回復してくださるのであった。第一のアダムによって失われたものはぜんぶ、第二のアダムによって回復されるのである。預言者はこう言っている。「羊の群れのやぐら、シオンの娘の山よ、以前の主権はあなたに帰ってくる」(ミカ4:8)。使徒パウロも、「やがて神につける者が全くあがなわれ」る時を示している(エペソ1:14)。神は、きよい幸福な人々の住居として、地を創造された。主は、「地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた」(イザヤ45:18)。地が神の力によって新しくされ、罪と悲しみから解放されて、贖われた者の永遠の住居となるときに、この目的は達成されるのである。「正しい者は国を継ぎ、とこしえ にその中に住むことができる」(詩篇37:29)。「のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝」する(黙示録22:3)。 PP 35.5

罪を犯す前のアダムは、創造主との隔てのない交わりを楽しんでいた。しかし、罪が神と人間との間を隔ててしまった。そして、キリストの贖いだけが、この深淵に橋をかけ、天から地に祝福と救いがもたらされることを可能にした。人間は、創造主に直接近づくことはできなかったが、神は、キリストと天使たちによって人間と交わられるのであった。 PP 36.1

こうして、エデンで神の宣告が与えられたときから、洪水のときまでと、そして、神のみ子の初臨までの歴史上の重大な出来事がアダムに示された。キリストの犠牲は全世界を救う価値が十分あるにもかかわらず、多くの者は罪の生活を選んで、悔い改めず、従わないことを彼は示された。犯罪は、時代が進むにつれて増加し、罪ののろいは、人類と獣類の上に、ますます重くのしかかる。人間の寿命は、人間自身の罪の生活のために短縮する。人間の背丈は低くなり、その耐久力は減少し、道徳的、知的能力は衰えて、ついに世界はあらゆる不幸で満たされる。人間は、食欲と情欲をほしいままにすることによって、贖罪の計画の大真理を理解することができなくなる。しかし、キリストは、天を去られた目的に忠実に従って、人間をみこころにとめ、彼らの弱点と欠点を彼のうちに隠すように、いまなお招いておられる。彼は信仰をもって、彼に来るすべての者の必要を満たされる。こうして、悪がはびこるなかにあって、神の知識を保ち、悪に汚されない者が、わずかながら常に存在するのであった。 PP 36.2

犠牲の供え物は、神が人間のためにお定めになったもので、罪の悔い改めと約束の贖い主への信仰の告白を、いつまでも思い起こさせるものであった。それは、死をもたらすものは罪であるという厳粛な事実を、堕落した人類に印象づけるためであった。アダムにとって、最初の犠牲を捧げることは、非常に心の痛む儀式であった。彼は、神だけが与えることのできる生命を奪うために、手を振り上げなければならなかった。彼が死を見たのはこれが最初であった。もし彼か神に服従していたならば、人間も獣も死ぬことはなかったことを悟った。彼が罪のない犠牲を殺したとき、自分の罪のために、傷のない神の小羊の血を流さなければならないことを考えて、ふるえおののいた。神の愛するみ子の死によらなければ、償うことのできない自分の罪の大きさを、この光景は、さらに深くなまなましく彼に示した。罪を犯した者を救うために、そのような犠牲をお与えになる無限の恵みに彼は驚いた。暗く恐ろしい未来に希望の星が輝いて、それが、全く絶望的になるのを防いだ。 PP 36.3

しかし、贖罪の計画は、人類の救済より、もっと広く深い目的をもっていた。キリストが地上に来られたのは、人間を救うためだけではなかった。この小さな世界の住民が、神の律法に対して当然払わなければならない尊敬を払うようになるためだけではなかった。それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった。救い主は、十字架におつきになる直前に、その大犠牲が、人間だけでなくて、他の諸世界に住む者たちに与える影響を予見して、こう言われた。「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:31、32)。人間の救いのためにキリストが死なれた行為は、人間が天にはいる道を開いたばかりでなく、神とみ子が、サタンの反逆に対して取られた処置の正当性を全宇宙の前に示すのであった。それは、神の律法の永遠性を確立し、罪の性質とその結果を明らかにするのであった。 PP 36.4

大争闘は、最初から神の律法に関して戦われたのである。サタンは、神は不正で、神の律法は不完全であるから、宇宙の幸福のためにそれを変更することが必要であることを証明しようとしてきた。彼は、律法を攻撃してその創始者の権威をくつがえそうとしていた。この争闘において、神の律法が不完全なもので、変更が必要であるか、それとも、完全で不変の ものであるかが示されるのであった。 PP 36.5

サタンは、天を追放されたときに、地球を彼の王国にしようと決意した。彼は、アダムとエバを誘惑して勝利したときに、この世界を手中に収めたと思った。「なぜなら、彼らは、わたしを支配者に選んだからだ」と彼は言った。彼は、罪人に赦しが与えられることは不可能であるから、堕落した人類は、当然自分の支配下におかれ、この世界は自分のものだと公言した。しかし、神は、最愛のみ子、すなわち、ご自分と1つである方を与えて、罪の刑罰を負わせられたのである。こうして、彼らが回復されて、神の恵みに浴し、エデンの家庭に帰ることができる道が備えられた。キリストは、人間を贖い、この世界をサタンの手から救い出そうとされた。天で起こった大争闘は、サタンが自分のものと主張したこの世界そのものを戦場として、勝敗を決することになった。 PP 37.1

キリストが堕落した人類を救うために、ご自分を低くされたことは、全宇宙の驚嘆の的であった。星々や諸世界をめぐってすべてを指揮された方、その摂理によって、広大な造られたもののなかのあらゆる種類のものの必要を満たされた方が、彼の栄光を捨てて、人間の性質をおとりになることは、他世界の罪のない住民が知ることを望んだ神秘であった。キリストが人間の形をとってわれわれの世界に来られたとき、すべてのものは、非常な熱心さをもって、彼が1歩1歩と、かいばおけの中からカルバリーへと、血に染まった道をたどっていかれるのをながめた。天は、キリストが受けられた侮辱とあざけりに注目した。そして、それが、サタンの扇動によるものであることを知った。彼らは、反対勢力の活動が盛んになるのを見た。サタンが、暗黒と悲しみと苦しみを、常に人類に投げかけようとするのを、キリストはとめようとされる。彼らは、光とやみの戦いが、ますます激しくなるのを見た。そして、キリストが十字架上で、苦悶のうちに、「すべてが終った」と叫んで息をひきとられたとき、勝利の叫びは、すべての世界と天そのものになり響いた(ヨハネ19:30)。この世界で長い間継続された大きな戦いは、ここに勝敗が決し、キリストが勝利者であられた。彼の死は、父とみ子とが人間に対して十分な愛をもち、自己否定と犠牲の精神をあらわされるかどうかという疑問に答えた。サタンは、偽り者、殺人者の本性を暴露した。もし彼に天の住民を支配させるならば、彼の権力下にあった人々を支配したのと同じ精神で、天の住民たちをも支配するにちがいないことが明らかになった。神に忠実な宇宙は、声をそろえて神の統治をたたえた。 PP 37.2

もし律法を変えることができたならば、キリストの犠牲はなくても、人間は救われたことであろう。しかし、堕落した人類のために、キリストがいのちをささげる必要があったという事実は、罪人が神の律法の要求から免除されることはないということを証明している。それは、罪の報酬が死であることを実証した。キリストが死なれたときに、サタンの滅びることが決定した。しかし、多くの者が主張するように、もし律法が十字架によって廃されたのであれば、神の愛するみ子の苦悩と死とは、サタンが要求するものを彼に与えるためだけのものとなってしまう。そうであれば、悪の君は勝利をおさめて、神の政府に対する彼の攻撃は是認されたことであろう。キリストが人間の罪の刑罰を負われた事実そのものが、すべての造られた者に対して、律法が不変であること、神は正しく、憐れみ深く、自己を否定する方であること、そして、神の政府の統治には、無限の公平と憐れみが結合していることを大いに証明してあまりあるのである。 PP 37.3