人類のあけぼの
第4章 エデンの園の悲劇
本章は、創世記3章に基づく PP 26.4
サタンは、もはや天において反逆を扇動することができなくなったので、神への敵意を、人類の滅亡をはかるという新しい方面にむけてきた。エデンの清い家庭の幸福と平和は、彼が永遠に失ってしまった天上の喜びを思い起こさせるのであった。サタンは、彼らをねたみ、彼らを不服従に誘って、罪のとがと罰とをこうむらせようとした。彼は、彼らの愛を不信に、賛美の歌を創造主に対する非難に変えようとした。こうして、自分が陥ったのと同じ不幸に、これらの罪のない者らを投げこむだけでなくて、神に汚名 を着せ、天を悲しませようとした。 PP 26.5
われわれの祖先は、彼らを脅かす危険について、何の警告も与えられずにいたのではなかった。天からの使者は、サタンの堕落や、彼が人類を滅ぼそうと計画していることを彼らに示し、悪の王がくつがえそうと試みている神の政府の性質をさらに十分に説明した。サタンとその軍勢が堕落したのは、神の正しい律法に、彼らが従わなかったからである。秩序と公平は、律法だけによって保たれるのであるから、アダムとエバが律法を尊ぶことは、どんなにたいせつであったことだろう。 PP 27.1
神の律法は、神ご自身と同様に、神聖なものである。それは、神の意志の啓示であり、神の品性の写し、神の愛と知恵の表現である。造られたものの調和は、生物であれ、無生物であれ、すべてのものが創造主の律法に完全に一致することにかかっている。神は、生物のためだけでなく、自然のすべての営みを支配するために、法則をお定めになった。万物は、破ることのできない一定の法則の下にある。しかし、自然のすべてのものが、自然の法則に支配されているにもかかわらず、地上にすむ万物のなかで、人間だけは道徳律に従わなければならない。創造の最高のわざである人間に、神は、神の要求を認めて、その律法の義と慈愛と、そして、人間に対する律法の神聖な要求を理解する能力をお与えになった。人間には、ゆるがない服従が要求されているのである。 PP 27.2
天使と同様に、エデンの住人には、試験期間が与えられていた。彼らの幸福な地位は、創造主の律法に忠実に従うという条件だけによって保つことができた。彼らは、服従して生きるか、それとも服従しないで滅びるかのどちらかであった。神は、彼らを豊かな祝福を享受する者とされた。しかし、もし彼らが神の意志に逆らうならば、罪を犯した天使たちを赦されなかった方は、彼らをも赦すことはおできにならなかった。罪は神の賜物を取り去り、彼らに悲惨と破滅をもたらすのであった。 PP 27.3
天使たちは、サタンの策略に注意するように、彼らに警告した。それは、サタンが彼らをわなに陥れようとしてたゆまず努力するからであった。彼らが神に服従しているかぎり、サタンは、彼らを傷つけることはできなかった。なぜなら、もし必要とあれば、天のすべての天使が、彼らを助けるためにつかわされるからであった。もし彼らがサタンの最初の誘惑を断固として退けたならば、彼らは、天使たちと同様に安全であったことであろう。しかし、1度誘惑に負けるならば、彼らの性質は堕落してしまい、とうてい自分だけではサタンに抵抗する力も抵抗する気持ちも持てなくなってしまうのであった。 PP 27.4
知識の木は、彼らの神に対する服従と愛を試みるためにおかれた。主は、園の中にあるすべてのものを彼らが用いるにあたって、1つの禁令を設けるのがよいとお考えになった。しかし、彼らがこの点で神のみ旨を無視するならば、彼らは、罪を犯すことになるのであった。サタンは、彼らのあとを追って絶えず誘惑することは許されなかった。サタンは、ただ禁じられた木のところだけで、彼らに近づくことができた。もし、彼らがその木がどんなものであるかを知ろうとすれば、サタンの策略にさらされることになるのであった。彼らは、神から与えられた警告に注意深く耳を傾け、神がみこころのうちにお与えになった教えに満足するように忠告された。 PP 27.5
サタンは、人に気づかれないように働きを進めるために、媒介としてへびを用いることにした。これは、欺瞞の日的には、ちょうどよい変装であった、そのころ、へびは、地上の動物のうちで、最も賢く、最も美しいものの1つであった。へびには羽があって、空を飛ぶときは、みがき上げた黄金の色と輝きを放っていた。へびが禁断の木の実り豊かな枝にとまって、おいしそうな果実を食べているありさまは、人の注目をひき、目を楽しませるのであった。こうして、平和な楽園に獲物を待ち受ける破壊者がひそんでいた。 PP 27.6
園の中で毎日の仕事をするときに、夫のところから離れないようにと、天使はエバに注意した。彼女が夫といっしょにいるときは、1人でいるときより誘惑に陥る危険が少なかった。しかし、エバは、楽しい仕事に夢中になって、知らず知らずのうちに、夫のそば から離れていった。彼女は、自分が1人なのに気づいたときに、身の危険を感じたが、自分には悪を見わけてそれを退ける知恵と力が十分にあると考えて恐怖をしずめた。彼女は、天使の注意に気をとめないで、まもなく、好奇心と賛嘆のまじった思いで禁じられた木をながめていた。その実は、非常に美しかった。彼女は、なぜ神がこれを禁じられたのかと疑問を抱いた。それが、誘惑者の待っていた機会であった。彼は、彼女の心の動きを読みとることができるかのように、彼女に言った。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」(創世記3:1)。エバは、自分の心の思いが声となったのを聞いたような気がしてはっと驚いた。しかし、へびは音楽のような声で、彼女のすばらしい美しさを巧みにほめ続けた。その声は不快ではなかった。彼女は、その場所から逃げ去ろうとしないで、へびが語るのを聞いて、不思議に思いながら、ためらっていた。もし、エバが天使に語りかけられたのであれば、彼女は、恐怖心を抱いたことであろう。しかし、エバは、目を奪うばかりのへびが、堕落した敵に用いられるとは夢想だにしなかった。 PP 27.7
彼女は、サタンの誘惑の言葉に答えた。「『わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました』。へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』」(同3:2、3)。 PP 28.1
彼らが、この木の実を食べるならば、もっと高い存在者となり、さらに広い知識をもつことができると、彼は言った。へび自身も、禁じられた実を食べたために、話す能力を得たのだと言った。そして、主は、彼らの地位が高められて、主ご自身と等しくならないように、何とかして、この実を彼らに与えまいとしておられるのだとほのめかした。神が、それを味わうこと、また、それに触れることさえ禁じられたのは、それに知恵と力を授ける驚くべき性質があるからである。神の警告は、実際にその通りに成就するものではなくて、ただの威嚇にすぎないのだ。また、彼らは、どうして死ぬことができようか。彼らは、いのちの木の実を食べたのではなかったか。神は、彼らが気高く成長し、より大きな幸福を見いだすことを妨害しておられると彼は言った。 PP 28.2
こうした方法で、アダムの時代から現在にいたるまでサタンは働き続け、大成功を収めている。彼は、人を誘惑して、神の愛に頼らず、神の知恵を疑わせるのである。彼は、不信心な好奇心を刺激し、神の知恵や力の秘密を探ろうとする際限のないせんさく心をかきたてようと常に努力している。多くの者は、神がみこころのうちに隠されたものを捜し出そうと努めて、神が、啓示された真理で、救いに欠くことのできないものを見落としている。サタンは、人間を、驚くべき知識の分野に入るかのように信じさせて、不服従に誘惑する。しかし、これは、全く偽りである。進歩的思想に得意になりながら、彼らは、神の要求をふみにじり、堕落と死の道に踏み込んでいるのである。 PP 28.3
サタンは、きよい夫婦に向かって、神の律法を犯すことによって、彼らは、勝利者になれると主張した。今日われわれは、それと同様の議論を聞かないであろうか。自分たちは、広い思想をもち、より大きな自由を享受していると主張する一方、神の律法に従う者は、考え方が狭いと言う者が多くいる。これは、「それを食べると」、すなわち、神の要求に逆らうと、「あなたがたは……神のように」なるでしょうというエデンで聞こえた声の反響にすぎないのである。サタンは、禁じられた実を食べたために大きな利益を得たと主張したが、自分が罪を犯したために、天から追放されたことは、表に出さなかった。彼は、罪が永遠の損失をもたらしたことを知ってはいたが、他のものを自分と同じ立場に引き入れるために、自分の不幸を隠した。そのように、今日、違反者は、自分の正体を隠そうとする。彼は、自分が清いことを主張するであろう。しかし、そのりっぱな公言は、彼を欺瞞者として、さらに危険なものとするだけである。彼は、サタンの 側に立って、神の律法をふみにじり、他の人々にも同じようにさせ、彼らを永遠の破滅に陥れようとしている。 PP 28.4
エバは、サタンの言葉をほんとうに信じた。しかし、エバがそう信じたからと言って、罪の刑罰をまぬかれることはできなかった。エバは、神のみことばを信じなかった。そして、それが、彼女を堕落させたのである。人間は、審判のときに、偽りを本気で信じたからではなくて、真理を信じないで、真理を学ぶ機会をのがしたために罪に定められる。サタンは、正反対の詭弁を弄しているが、神に従わないことは、常に悲惨なことである。われわれは、真理が何であるかを知るように心がけなければならない。神が、み言葉のなかにお書かせになったすべての教訓は、われわれを警告し教えるためである。それらは、われわれを欺瞞から救うために与えられた。それを学ばないならば、身の破滅をもたらす。神のみ言葉に反するものは、みな、サタンから出たものであると思ってまちがいない。 PP 29.1
へびは、禁じられた木の実をとって、なかば気の進まないエバの手にのせた。そうしておいて、彼は、神がそれにさわるな、死んではいけないからと言われたというエバ自身の言葉を彼女に思い起こさせた。彼は、それにさわっても害はなかったのだから、その実を食べてもだいじょうぶだと言った。エバは、さわっても何も悪いことが起こらないので、だんだん大胆になった。「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ」た(創世記3:6)。その味はよかった。彼女か食べたとき、彼女は、生き生きした力を感じたように思った。そして、さらに高い存在状態にはいったように感じた。彼女は、何の恐れもなく、実を取って食べた。こうして、罪を犯したエバは、サタンにかわって夫を破滅させるために働く者になった。エバは、なんとも言えない異常な興奮状態に陥り、禁じられた木の実を両手に持って、夫をさがし、起こったことのすべてを話した。 PP 29.2
悲しい表情がアダムの顔にあらわれた。彼は、驚きおびえたように見えた。エバの話を聞いて、これはわれわれが警告を受けていた敵にちがいないと彼は答えた。また彼は、エバは神の宣告によって死ななければならないと言った。彼女はそれに答えて、死ぬことはないと言ったへびの言葉をくりかえして、彼に食べるようすすめた。エバはそれをほんとうだと思った。というのは、自分は神の怒りのしるしを何も感じないし、むしろ、気分を爽快にして、引き立たせ、からだ中が新しい命におどるように思われ、天使も、このように力づけられているのかとエバは想像したからである。 PP 29.3
アダムは、エバが神の命令にそむき、彼らの忠誠と愛の試練として課せられたただ1つの禁令を犯したことを知った。彼の心に恐ろしい苦闘が起こった彼は、エバを、自分のそばからさまよい出るままにしておいたことを悲しんだ。しかし、それはもう取りかえしがつかなかった。彼は、交わりを楽しんでいた彼女から別れなければならなかった。どうして、それに耐えることができよう。アダムは、神と天使たちとの交わりを楽しんでいた。彼は、創造主の栄光を見たのであった。もし、人類が神に忠実であったならば、彼らにはどのような輝かしい運命が開かれるかを彼は知っていた。しかし、彼は、他のあらゆるもの以上に尊いものと思っていた賜物を失うことを恐れて、こうしたすべての祝福について考える余裕がなかった。創造主への愛、感謝、忠誠心などのすべては、エバに対する愛の大きさには比べることができなかった。彼女は、彼自身の一部で、別れるなどとは考えてみることもできなかった。土のちりから生きた美しい人間を創造し、彼を愛して、彼に伴侶を与えられた同じ無限の能力を持たれた神は、彼女に代わるものを備えることがおできになることを彼は理解しなかった。彼は、彼女と運命を共にする決心をした。彼女が死ななければならないならば、彼もいっしょに死のうと思った。結局、賢いへびの言葉がほんとうではなかろうかと彼は考えた。エバは、不従順の行為の以前と同様に、美しく、見たところなんの罪もないかのように、彼の前に立っていた。彼女は、前よりは大きな愛を 彼にあらわした。死の徴候は、彼女にあらわれていなかった。そこで、彼は、成り行きにまかせる決心をした。彼は、実を取ってすばやく食べた。 PP 29.4
アダムは、罪を犯した後で、まず第一に、自分がこれまでより高い存在状態にはいったような気がした。しかし、間もなく、罪の意識は彼の心を恐怖で満たした。これまでなごやかで一様だった気温が、罪を犯した2人にはだ寒く感じられた。これまで彼らの心に宿っていた愛と平和はなくなり、その代わりに罪の意識と未来への恐怖と魂の空虚さとを感じた。彼らを取りまいていた光の衣は消えてしまった。それで、彼らは、その代わりに衣服をつくろうとした。彼らは、何も着ないで、神と天使たちに会うことはできなかった。 PP 30.1
彼らは、今、自分たちの罪の正体を知り始めた。アダムは、自分のそばを離れて、へびに欺かれたエバの愚かさを非難した。しかし、彼らは2人とも安易な考えを抱いて、これまでこれほど多くのご自分の愛の証拠をお与えになった神は、この1つの罪を赦し、彼らが当然受けるものと思った恐ろしい刑罰にあわなくてもすむようにしてくださるだろうと思った。 PP 30.2
サタンは、自分の成功を喜んだ。彼は女を誘惑して、神の愛に不信を抱かせ、神の知恵を疑わせ、神の律法を犯させ、そして、彼女によって、アダムをも打ち負かしたのである。 PP 30.3
しかし、偉大な律法賦与者は、アダムとエバに彼らの罪の結果を知らせようとしておられた。神が園に来られた。彼らが罪なく清いときであれば、喜んで創造主の近づいて来られるのを歓迎するのであったが、いまは、恐れて逃げ、園の奥深いところに隠れようとした。しかし、「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』。彼は答えた、『園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです』。神は言われた、『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか』」(同3:9~11)。 PP 30.4
アダムは、自分の罪を否定し、言いわけをすることもできなかった。彼は、悔い改めの精神をあらわす代わりに、彼の妻を非難し、ひいては、神ご自身の責任にした。「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」(同3:12)。エバを愛するがために、神に喜ばれることも、楽園の彼の家も歓喜に満ちた永遠の命をも捨てた彼が、罪を犯した今は、罪の責任を妻ばかりでなく、創造主ご自身にまで負わせようとした。罪の力は、これほどに恐ろしいのである。 PP 30.5
女が「あなたは、なんということをしたのです」と問われたとき、彼女は、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」と答えた(同3:13)。「どうしてあなたは、へびをお造りになったのですか。へびがエデンに入るのをどうしてお許しになったのですか」という質問が彼女の言いわけの真意であった。このようにして、彼女もアダムと同じく、彼らの堕落の責任を神のせいにした。自己を義とする精神は、偽りの父から始まった。この精神は、われわれの祖先がサタンの力に屈服すると直ちにあらわれた。そして、それ以来、アダムのすべてのむすこ、娘はこの精神をあらわしてきた。謙遜に自分の罪を告白するかわりに、彼らは他の人や、環境、あるいは神を非難して、自分を弁護しようとする。彼らは、神の祝福さえ、神に対するつぶやきの理由にするのである。 PP 30.6
そこで、主はへびにこう宣告を下された。「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」(同3:14)。へびはサタンの手先として使われたために、神の刑罰を共に受けなければならなかった。へびは、野の生きもののうちで、最も美しく、ほめそやされていたが、最も卑しめられて、いみきらわれるものとなり、人からも動物からも恐れられ、憎まれるようになるのであった。へびにむかって語られた次の言葉は、サタン自身に直接言われたもので、彼が、最後には敗北して滅びることをさしていた。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に、彼 はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(同3:15)。 PP 30.7
エバは、これからあわなければならない悲しみと苦痛を知らされた。主は言われた。「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(同3:16)。神は創造のときに、彼女をアダムと等しいものに造られた。もし彼らが神に従って、その偉大な戒めに調和していたならば、彼らは、互いに調和しあってきたはずであった。しかし、罪が調和を破った。だから、一方が他方に従属することによって彼らの一致と調和が保たれるようになった。エバは最初に罪を犯した。彼女は、神の命令に反して夫のそばを離れたために、誘惑に陥った。また、アダムは、彼女のすすめによって罪を犯した。そこで、彼女は、夫に従う立場におかれた。神の律法が命じているこの原則を、堕落した人類が守っていたならば、この宣告は、罪の結果によるものであったとは言え、彼らにとって、祝福となったことであろう。ところが、こうして与えられた優位を男が乱用したために、女の運命は非常に苦しく、彼女の人生は重荷となった。 PP 31.1
エバは、エデンの家庭で、夫のそばにいて、完全な幸福を味わっていた。しかし、落ちつきを失った現代のエバたちと同様に、彼女は、神がお定めになったところより、もっと高い身分になりたいと望むようにそそのかされた。彼女は、初めに置かれた地位より高く昇ろうとして、それよりはるか下に落ちた。神のご計画に従って、実生活の義務を快く果たそうとしない者は、みな同様になる。神がお与えにならなかった地位を得ようと努めて彼らが祝福となることのできる場所をあける者が多い。高い身分を望んで、女性の尊厳と品性の気高さを犠牲にし、人が特に彼らに与えた働きを怠る者が多いのである。 PP 31.2
主は、アダムに宣言された。「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(同3:17~19)。 PP 31.3
罪のない夫婦が、悪を知ることは、神のみこころではなかった。神は、彼らに善を惜しみなく与えて、悪は、さしひかえておられた。それだのに、彼らは神の命令に反して、禁じられた木の実を食べてしまった。こうして彼らは、それを一生の間食べ続け、悪の知識をもつことになるのであった。このとき以来、人類はサタンの誘惑に悩まされることになった。それまで彼らに与えられていた楽しい労働にかわって、不安と労苦を経験しなければならなくなった。彼らは、失望、悲嘆、苦痛をなめ、そして最後には死ななければならなかった。 PP 31.4
自然全体は、罪ののろいのもとにあって、神に対する反逆の性質と結果を人間にあかしすることになった。神は人間を創造なさったときに、彼を地とすべての生き物の統治者にされた。アダムが、天の神に忠誠をつくしていたかぎり、自然全体は彼に従っていた。ところが、彼が神の律法にそむいたとき、下等の動物は、彼の統治にそむいた。こうして、主は、その大きな慈悲をもって、神の律法の神聖さを人間に示し、彼ら自身の体験によって、ささいなことにおいても、律法の無視がどんなに危険であるかを悟るようにされた。 PP 31.5
このとき以来、艱難辛苦の生活が人間の運命になったが、これは、愛のゆえに定められたものであった。これは罪の結果、人間に必要となった訓練であって、食欲と情欲の放縦を防ぎ、克己の習慣を発達させるためであった。これは、罪の滅びと堕落から人間を回復する神の大計画の一部であった。 PP 31.6
「それを取って食へると、きっと死ぬであろう」(同2:17)という祖先に与えられた警告は、彼らが禁じられた木の実を食べたその日に死ぬという意味ではなかった。しかし、その日に、取り消すことのできない宣告が発せられるということであった。不死は服従の条件のもとに約束された。罪を犯せば、永遠の命を失うのであった。その日に、彼らは死ぬ運命に定められるのであった。 PP 31.7
永遠に生きるためには、人間は、いのちの木の実 を食べなければならなかった。これが取り去られると、彼の生命力は次第に衰えていって、ついには絶えてしまう。サタンは、アダムとエバが、不従順のために、神の怒りを招くことを意図していた。そして、彼らが赦しを得ることができなければ、彼らは、いのちの木の実を食べて罪と悲惨に満ちた生活を永続することを、サタンは望んでいた。だが、人間の堕落後、直ちに聖天使がいのちの木を守る任命を受けた。この天使たちの周りには、輝く剣のような光がひらめいていた。アダムの家族の者は、だれもこのさくを越えて、いのちの木の実を食べることはできなかった。だから、不死の罪人はいないのである。 PP 31.8
われわれの祖先の罪から生じたわざわいのうしおは、ごく小さな罪の結果としては、あまりにも恐ろしすぎると考えて、人間を扱われる神の知恵と義とを疑う者が多い。しかし、彼らがこの問題の深いところにあるものを見るならば、自分たちのまちがいに気づくであろう。神は、ご自分のかたちに従って、罪のないものとして人間を造られた。地上には、天使より少し低く造られた人々が住むことになっていた。しかし、彼らの従順がためされなければならなかった。神は、この世界が、神の律法を無視する者たちによって満たされるのを許されなかった。ところが、神は大きなあわれみによって、アダムにきびしい試練をお与えにならなかった。そして、禁令が軽かったこと自体が、罪を非常に大きいものにした。もし、アダムが最も小さい試練に耐えることができなければ、もっと大きな責任を負わせられたときに、さらに大きな試練に耐えることはできなかったであろう。 PP 32.1
もし、アダムに何か大きな試練が課せられたならば、悪に傾いている者は、「これは、ちょっとしたことだ。神は、小さいことは厳密に言われない」と言って、言いわけをしたことであろう。そして、ささいなことと思われることの違反がつづき、人々の間で非難されることもないであろう。しかし、主は、どんなに小さい罪でも憎まれることを明らかにされた。 PP 32.2
神の言葉にそむいて、禁じられた木の実を食べ、夫をも誘って律法を犯させることは、エバにとって、ささいなことのように思われた。ところが、彼らの罪は、不幸が潮流のようにこの世界に流れ込む門を開いたのである。誘惑のときの、誤った1歩がどんな恐ろしい結果をもたらすかをだれが知ることができよう。 PP 32.3
神の律法は人間を束縛するものではないと教える多くの人々が、その戒めに従うことは、不可能であると主張している。しかし、それが真実であるならはなぜアダムは、罪の刑罰を受けたのであろうか。われわれの祖先の罪は、この世に罪と悲しみをもたらした。もし、神の恵みと憐れみがなかったならば、人類は全くの絶望状態に投げこまれたことであろう。だれも自分をあざむいてはならない。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)。人類の祖先に宣告がくだったときと同じく、今も、神の律法を犯してその刑罰をまぬかれる者は1人もいないのである。 PP 32.4
アダムとエバは、罪を犯してからエデンに住むことができなくなった。彼らは、罪のなかったときの喜びに満ちた住居にとどまっていたいと熱心に願った。彼らは、その幸福な住居に住む権利をすべて失ったことを認めたが、今後は、必ず神に服従することを誓った。しかし、彼らの性質は、罪のために堕落し、悪に抵抗する力が弱まり、サタンが容易に彼らに近づく道を開いたことを彼らは知らされた。彼らは、罪のないときに誘惑に負けた。であるから、今、罪を知った状態においては、忠実に従う力が弱まったのである。 PP 32.5
彼らは頭をうなだれ、言い表せない悲しみをいだきつつ、美しい住居に別れを告げ、罪にのろわれた地に住むために出ていった。かつては、おだやかで一様だった気温も、今は、急激に変化するようになった。恵み深い主は、激しい暑さと寒さから彼らを保護するために、皮衣をお与えになった。 PP 32.6
アダムとエバは、花がしぼみ、葉が落ちるという死の最初の徴候を見て、今日、人々が死者のために嘆く以上の悲しさを味わった。か弱い優美な草花が枯れるのは確かに悲しいことであった。しかし、立派な樹木が葉を散らすときに、生きているものは、みな、死ぬ運命にあるという厳粛な事実を、はっきりと人の心に思わせるのであった。 PP 32.7
エデンの園は、人間がその楽しい道から追われた後も長く地上に残っていた。その入り口は警護の天使が守っているだけで、堕落した人類は、罪の入らなかったときの住居を長い間かいま見ることを許されていた。ケルビムが守っていた楽園の門には、神の栄光があらわれていた。アダムとその子らは、ここに来て神を礼拝した。かつて、神の律法を犯したためにエデンから追放された彼らは、ここで神の律法に従う誓いを新たにした。悪のうしおが全地にみなぎり、人々の悪行の結果、世界が洪水によって滅ぼされることになったときに、エデンの園を造られたみ手は、それを地上から取り去られた。しかし万物が回復されて、「新しい天と新しい地」が出現するとき(黙示録21:1)、それは、はじめのときよりももっと輝かしく飾られて回復されるのである。 PP 33.1
そのとき、神の戒めを守ってきたものは、いのちの木の下で、不死の生気を呼吸する。そして、罪のない世界の住民は、永遠にわたって、この喜ばしい楽園に、罪にのろわれなかった完全な神の創造のみわざの見本を見るとともに、人間が創造主の栄光に満ちた計画を成就していたならば、全世界がどのようになったかという見本を見るのである。 PP 33.2