人類のあけぼの
第41章 ヨルダンにおける背教
本章は、民数記25章に基づく PP 235.4
勝ち誇ったイスラエルの軍勢は、喜びに満ち、神に対する信仰を新たにして、バシャンから帰った。彼らは、すでに、貴重な地域を占領していた。そして、すぐにカナンを征服することができると確信していた。彼らと約束の国との間には、ヨルダン川があるだけであった。川の向こうには、緑でおおわれた肥えた平原があった。そこには、泉から豊富にわき出た流れにうるおされ、おい茂ったしゆろの木陰があった。平原の西の端に、エリコの塔と宮殿が立ち並んでいた。そして、それが、しゅろの森に囲まれていたために、エリコは「しゅろの町」と呼ばれていた(申命記34:3)。 PP 235.5
ヨルダンの東側、すなわち、彼らが通ってきた高原と川までの間にも、その幅数マイルに及ぶ平原が、川に沿って長く伸びていた。天然の保護を受けたこの流域は熱帯性の気候で、ここに、シッテム、すなわちアカシヤの木が茂っていた。そのために、この平原は、「シッテムの谷」と呼ばれた(ヨエル3:18)。イスラエルが宿営したのはここで、川沿いのアカシヤの森が、彼らにころあいの宿り場となった。 PP 235.6
しかし、こうした魅力のある環境のなかで、武装した大軍や荒野の野獣以上に恐ろしい悪事に、彼らは当面しなければならなかった。自然の条件に恵まれた国土は、住民によって汚されていた。バアルが彼らのおもだった神であったが、その公の礼拝には、最も堕落した邪悪な行為が常に行われていた。いたるところに偶像礼拝とみだらなことで著名な場所があって、その名そのものが、人々の卑しさと腐敗を示していた。 PP 235.7
こうした環境は、イスラエル人に悪影響を及ぼした。彼らの心は、絶えずほのめかされた卑しい思いになれてきた。彼らは、安楽と怠惰な生活によって風紀をみだした。そして、ほとんど無意識のうちに神から離れ、やすやすと誘惑に負ける状態に陥っていた。 PP 236.1
ヨルダン河畔に宿営していた間に、モーセはカナン占領の準備を進めた。この偉大な指導者は、この務めに没頭していた。しかし、民にとってこの不安と期待の時期はどうにも耐えがたかった。幾週もたたないうちに、彼らの生活は徳と忠誠から恐ろしいまでに離れてしまっていた。 PP 236.2
最初、イスラエル人とこれらの異教徒との間には、ほとんど交渉がなかったのであるが、やがて、ミデアンの女たちがひそかに宿営に出入りするようになった。彼女たちの出現に警戒の色を見せる者もなかった。また、彼らのすることが、目だたないように行われたために、モーセの注意もこれに向けられなかった。この女たちがヘブル人と交わる目的は、彼らをだまして神の律法に違反させ、異教の儀式と習慣に注意を引き、偶像礼拝に誘うことであった。こうした動機は、友愛という名目の下に隠されていたため、民の守護に当たる者たちでさえそれに気づかなかった。 PP 236.3
バラムの提案によって、モアブの王は、神々をたたえる大祭を催すことに決めた。そして、バラムが、イスラエル人の参加を促すということがひそかに取り決められた。イスラエル人は、彼を神の預言者と見なしていたので、この目的を果たすのはぞうさなかった。大勢の民が、彼と共に祭りを見物した。彼らは禁じられた場所に足を踏み入れ、サタンのわなに捕らえられた。歌と踊りに浮かされ、異邦の女たちの美しさに魅せられて、彼らは主への忠誠心を捨ててしまった。一緒になって歓楽に身を委ねるにつれて、酒が感覚をくもらせ、自制心を失わせた。情欲がすべてを支配し、みだらな思いで良心を汚した彼らは、勧められるままに、偶像にひざをかがめた。彼らは異教の祭壇に犠牲を捧げ、最も堕落した儀式に参加した。 PP 236.4
この害毒が、恐ろしい伝染病のように、イスラエルの宿営に広がるには長時間を要しなかった。戦いにおいて敵を征服したはずの者たちが、異教の女の惑わしに負けてしまった。民は、魂を抜かれてしまったようであった。つかさたちや、おもだった人々が先頭に立って罪を犯した。そして多くの人々が罪を犯したため、背信は全国的なものとなった。「イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがった」(民数記25:3)。モーセがこの悪に気づいたときは、すでに敵の計画は完全に成功し、イスラエル人はペオルの山のみだらな礼拝に参加していたばかりでなく、この異教の儀式がイスラエルの宿営の中でも行われようとしていた。モーセは憤りに満ち、神の怒りは燃え上がった。 PP 236.5
バラムのどのような魔術もイスラエルに対してなし得なかったことを、彼らのよこしまな風習はなしとげた。つまり、彼らは、イスラエルを神から引き離したのである。直ちに襲った刑罰によって、人々は、自分たちの罪の大きさにめざめた。 PP 236.6
恐ろしい疫病が宿営に発生し、幾万の人々がたちまちのうちに、その犠牲になった。この背信の指導者たちは、さばきびとによって殺されなければならないと、神は、お命じになった。この命令は、直ちに実行された。罪人たちは殺され、その死体は全イスラエルの目の前につるされた。それは、会衆が、指導者たちの受けたきびしい刑罰を見て、彼らの罪に対する神の嫌悪と彼らに対する神の怒りの恐ろしさを痛感するためであった。 PP 236.7
処罰の正しさをすべての者が認め、民は幕屋に急いで来て、涙を流し、心からへりくだった思いをいだいて、罪を告白した。幕屋の入口で、彼らがこうして神の前に泣いているとき、そして疫病がなお人々に死をもたらしていた時に、イスラエルのつかさのひとりであるジムリが、臆面もなく、「ミデアンの民の一族のかしら」の娘である遊女を伴って宿営にやってきて、彼女を自分の天幕に連れていった(同25:15)。これほど大胆不敵な罪はまたとなかった。酒に酔いしれたジムリは、「ソドムのように」その罪をあらわして自分の恥を誇った(イザヤ3:9)。祭司と指導者た ちが悲嘆と屈辱にうちひしがれて、「廊と祭壇との間で」泣き(ヨエル2:17)、主が民のいのちを赦し、神の選民をはずかしめないようにと、主に嘆願していたそのおりもおり、このイスラエルのつかさは、あたかも神の報復にいどみ、民のさばきびとを嘲笑するかのように、全会衆の前で、自分の罪をこれ見よがしに誇ったのであった。大祭司エレアザルの子ピネハスは会衆のうちから立ち上がり、やりを手にとり、「そのイスラエルの人の後を追って、奥の間に入り」、2人を殺した(民数記25:8)。こうして疫病はやみ、神の刑罰を執行したこの祭司は、全イスラエルの前で名誉を受け、祭司職は彼とその家のものとして、永久に確認された。 PP 236.8
天来の言葉はこうであった。ピネハスは、イスラエルのうちから「わたしの怒りを……取り去った」「このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」(同・25:11~13)。 PP 237.1
シッテムにおける罪のためにイスラエルにくだった刑罰は、40年近く以前に、「彼らは必ず荒野で死ぬであろう」という宣告を受けていたあの大群衆の残存者を滅ぼしてしまった(同26:65)。ヨルダンの平野の宿営で、神のさしずにしたがって民を数えたところ、「モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエルの人々を数えた時に数えられた者はひとりもなかった。……彼らのうちエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほか、ひとりも残った者はなかった」(同26:64、65)。 PP 237.2
神は、ミデアン人の誘惑に屈したイスラエルに刑罰をくだされたが、誘惑した者たちも神の正義の怒りをのがれることができなかった。レピデムで、イスラエルを攻め、疲れ果てて軍勢のあとに従っていた者たちを襲ったアマレク人は、長く後まで罰せられなかったが、イスラエル人を罪にいざなったミデアン人は、もっと危険な敵として、ただちに神の刑罰を受けた。神はモーセに命じられた。「ミデアンびとにイスラエルの人々のあだを報いなさい。その後、あなたはあなたの民に加えられるであろう」(同31:2)。この命令はすぐに実行された。各部族から1000人が選ばれ、ピネハスの指揮のもとに送り出された。「彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦っ……た。その殺した者のほかにまたミデアンの王5人を殺した。……またベオルの子バラムをも、つるぎにかけて殺した」(同31:7、8)。軍勢が捕虜とした女たちも、最も罪深く最も危険なイスラエルの敵であったので、モーセの命令によって殺された。 PP 237.3
これが、神の民に対して災いを図った民の最後であった。詩篇作者はこううたっている。「もろもろの国民は自分の作った穴に陥り、隠し設けた網に自分の足を捕らえられる」(詩篇9:15)。「主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。さばきは正義に帰」る。人々が「相結んで正しい人の魂を責め」るとき、「主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます」(詩篇94:14、15、21、23)。 PP 237.4
バラムは、ヘブル人をのろうように求められたとき、魔術のすべてを尽くしても彼らに災いをもたらすことができなかった。それは主が、「ヤコブのうちに災のあるのを見」ず、また「イスラエルのうちに悩みのあるのを見ない」からであった(民数記23:21)。だが彼らが誘惑に屈して神の律法を犯したとき、保護が彼らから取り去られた。神の民が戒めに忠実であるとき、「ヤコブには魔術がなく、イスラエルには占いがない」のである(同23:23)。したがって、サタンの力と策略は、すべて、彼らを罪にいざなうために用いられる。神の律法の保管者であることを告白する者たちが、戒めを破るならば、それは彼らを神から引き離してしまう。そして彼らは、敵の前に立つことができなくなる。 PP 237.5
ミデアンの軍勢、また、魔術によっても征服されなかったイスラエル人は、ミデアンの遊女たちに負けてしまった。サタンに仕える女が魂をわなにかけて滅ぼす力は、こんなに強力なのである。「彼女は多くの人を傷つけて倒した、まことに、彼女に殺された者 は多い」(箴言7:26)。こうして、セツの子孫は誘われて誠実の道からそれ、清い人々は堕落した。ヨセフも、また、こうした誘惑を受けた。このようにして、サムソンは自分の力、イスラエルの守りをペリシテ人の手に渡した。この点においてダビデもつまずいた。また、3度にわたり神に愛された者と呼ばれた諸王の中の最も賢明な王ソロモンは情欲の奴隷となり、同じ魅惑の力のためにその誠実を犠牲にした。 PP 237.6
「これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(Ⅰコリント10:11、12)。サタンは人間の心を扱うのに用いる材料を熟知している。彼は数千年にわたり、うむことなく研究してきたので、あらゆる人間を最も容易に攻撃することのできる点を知っている。彼は各世代にわたって、ペオルのバアルにおいてみごとに成功したのと同じ誘惑により、最も強固な人間、イスラエルのつかさたちをくつがえそうと働いてきた。どの時代にも、官能の耽溺という岩に乗り上げて難破した人々が大勢いた。時が終わりに近づき、神の民が天のカナンの境界に立つとき、サタンは、昔と同じように、彼らをよい地に入らせまいとして、いっそう努力する。彼は一人一人にわなをしかける。気をつけなければならないのは、無知で無教育な人々ばかりではない。彼は最も高い地位、最も聖なる職務の人々をも誘惑する。もし彼らをいざなってその魂を堕落させることができれば、彼らを通して多くの人々を滅ぼすことができる。そして彼は今も、3000年前に用いたのと同じ手段を用いる。この世の交わり、美貌の魅力、快楽の追求、歓楽、安楽、飲酒などによって、彼は第7条を犯させようとする。 PP 238.1
サタンは、イスラエルを偶像礼拝に導くにさきだって、みだらな生活にいざなった。神のかたちであるべき人間性をはずかしめ、自分自身のうちにある神の宮を汚す者は、下劣な心の欲望を満足させて神をどんなにはずかしめてもためらわない。官能の耽溺は精神を弱め、魂を堕落させる。動物的な性質の満足によって、道徳的、知的能力は麻痺して無感覚となる。 PP 238.2
だから情欲の奴隷が神の律法の神聖な義務を自覚したり、贖罪を感謝したり、あるいは魂の価値を正しく評価することはできない。善、純潔、真実、神への崇敬、聖なることがらへの愛など、人間を天の世界とつなぐこうした聖なる思いと気高い願望のすべてが、情欲の火で焼き尽くされる。魂は暗い荒涼とした荒れ地、悪霊の住み家、「あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつ」となる(黙示録18:2)。神のかたちに造られた人間が、野獣と同等の水準に引き下げられる。 PP 238.3
ヘブル人が神の律法を犯すようにいざなわれ、民族に神の刑罰をもたらすことになったのは、偶像礼拝者と交わり、彼らの歓楽に加わったためであった。そのように今も、キリストに従う者を不信心な者と交わらせ、その娯楽に加えることによって、サタンは巧みに彼らを罪にさそい出す。「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない」(Ⅱコリント6:17)。神は昔のイスラエルに要求なさったと同じように、今のご自分の民にも、風習と習慣と原則において、この世とはっきり分離することを要求なさる。神のことばが教えることに忠実に従うなら、この区別は存在し、それはあいまいであることはあり得ない。ヘブル人が異教徒に同化してはならないことを戒めた警告は、現在、不信心な者の精神と風習に、クリスチャンが同調することを禁じている警告と同様に明白なものであった。キリストはわれわれにこう語っておられる。「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない」(Ⅰヨハネ2:15)。「世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」(ヤコブ4:4)。キリストに従う者は罪人と分離し、善を行う機会のあるときだけ彼らと交わるのでなければならない。われわれを神から引き離す感化力を持つ人々との交わりを避けるについては、どんなに断固とした態度を取 っても取りすぎることはない。「わたしたちを試みに会わせないで」くださいと祈る一方、できるだけ誘惑を避けなければならない(マタイ6:13)。 PP 238.4
イスラエル人が罪にいざなわれたのは、外面的には安楽で、安全な状態にあったときであった。彼らは、常に神を自分たちの前に置くことを怠り、祈りをおろそかにし、自負心をいだいた。安楽と放縦が魂のとりでを無防備にし、いやしい考えを起こさせた。原則という要塞をくつがえし、イスラエルをサタンの手に渡したのは、城壁の内部の反逆者たちであった。今なおこのようにして、サタンは魂の滅亡をはかっている。クリスチャンが公然と罪を犯すまでには、世間には知られない長い予備的な過程が心の中で進行している。精神は、たちまちにして純潔と聖潔から堕落と腐敗と犯罪へと急降下するのではない。神のかたちに造られた者を、獣、あるいは悪魔のかたちに堕落させるには時間がかかる。われわれは仰ぎ見ることによって変えられる。不純な思いにふけることによって、人間は、かつては嫌悪していた罪を快いものと思うようにもなることができる。 PP 239.1
サタンはあらゆる手段を尽くして、犯罪と堕落的な悪徳を広めようとしている。都市の通りを歩けば、必ず、小説に描かれた犯罪、または劇場で上演される犯罪のはでな広告にぶつかる。心は罪に慣らされてしまう。心の下劣な人物のたどった道が、今日、雑誌に掲載され、人々の欲望をかきたてるあらゆるものが刺激的な物語の中で示される。人々は堕落的な犯罪について聞いたり、読んだりすることが多いため、かつてはこうした情景を嫌悪して目をそむけた敏感な良心も、感覚がにぶって、こうしたことをむさぼるごとく心に思い浮かべるようになるのである。 PP 239.2
今日、この世界で、クリスチャンと称する人々にさえ人気のある娯楽の多くは、あの異邦人たちを陥れたのと同じ運命に至らせるものである。事実、そのなかで、サタンが魂を滅ぼすために活用しないものは、ほとんどない。サタンは、各時代を通じて、演劇によって情欲を刺激し、悪徳をたたえてきた。サタンは、歌劇の魅惑的表現と心を奪う音楽、ダンス、仮面舞踏会、トランプ遊びなどを用いて、原則の防壁を破り、肉欲にふける道を開くのである。誇りが助長され、欲求がほしいままに満たされるあらゆる快楽の集い、また、神のことを忘れて永遠のことがらを見失わせるあらゆるところで、サタンは、魂を彼のくさりでしばりつけている。 PP 239.3
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」と賢者は勧告している(箴言4:23)。人間は、その心に思うとおりの人がらになっていく(箴言23:7・文語訳参照)。心は天の恵みによって新たにされるのでなければ、生活のきよめを求めても無益である。キリストの恵みとは関係なしに、気高く正しい品性を築こうとする者は、くずれる砂の上に家を建てているのである。それは、激しい誘惑のあらしが襲ってくると、倒れるに決まっている。「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」というダビデの祈りが、すべての魂の祈りでなければならない(詩篇51:10)。天の賜物を受けてはじめて、われわれは「信仰により神の御力に守られ」ながら完全に向かって進むことができる(Ⅰペテロ1:5)。 PP 239.4
だが、誘惑に抵抗するためにわれわれにもしなければならないことがある。サタンの策略の犠牲になりたくない者は、魂の道をよく守り、不純な思いを起こさせるものを読んだり、見たり、聞いたりしないようにしなければならない。魂の敵がほのめかしてくることになんのみさかいもなく、心が移ることのないようにしなければならない。使徒ペテロは言っている。「心の腰に帯を締め、身を慎み、……無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」(同1:13~15)。また、パウロは言っている。「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」(ピリピ4:8)。それには真剣に祈り、絶えず目覚めていることが必要であ る。われわれは、心を上に引きつけ、純潔で聖なるものに向けさせる聖霊の変わらない感化力の助けを受けなければならない。そして、神のみことばを勤勉に学ばなければならない。「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません」「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました」と詩篇作者は言っている(詩篇119:9、11)。 PP 239.5
ベテペオルにおけるイスラエルの罪は民族の上に神の刑罰をもたらした。そして同じ罪が、今はそのようにすみやかに処罰されないかもしれないが、それが報復を受けることはそのときと同じく確実である。「もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう」(Ⅰコリント3:17)。自然はこれらの罪に恐ろしい刑罰を与えてきたが、この刑罰は遅かれ早かれ、罪人の一人一人に課せられるものである。人類を恐ろしいまでに退化させ、病と悩みの重荷を世界に負わせているのは、ほかの何にもましてこれらの罪である。自らの罪を人には隠すことができるかもしれないが、しかし、苦痛、病気、虚弱、死なとによって、まちがいなくその結果を刈り取るのである。そして、この世のかなたには、永遠の刑罰をもって報いる最後の審判がある。「このようなことを行う者は、神の国をつぐことが」できず、サタンや悪天使たちと一緒に、「第二の死」である「火の池」を受けるであろう(ガラテヤ5:21、黙示録20:14)。 PP 240.1
「遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる」「あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲し」む。「その家は死に下り、」「すべて彼女のもとへ行く者は、帰らない」「彼女の客は陰府(よみ)の深みにおる」(箴言5:3、4、8~11、2:18、19、9:18)。 PP 240.2