人類のあけぼの

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第39章 バシャンの征服

本章は、申命記2章、3:1~11に基づく PP 225.1

イスラエル人は、エドムの南方を通過したあと、北に向きをかえ、ふたたび約束の地に向かった。今、彼らの道は広大な高原を横切って走っていた。そこには、山からの冷たく気持ちの良いそよ風が吹きわたっていた。彼らがこれまで歩いてきた焼けつくような谷に比べれば、それはうれしい変化であった。彼らは元気と希望に満ちて前進し、ゼレデ川を渡ってモアブの国の東にはいった。それは、「モアブを敵視してはならない。またそれと争い戦ってはならない。彼らの地は、領地としてあなたに与えない。ロトの子孫にアルを与えて、領地とさせたからである」との命令が与えられていたからである(申命記2:9)。また同じ命令が、同様にロトの子孫であったアンモン人にも与えられていた。 PP 225.2

イスラエルの軍勢は、なお北方に進み、まもなくアモサ人の国に入った。この頑強で好戦的な民族は、もともとカナンの国の南部にいたが、数が増したためヨルダン川を渡り、モアブ人と戦いを交えて、その領土の一部を占領した。彼らはここに定住し、アルノンから、北はヤボクに至る全土にゆるぎない支配をうちたてた。イスラエル人が通過したいと思ったヨルダンへの道は、この地域をまっすぐに通っていた。そこでモーセは、その都にいるアモリ人の王シホンに友好的な伝言を送った。「あなたの国を通らせてください。わたしは大路をとおっていきます、右にも左にも曲りません。金で食物を売ってわたしに食べさせ、金をとって水を与えてわたしに飲ませてください。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです」(同2:27、28)。ところが、答えは断固とした拒絶であった。こうして、全アモリ軍は召集され、侵入者の行く手をはばもうとした。この大軍は、イスラエル人を恐怖に陥れた。彼らには武装を整え、訓練の行き届いた軍隊と戦う準備がなかった。戦闘の技術では、敵が有利であった。人間の見るところでは、イスラエルがすぐ滅ぼされるのは明らかであった。 PP 225.3

しかし、モーセは雲の柱にしっかりと目をとめ、神の臨在のしるしが今なお彼らと共にあると語って民を励ました。同時に、彼は、人力の限りを尽くして戦いの備えをするように命じた。敵は戦争にはやり立ち、用意のないイスラエルを国内から抹殺することができると確信した。 PP 225.4

しかし、すでに全地の所有者である神からイスラエルの指導者にこのような指令が出ていたのである。「あなたがたは立ちあがり、進んでアルノン川を渡りなさい。わたしはヘシボンの王アモリびとシホンとその国とを、おまえの手に渡した。それを征服し始めよ。彼と争って戦え。きょうから、わたしは全天下の民に、おまえをおびえ恐れさせるであろう。彼らはおまえのうわさを聞いて震え、おまえのために苦しむであろう」(同2:24、25)。 PP 225.5

もし、カナンの辺境にあるこれらの国々が、神のことばに反抗せず、イスラエルの進軍をさまたげなかったならば、滅びをまぬかれたことであろう。主は、これら異教の民にさえ、ご自身が忍耐強く、やさしく、憐れみ深いお方であることを示してこられた。アブラハムが幻の中で彼の子孫のイスラエルの子らが400年の間、異国の旅人となるであろうと告げられたとき、主は彼にこのような約束をお与えになった。「4代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」(創世記15:16)。アモリ人は偶像教徒であって、彼らが滅ぼされるのは、当然彼らの大いなる悪のゆえであったが、神は、ご自身が唯一の真の神であり、天地の創造主であることのまちがいのない証拠を彼らに与えるために、400年の間、彼らに生きることをおゆるしになった。彼らは、イスラエル人がエジプトから導き出さ れたときに行われた神のすべての不思議なみわざを知っていた。十分な証拠が与えられていた。彼らは、もし、その偶像崇拝と放縦な生活から離れようと決心していたなら、真理を知ったことであろう。しかし彼らは光を拒み、偶像を捨てなかった。 PP 225.6

主が、その民を2度目にカナンの国境に導かれたとき、これらの異教国に主の力の証拠がさらに多く与えられた。イスラエル人がアラデ王とカナン人に対して勝利を得たことや、へびにかまれて死にそうになった者が救われた奇跡などによって、神がイスラエルと共におられることを彼らは見た。イスラエル人は、エドムの地を通ることを許されず、長く困難な紅海の道をたどることを余儀なくされたのであったが、エドム、モアブ、アンモンの地を通る旅と宿営を続けた間中、彼らは何の敵対心も示さず、その地の民と持ち物に何の危害も加えなかった。アモリ人の国境に来たとき、イスラエル人はこれまで他の国々と交渉のあった時に用いた同じ規則を守ることを約束して、ただ国の中をまっすぐに通過する許可を求めたのであった。アモリ人の王が、この礼を尽くした願いを退け、無礼にも戦いをいどんで軍勢を召集したとき、彼らの悪の杯は満ちた。神は今、彼らをくつがえすためにその力を発揮されるのであった。 PP 226.1

イスラエル人は、アルノン川を渡り、敵に向かって進んだ。イスラエル軍は彼らと戦って勝利した。その勢いに乗じて、彼らはまもなくアモリ人の国を占領した。神の民の敵を追い払われたのは、主の軍勢の将なる主であった。もし、イスラエル人が彼に信頼していたならば、彼は同じことを38年前にしてくださったはずであった。 PP 226.2

イスラエル軍は、希望と勇気に満ちてどんどん前進した。彼らはなお北方に進み、まもなく、彼らの勇気と神に対する信仰を試みるに足る1つの国に到着した。彼らの前には、強力で人口も多いバシャン王国があった。「町は60。……皆、高い石がきがあり、門があり、貫の木のある堅固な町であった。このほかに石がきのない町は、非常に多かった」(申命記3:1~11参照)。そこは、今日も世界の驚異となっている大きな石造りの町が群がっていた。家々は巨大な黒い石で造られ、その時代にそれを攻めるために用いられたどんな武力に対しても絶対に動かされないほどの巨大なものであった。その国土は、天然の洞穴、大絶壁、大きく開いた裂け目、岩の要塞にみちていた。この国の住民は、巨人族の子孫であって驚くほど大きく、力が強かった。また、暴力と残酷さは、はなはだしく、周囲のすべての国々から恐れられていた。国王オグは、巨人の国においてさえ、体格と武勇にきわだった存在であった。 PP 226.3

しかし、雲の柱は前へ進んだ。その導きに従ってヘブルの軍勢はエデレイに進んだ。そこに巨人の王は、軍勢を従えて彼らの近づくのを待っていた。オグは巧妙に戦いの場所を選んだ。エデレイの町は平原が急に高くなった高地のはずれにあって、でこぼこの火山岩でおおわれていた。そこに登るには、狭い曲がりくねった登りにくい道があるだけであった。負けた場合には、彼の軍隊はあの岩の荒野にかくれ場を見いだすことができ、外国人が彼らのあとを追うことは不可能であった。 PP 226.4

王は勝利を確信して、大軍を従えて平原に姿をあらわした。高台からは、神を汚すわめき声が聞こえ、勇みたった幾千の兵士のやりが見えた。ヘブル人が、その軍勢の中でもきわ立つ巨人中の巨人の雄姿を見、また、彼をとりまく軍勢を見、背後に幾千の軍勢をひかえた、一見、難攻不落のようなとりでを見たとき、イスラエルの多数の者の心は恐れで動揺した。しかし、モーセは冷静で落ちついていた。それは、主がバシャンの王についてこう言われたからである。「彼を恐れてはならない。わたしは彼と、そのすべての民と、その地をおまえの手に渡している。おまえはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように、彼にするであろう」(同3:2)。 PP 226.5

指導者の冷静な信仰は民の心に神に対する確信をいだかせた。彼らは、主の全能のみ腕にすべてを委ねた。そして主は彼らを見捨てられなかった。強力な巨人も、城壁のある町々も、武装した軍勢も、岩のとりでも、主の軍勢の将の前に立つことはできなか った。主は、軍を導かれた。主は、敵を散らされた。主は、イスラエルに勝利をもたらされた。巨人の王とその軍勢は敗北した。イスラエル人は、まもなく、その全土を手中におさめた。こうして悪と、憎むべき偶像礼拝を行っていた異邦の民族は、地からぬぐい去られた。 PP 226.6

ギレアデとバシャンを征服したとき、40年近く前、カデシにおいて、イスラエルが長い間砂漠を放浪する運命に定められた時のことを思い起こす者が多くあった。彼らは約束の地に関する斥候の報告が多くの点において正しいものであるのを知った。町々は城壁で囲まれ、非常に大きく、そこには巨人が住んでいて、それと比べるとヘブル人は小人にすぎなかった。しかし、今彼らは、彼らの父たちの重大な過失は、神のみ力に信頼しなかったことであったのに気づいた。ただこれだけが、彼らをすぐに良い地に入ることを妨げたのであった。 PP 227.1

彼らが、最初、カナンに入る準備をしていたときには、その企てに伴う困難は今回よりはるかに少なかった。もし、民が神のみ声に従ったならば、神が彼らに先だっていき、彼らのために戦うと約束されたのであった。また、その地の民を追い出すために、熊蜂を送ると約束された。国々の恐怖心はまだ広く行きわたっていなかったし、彼らの進軍を阻止する準備もなかった。しかし、主がイスラエルに前進を命じられた今は、目をさました強力な敵に向かって進まなければならず、彼らの進撃に備えて、武装を整えた大軍と戦わなければならなかった。 PP 227.2

民は、オグとシホンとの戦いにおいて、彼らの父親たちがみごとに失敗したのと同じ試練に出会った。しかし今、試練は神が以前にイスラエルに前進を命じられたときよりも、はるかにきびしかった。彼らが主のみ名によって前進することを命じられて、それを拒んで以来、彼らの道に横たわる困難は大いに増大した。こうして、神はなお、神の民を試みておられる。もし彼らが、その試みに耐えられないならば、神は彼らをふたたび同じ地点にもどされる。そして、2度目の試練は、以前のよりはきびしく苛酷なのである。このことは、彼らが試練に耐えるまで続くのである。もし、彼らがなおもそむくならば、神は、彼らから光を取り去り、彼らを暗黒の中に捨ておかれるのである。 PP 227.3

ヘブル人は、前に軍隊が戦いに出たときに敗北し、数千の者が殺されたことを思い出した。そのとき、彼らは神の命令に全く反対して出て行ったのであった。彼らは神が任命された指導者モーセも、神の臨在のしるしである雲の柱も、また契約の箱もないままで出陣したのであった。しかし、今は、モーセが彼らと共にいて、希望と信仰の言葉を語って彼らの心を強めた。神のみ子は雲の柱につつまれて彼らの道を導かれた。そして、清い箱は軍勢と共にあった。 PP 227.4

この経験は、われわれに教訓を与える。イスラエルの力ある神は、われわれの神である。われわれは彼に信頼することができる。もし、われわれがそのご要求に従うならば、神は、昔の民のためになされたのと同じ著しい方法で、われわれのために働かれるのである。義務の道をたどっていこうとする者は、だれでも、ときには疑いと不信の念をいだくことがある。その道は、一見、越せそうもない障害物で閉ざされているように思われ、気の弱い者を落胆させることがある。しかし、神はこう言われる。前進せよ。どんな価を払っても、あなたの義務を行いなさい。どのように恐ろしく見え、心を恐怖で満たすような困難でも、謙遜に、神に信頼して服従の道を前進するときに消え去るのである。 PP 227.5