人類のあけぼの

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第38章 エドムを回避して

本章は、民数記20:14~29、21:1~9に基づく PP 218.2

イスラエルが、カデシで宿営を張ったところは、エドムの国境からわずかの距離のところにあったので、モーセも民も、エドムを通って、約束の地に進みたいと切望した。そこで彼らは、神の指示のもとに、エドムの王に使者をつかわした。 PP 218.3

「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します、『あなたはわたしたちが遭遇したすべての患難をご存じです。わたしたちの先祖はエジプトに下って行って、わたしたちは年久しくエジプトに住んでいましたが、エジプトびとがわたしたちと、わたしたちの先祖を悩ましたので、わたしたちが主に呼ばわったとき、主はわたしたちの声を聞き、ひとりの天の使をつかわして、わたしたちをエジプトから導き出されました。わたしたちは今あなたの領地の端にあるカデシの町におります。どうぞ、わたしたちにあなたの国を通らせてください。わたしたちは畑もぶどう畑も通りません。また井戸の水も飲みません。ただ王の大路を通り、あなたの領地を過ぎるまでは右にも左にも曲りません』」(民数記20:14~17)。 PP 218.4

このていねいな依頼に対する返答は、おどしの言葉であった。「あなたはわたしの領地をとおってはなりません。さもないと、わたしはつるぎをもって出て、あなたに立ちむかうでしょう」(同20:18)。 PP 218.5

イスラエルの指導者たちは、この拒絶に驚いて、ふたたび願い出て、こう約束した。「わたしたちは大路を通ります。もしわたしたちとわたしたちの家畜とが、あなたの水を飲むことがあれば、その価を払います。わたしは徒歩で通るだけですから何事もないでしよう」(同20:19)。 PP 218.6

「あなたは通ることはなりません」というのが答えであった(同20:20)。困難な通路には、すでに、武器をもったエドムの軍隊が配置されていたので、その方向に、人々を安全に進めることは不可能であった。しかもヘブル人は、武力に訴えることを禁じられていた。彼らは、エドムの地を回避して、長い旅をしなければならなかった。 PP 218.7

もし、人々が試練にあったときに、神に信頼したならば、主の軍勢の将であられたお方は、彼らを導い てエドムを通られたことであろう。そして、まわりの国民たちは、彼らに恐れをいだき、敵意ではなくて、むしろ好意を示したことであろう。しかし、イスラエル人は、敏速に、神の言葉に従って行動しなかった。そして、彼らが、ぶつぶつ不平を言っている間に、絶好の機会は去ってしまった。やっと王に願い出る準備ができたときに、それは拒否されてしまった。彼らが、エジプトを去った時から、サタンは、絶えず彼らの道に妨害や誘惑を投げかけて、彼らに約束の地カナンを継がせないようにしていた。そして人々は、不信仰であったために、サタンの活動する道を開き、神の目的に逆らった。 PP 218.8

神の天使がわれわれのために働こうと待機している時に、神のみ言葉を信じて敏速に行動することは、重要なことである。悪天使はわれわれが前進することに戦いをいどんでくる。神の摂理が、神の子供たちに前進を命じ、彼らのために大いなることをしようとされるとき、サタンは、ためらいと遅延とによって、主を怒らせようと彼らを誘惑する。彼は、争いの精神をあおり、つぶやきや不信の念を起こさせ、こうして、神が与えようと望まれた祝福を奪い去ろうとするのである。神のしもべたちは、神の摂理によって、道が開かれる時には、即座に行動する義勇兵でなければならない。彼らのがわで時を延ばせば、それはサタンに彼らを滅ぼすために働く時間を与えることになる。 PP 219.1

エドム人は、イスラエルを恐れるであろうという宣言に続いて、エドムを通過することに関してモーセに最初に与えられた指示の中で、神は、神の民が、この有利な立場を利用することを禁じられた。イスラエルのために神の力が働き、エドム人は恐怖に襲われていたから、彼らを打ち負かすことは容易であった。しかし、ヘブル人は、彼らを襲撃してはならなかった。彼らは、こう命じられた。「それゆえ、あなたがたはみずから深く慎み、彼らと争ってはならない。彼らの地は、足の裏で踏むほどでも、あなたがたに与えないであろう。わたしがセイル山をエサウに与えて、領地とさせたからである」(申命記2:4、5)。エドム人は、アブラハムとイサクの子孫で、神は、これらの神のしもべたちのゆえに、エサウの子孫に恵みをお与えになった。神は、彼らに、セイル山を領土としてお与えになった。そして、彼らが罪を犯して、神の恵みの圏外に行ってしまうまで、彼らを妨害してはならなかった。ヘブル人は罪の升目を満たしたカナンの住民の土地を奪い、彼らを全滅させることになっていた。しかし、エドム人は、まだ猶予されていたので、そのように恵み深く彼らを扱わなければならなかった。神は、憐れみを喜ばれる。そして、刑罰を下すに先だって、慈悲をあらわされる。神は、カナンの住民を滅ぼすことを要求されるに先だって、エドムの人々を猶予することを、イスラエルに教えられる。 PP 219.2

エドムとイスラエルの先祖は、兄弟であった。であるから、兄弟の情けと礼儀がお互いの間にあるべきであった。イスラエル人は、国の中を通ることを拒否されて侮辱されたことの復讐を、そのときもまた将来も、してはならなかった。彼らは、エドムの地は、少しでも所有することを期待してはならなかった。イスラエル人は、神に恵まれた選民であったとはいえ、神が定められた制限に従わなければならなかった。神は、大きな嗣業を彼らに約束された。しかし、彼らだけが地の権利を所有しているように考えて、他の者をすべて押し出してはいけなかった。彼らは、エドム人とのすべての交渉に注意して、不正を行わないようにという指示が与えられた。また、必要な食糧の購入や彼らとの取引の際には、すぐに支払いをすべきであった。イスラエルが、神に信頼し、神のみ言葉に服従することを促すために、「あなたの神、主が、……あなたを恵み、……あなたは何も乏しいことがなかった」という言葉が彼らに語られた(同2:7)。彼らは、豊かな資源を持っておられる神を持っているのであるから、エドム人に依存してはならなかった。イスラエル人は、武力、または欺瞞的行為によって、彼らのどんな所有をも獲得しようとしてはならなかった。彼らは、すべての交渉において、「あなたを愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という神の律法の原則を実践しなければならなかった(マタイ22:39、ロ ーマ13:9、ガラテヤ5:14、レビ19:18参照)。 PP 219.3

もし彼らが、神のみこころに従って、こういう態度でエドムを通過したならば、それは、彼らばかりでなくてエドムの住民たちにも祝福となったことであろう。なぜなら、それは、神の民と神の礼拝に対する親しみを彼らに与え、ヤコブの神が、神を愛しおそれる者をいかに繁栄させられるかを目撃する機会を与えたからである。しかし、イスラエルの不信仰は、こうしたことをすべて妨げた。神は、人々の欲求に応じて水をお与えになったけれども、その不信仰の罰を彼らが受けることを許された。彼らは、ふたたび荒野へ引き返し、奇跡の泉からの水を飲んで、かわきをいやすことになるのであった。しかし、もし彼らが神に信頼していたならば、それはもはや不必要なことであった。 PP 220.1

したがって、イスラエルの群衆はふたたび南に向かい、エドムの山々や谷間に点在する緑地をながめたあとでは、なおさら、もの寂しく思われる不毛の荒地を進んでいった。この陰うつな荒野を見おろしている山々の峰のかなたにホル山がそびえていた。その頂上は、アロンの死と埋葬の場となるところであった。イスラエル人がこの山に到着したとき、神は、モーセにお命じになった。 PP 220.2

「あなたはアロンとその子エレアザルを連れてホル山に登り、アロンに衣服を脱がせて、それをその子エレアザルに着せなさい。アロンはそのところで死んで、その民に連なるであろう」(民数記20:25、26)。 PP 220.3

この老人2人と青年は、共に山の頂上によじ登った。120年の風雪に耐え、モーセとアロンの髪は雪のように白かった。彼らの長年の波乱に富んだ生涯は、人間に課せられた最も激しい試練に耐えるとともに、最も大きな栄誉に輝いたものであった。彼らは、生まれながらの豊かな才能の人であった。そして、彼らのすべての能力は、無限の神との交わりによって啓発され、高尚にされ、高貴なものにされたのである。彼らの生涯は、神と人間とに対する無我の活動のために費やされた。彼らの容貌は、その偉大な知力、堅固で高尚な目的、そして、激しい情熱をあらわしていた。 PP 220.4

モーセとアロンは、長年、その責任や労苦を共に負ってきた。彼らは、共に無数の危険に遭遇し、共に神の驚くべき祝福にあずかった。しかし、いまや2人が別れなければならない時が近づいた。彼らは、非常にゆっくり進んで行った。お互いが一緒にいる一瞬一瞬がたいせつなものだったのである。登り坂はけわしく、苦しいものであった。彼らは、たびたび立ち止まって休息することに、過去や未来のことを語り合った。彼らの前にはさまよい歩いた荒野の光景が、一面に広がっていた。眼下の平原にはイスラエルの群衆の宿営があった。選ばれた2人は、その生涯の大部分を彼らのために費やしたのである。そして、彼らの幸福を切に願って、大きな犠牲を払ってきた。エドムの山々の向こうに、約束の地への道が通じているのであった。しかし、モーセとアロンは、その祝福にあずかれないのであった。彼らの心に反抗的感情はなく、つぶやきの言葉も彼らの口からもれなかった。しかし、彼らを父祖たちの嗣業から除外したものが何であったかを彼らが思い出したとき、彼らの顔には、厳粛な悲しみがただようのであった。 PP 220.5

イスラエルのためになすべきアロンの仕事は終わった。40年の昔、神は重大な任務を負わせられたモーセと力を合わせるように、83歳の彼を召されたのである。彼は、兄弟と協力して、イスラエル人をエジプトから導き出した。彼は、ヘブルの軍勢がアマレクと戦ったとき、偉大な指導者の手を支えたのである。彼は、シナイ山に登り、神の臨在に近づき、神の栄光を見ることを許された。主は、アロンの家族を祭司の職務に任じ、アロンを大祭司の聖職に任じて、栄誉をお与えになった。神は、コラと彼の仲間を滅ぼして、刑罰の恐ろしさを示し、彼の聖職を支持された。疫病が止められたのは、アロンのとりなしによってであった。彼の2人のむすこが神の明白な命令を無視して殺された時も、彼は反抗もせず、つぶやきもしなかった。しかし、彼の高貴な生涯の記録に汚点がついた。アロンは、シナイで民の要求に屈して金の子牛を造り、悲しむべき罪を犯した。また彼は、ミリアムと共にモーセをねたみ、つぶやいて罪を犯した。 彼は、カデシにおいて岩に命じて水を出させるべきときに、モーセと共に命令にそむいて主の怒りをこうむった。 PP 220.6

神は、神の民のこの偉大な指導者たちが、キリストの代表者であることを望まれた。アロンは、胸にイスラエルの名をかけていた。彼は、神のみこころを人々に伝えた。彼は、贖罪の日に、すべてのイスラエルの会衆の仲保者として至聖所に入り、「血をたずさえないで行くことはな」かった(ヘブル9:7)。キリストが、民のための贖罪のわざを終えて、彼を待っている民を祝福するためにおいでになるように、アロンは務めを終えて、会衆を祝福するために出て来るのであった。われわれの大祭司の代表としての聖職が崇高な性質のものであったことが、カデシにおけるアロンの罪をきわめて大きなものとしたのである。 PP 221.1

モーセは深い悲しみに沈みながら、アロンの清い衣服を脱がせて、エレアザルに着せた。こうして、エレアザルは、神の命令によってアロンの後継者になった。アロンは、カデシでの罪のために、カナンで神の大祭司の務めを行う特権を失った。彼は、約束の地で最初の犠牲をささげ、イスラエルの嗣業を聖別することができなかったのである。モーセは、民を国境まで導く責任を続いてになわなければならなかった。彼は、約束の国が見えるところまで来るのであったが、なかに入ることはできなかった。これらの神のしもべたちがカデシの岩の前に立ったときに、遭遇した試練につぶやくことなく耐え得たならば、彼らの将来はどんなに変わったことであろうか。1つのまちがった行為は、二度と元にもどすことができない。一瞬の誘惑、または、無分別によって失われたものは、一生かかってもとり返すことができない。 PP 221.2

2人の大指導者が宿営からいなくなり、アロンの聖職の後継者と一般に認められていたエレアザルが同行したということは、人々にある種の不安感を与えた。そして、民は、憂慮して彼らの帰還を待ったのである。民が周囲の大群衆を見わたしたときに、エジプトを出た大人のほとんどが、荒野で死んでしまったことに気づいた。一同は、モーセとアロンに与えられた宣告を思い出し、不吉な予感に襲われた。ホル山頂への神秘的な旅の目的に気づいた者もあって、苦い思い出と自責の念にかられて、彼らの指導者たちの身の上を案じていた。 PP 221.3

ついに、モーセとエレアザルがゆっくりと山をおりてくる姿が現れた。しかし、アロンは彼らと一緒にいなかった。エレアザルは、祭司服を身にまとい、父の聖職を受け継いだことを示していた。人々は悲しみながら指導者のまわりに集まってきた。モーセは、アロンがホル山上で彼の腕に抱かれて死んだことと、彼らが、彼をそこに葬ってきたことを告げた。会衆は声をあげて嘆き悲しんだ。彼らは何度もアロンを悲しませたけれども、みなアロンを愛していたのである。「イスラエルの全家は30日の間アロンのために泣いた」(民数記20:29)。 PP 221.4

イスラエルの大祭司の埋葬に関して、聖書は簡単に、「アロンはその所で死んでそこに葬られ」た、と記録しているだけである(申命記10:6)。神の明白な命令のもとに行われたこの埋葬と今日の習慣とは、なんと著しく異なっていることであろう。現代、高い地位の人の葬式は、虚飾と度を越した誇示の場となっている。世界最大の人物のひとりであったアロンが死んだ時には、彼の近親の友が2人、彼の死を見守り、埋葬に列しただけであった。そして、ホル山上のあのものさびしい墓は、永久にイスラエルの目から隠されたのである。死者のためには、とかく大げさな行事が行われ、彼らの肉体を土に帰らせるのに多額の費用がかけられるが、それは、神をあがめることにはならない。 PP 221.5

全会衆は、アロンのために悲しんだ。しかし、彼らはモーセがどれほど心を痛めたかを知ることはできなかった。モーセは、アロンの死によって、自分自身の生涯の終わりが近づいたことを痛感させられた。彼の地上の生涯はあとわずかしかないのであったが、長年、喜びや悲しみ、また希望や恐れなどを共に分かちあった忠実な友を失ったことを彼は悲しんだ。モーセは、1人で仕事を続けなければならなかった。しかし、彼は、神が自分の友であられることを知り、な おいっそう神によりすがったのである。 PP 221.6

ホル山を去ってから間もなくして、イスラエル人は、カナンの王の1人のアラドと戦って敗北した。しかし彼らは、熱心に神の助けを祈り求めたので、神からの援助が与えられて敵を追い返すことができた。ところが、この勝利は、人々に感謝の気持ちと、神に依存していることを感じさせるかわりに、高慢と自尊の精神をいだかせた。やがて彼らは、以前の習慣にもどってつぶやいた。約40年前、斥候たちの報告を聞いて反逆を起こした後、すぐにカナンにイスラエルの軍勢を進軍させることを許されなかったことを、今、彼らは不満に感じたのである。彼らは、現在と同様に、これまでにも敵を征服することができたかも知れなかったと考え、荒野の放浪は不必要な遅延であったと言った。 PP 222.1

彼らが南に向かって旅を続けたとき、行く手には、緑も、影もない熱い砂の渓谷が横たわっていた。道は長くけわしく思われ、彼らは、疲労とかわきに悩まされた。ふたたび彼らは、信仰と忍耐の試練に耐えることができなかった。彼らは、自分たちの経験の暗い面ばかりをながめて、ますます神から遠ざかった。もし、カデシで水が止まった時に、つぶやきさえしなかったならば、エドムを迂回して旅をしなくてもよかったであろうということに、彼らは気づかなかった。神は、彼らのために、もっとすぐれたことを計画しておられた。彼らは、自分たちの罪に対する神の罰が軽かったことを、神に感謝すべきであった。しかし、彼らはそうしないで、もし神やモーセが妨害しなかったならば、今ごろは、約束の国を所有していたことであろうとうぬぼれた。彼ら自身で問題を引き起こして、自分たちの運命を神のご計画よりもはるかに困難なものにしながら、彼らの不運をすべて神のせいにした。こうして、彼らは、自分たちに対する神の取り扱いに不平をいだき、ついにはすべてのことに不満をいだくようになった。自由と、神が導き入れようとしておられる国よりも、エジプトのほうがはるかに輝かしく好ましく思われるのであった。 PP 222.2

イスラエルの人々は、不満をいだき、彼らの受けた祝福に対してさえ不平を言うようになった。「民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、『あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました』」(民数記21:5)。 PP 222.3

モーセは、忠実に彼らの罪の大きさをさし示した。「あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない」ところで彼らを守ることのできたのは、神の力だけであった(申命記8:15)。彼らは旅の間じゅう、毎日、神のあわれみ深い奇跡によって守護されていたのであった。彼らは、神が導かれるすべての道において、かわきをいやす水や、飢えを満たす天からのパンが与えられた。そして、昼は雲のかげ、夜は火の柱に守られて平和と安全が保たれた。彼らが岩山に登る時も、荒野のけわしい道をぬって進む時も、天使は彼らを守っていた。さまざまな困難にあったにもかかわらず彼らのあらゆる隊列のなかに1人の弱い者もなかった。彼らの足は、長い旅の間はれることもなく、彼らの衣服も古びなかったのである。神は、彼らの先に立って森林や砂漠の猛獣と毒へびとを制御せられた。こうした神の愛のあらゆる証拠を見ながらもなお、人々がつぶやき続けるならば、主は、彼らが神のあわれみ深い保護を感謝し、悔い改めて、心を低くして神のもとに帰ってくるまで、神の保護を差しひかえられるのである。 PP 222.4

彼らは、神の力に保護されていたために、彼らを常に取り囲んでいた無数の危険に気づかなかったのである。彼らは、忘恩と不信のうちに死んでしまうと思っていた。そこで、主は、彼らに死がのぞむことをお許しになった。荒野にはびこっていた毒へびは、それにかまれると激しい炎症を起こして死ぬので、火のへびと呼ばれていた。神の保護のみ手がイスラエルから取り除かれると、多くの人々が毒へびにかまれた。 PP 222.5

こうして、宿営全体が恐怖と混乱に陥った。すでに死んだ人や、死にかけた人がどの天幕にも出た。誰1人安全ではなかった。時おり、新しい犠牲者が出たことを示す激しい叫びが、夜の静けさを破った。 すべての者は患者の看護をしたり、あるいは、まだかまれていない者たちを保護しようとしたりして必死に努めていた。いま、彼らのくちびるからは、つぶやきの言葉は漏れなかった。今の苦痛と比べるならば、これまでの彼らの困難や試練は、全くとるに足りないもののように思われた。 PP 222.6

人々は、今、神のみ前にへりくだった。彼らは、モーセのところに来て告白し、嘆願して言った。「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました」(民数記21:7)。人々は、ついさきほどまで、モーセを彼らの最悪の敵とし、彼らのすべての困難と苦難の原因であると攻撃した。しかし、そういうことを言うやいなや、その非難が誤っているのに気づいた。真の苦難に当面したとき、彼らは、神にとりなすことができるただ1人の人、モーセのところに来た。「どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」と彼らは叫んだ(同節)。 PP 223.1

モーセは、本物に似せて青銅のへびを作り、それを人々のなかにかかげるようにという命令を神から受けた。かまれた者は、すべて、このへびを見上げて助かるのであった。彼は言われたとおりにした。そして、かまれた者は、みな、青銅のへびを見上げよ、そうすれば救われる、という喜ばしい知らせが宿営中にひびきわたった。すでに死んだ者も多かった。そして、モーセがへびをさおの上にかかげたとき、青銅のへびの像を見上げただけでいやされるということを信じようとしない者もあった。そのような人は、不信仰のために滅びた。しかし、神が用意されたものを信じた者も多かった。父親、母親、兄弟、姉妹たちが、なんとかして苦しむ肉親の者や、瀕死の友人たちの生気のない目をへびに向けさせようと努めた。たとえどんなに弱り果てて、死にそうになっていても、もし彼らが一目でも見ることができれば、完全に癒されるのであった。 PP 223.2

人々は、それを見上げる者にこうした変化を起こさせる力が、青銅のへびにはないことをよく知っていた。癒しの力は、神からだけ来るものであった。知恵に富まれる神は、このような方法によって、ご自分の力をあらわされた。この簡単な方法によって、この苦難が、自分たちの罪のために起こったことを人々はさとらされた。それと共に、神に服従するならば、何も恐れることはないという保証が与えられたのである。なぜなら、神は、彼らを守られるからであった。 PP 223.3

青銅のへびを掲げたことは、イスラエルに重大な教訓を教えるためであった。彼らは、その致命傷から自分を救うことができなかった。ただ神だけが彼らを癒すことがおできであった。しかし、彼らには、神がお備えになった方法に、信仰を表明することが要求された。生きるためには、見なければならなかった。神がお受けになったのは彼らの信仰であった。そして、へびを見ることによって彼らの信仰が表された。へびそのものにはなんの力もなく、それがキリストの象徴であったことを、彼らは知っていた。こうして、キリストの功績に信仰をいだく必要が彼らに示された。これまで多くの者が神に捧げ物を携えてきて、それで自分たちの罪の贖いを十分にしたと考えていた。彼らは、やがて来られる贖い主に頼らなかった。こうした捧げ物は贖い主の象徴に過ぎなかった。彼らの捧げ物は、ただそれだけでは、青銅のへび以上に何の力も功績もないもので、それは、へびと同様に、偉大な罪祭であられるキリストに、彼らの心を向けるためだけのものであることを、主は、ここに教えようとなさった。 PP 223.4

「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14、15)。この地上に生を受けた者はみな、「悪魔とか、サタンとか呼ばれ」た「年を経たへび」の毒牙にかまれた(黙示録12:9)。罪の致命的結果は、神がお備えになった方法によってのみ除くことができる。イスラエルの人々は、上げられたへびを見ることによって救われた。こうしてながめたことは、信仰を意味していた。彼らは神の言葉を信じ、神が彼らの回復のためにお備えになった方法に信頼したから、生きたのである。そのように、罪人は、キリストを 仰ぎ見て生きることができる。罪人は、贖罪の犠牲を信じる信仰によって赦しを受ける。命のない動かないへびとは違って、キリストは悔い改める罪人をいやす力と功績を、ご自身のうちに持っておられる。 PP 223.5

罪人は、自分自身を救うことはできない。しかし、救いを得るためには、彼のなすべきことがある。「わたしに来る者を決して拒みはしない」とキリストは言われる(ヨハネ6:37)。われわれは、彼のところに来なければならない。そして、罪を悔い改めるときに、キリストはわれわれを受け入れ、赦してくださることを信じなければならない。信仰は神の賜物である。しかし、信仰を働かせる力は、われわれに与えられている。信仰は神の恵みとあわれみの招待を、魂が把握する手である。 PP 224.1

われわれを恵みの契約の祝福にあずからせるのは、キリストの義にほかならない。これらの祝福にあずかろうと長く望んで努力した者が多くあったが、受けることができなかった。というのは、何かをすることによって自分たちをその恵みにあずかる価値のあるものにすることができるという考えを、彼らがいだいていたからである。彼らは、イエスが満ちあふれる力をもった救い主であることを信じて、自分から目を離すことをしなかった。われわれは、自分たち自身の功績が、われわれを救うと考えてはならない。キリストが、われわれの救いの唯一の希望である。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)。 PP 224.2

われわれが神に全く信頼し、罪をお赦しになる救い主としてイエスの功績によりたのむならば、希望するすべての助けを受けることができる。あたかも自分自身を救う力が自分にあるかのように、自分をながめないことにしよう。われわれには、そうする力が全くないのであるから、イエスは、われわれのために死なれた。彼のうちにわれわれの希望、われわれの義、われわれの正義がある。われわれは、自分たちの罪深さを見て失望し、自分たちには救い主がないとか、主は、われわれをあわれんでくださらないと考えて、恐れてはならない。彼は、今という今、われわれが力のないままの姿で主に近づき、救われるようにと招いておられる。 PP 224.3

天の神がお定めになった癒しの方法に、何の価値も認めなかったイスラエル人が多くあった。彼らのまわりには、すでに死んだ人や死にかけた人々が、一面に横たわっていた。そして、神の助けがなければ、彼ら自身の運命がどうなるかも明らかであった。彼らには、癒しが瞬間的に与えられるのであったが、彼らは、その傷の痛みと、刻々と迫ってくる死とを悲しみ続け、ついに、その力はつき果て、目は光を失った。もし、われわれが自分の必要を感じたならば、そのことを悲しんでばかりいてはならない。キリストがなければ自分たちはどんなに無力であるかを自覚しても失望することなく、十字架につけられ復活なさった救い主の功績に頼らなければならない。見よう、そして、生きよう。イエスは、約束なさった。イエスは、彼に来るすべての者をお救いになる。癒しを受けるべき幾百万の人々が、イエスの憐れみの招きを拒んだとしても、イエスの功績に頼る者は、1人も滅びることはない。 PP 224.4

救いの計画の神秘が、ことごとく明らかにされるのでなければ、キリストを受け入れようとしない者が多い。すでに幾千という多くの人々が、キリストの十字架をながめ、そして、ながめることによって力を得たことを知っていながらも、彼らは、信仰をもって見ようとしない。多くの者は、哲学の迷路にさまよい、理由や証拠を発見しようとするが見つからない。彼らは、神がお与えになった証拠を拒んでいる。彼らは、義の太陽の輝きの理由が説明されるまでは、その光の中を歩こうとしない。このようなかたくなな人はみな、真理の知識を得ることはできない。神は、疑惑の種を全部取り去ってしまわれない。神は信仰を持つだけの十分な証拠をお与えになる。そして、人がそれを受け入れなければ、人の心は暗黒に閉ざされる。もしも、へびにかまれた人々が、見ることを承知する前に、疑ったり質問したりしていたならば、彼らは死んでしまったことであろう。まず見ることがわれわれ の義務である。そして、信仰をもって見ることが、われわれに命を与えるのである。 PP 224.5