人類のあけぼの
第37章 打たれた岩
本章は、民数記20:1~13に基づく PP 213.1
荒野におけるイスラエル人のかわきを癒した泉の水は、まず、最初にホレブの打たれた岩から流れ出た。彼らが、放浪していた全期間を通じて、必要な場合は、どんなところでも、神の憐れみ深い奇跡が行われて、水が供給された。しかし、水は、ホレブからいつまでも流れ出ていたのではなかった。彼らの旅の途中で、水が必要なときには、どこでも宿営のそばの岩の裂け目から水がわき出た。 PP 213.2
清水をイスラエルのために流れ出させたのは、キリストが、ご自分のみことばによってなさったのである。「彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない」(Ⅰコリント10:4)、彼は、霊的祝福と同様に、すべての物質的祝福の源である。真の岩なるキリストは、彼らの放浪期間を通じて、彼らと共におられたのである。「主が彼らを導いて、さばくを通らせられたとき、彼らは、かわいたことがなかった。主は彼らのために岩から水を流れさせ、また岩を裂かれると、水がほとばしり出た」「かわいた地に川のように流れた」(イザヤ48:21、詩篇105:41)。 PP 213.3
打たれた岩は、キリストの型で、この象徴によって、最も尊い霊的真理が教えられた。打たれた岩から生命を与える水が流れ出たように、「神にたたかれ」「われわれのとがのために傷つけられ」「われわれの不義のために砕かれた」キリストから、失われた人類のための救いの川が流れ出たのである(イザヤ53:4、5)。岩が1度打たれたように、キリストも「多くの人の罪を負うために、1度だけご自身をささげられた」のである(ヘブル9:28)。われわれの救い主は、二度と犠牲になられるべきではなかった。キリストの恵みの祝福を求める者は、悔い改めて、主のみ名によって、心の願いを述べるだけでよいのである。こうした祈りは、イエスのみ傷を万軍の主のみ前にもたらし、新たにもう一度、生命を与える血潮を流れさせるのである。イスラエルのために岩から水が流れ出たことによって、それが象徴されていたのである。 PP 213.4
荒野で岩から水が流れ出たことは、イスラエルがカナンに定住したのちも、非常な喜びをもって祝われた。キリストの在世当時、この祝日は、最も感銘的な儀式となっていた。それは、各地からエルサレムに人々が集まってくるときに行われた仮庵の祭りとともに祝われた。祭司は、毎日、祭りの7日間を通じて、音楽を奏する者とレビ人の合唱隊を伴ってシロアムの泉に行き、そこで金の1つの容器に水をくむのであった。礼拝に集まった群衆は、彼らのあとに従った。そして、泉に近づくことのできる者はみなその水を飲んだ。「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ」と喜ばしい歌声があがるのであった(イザヤ12:3)。それから、祭司の手でくまれた水は、ラッパの響きと、「エルサレムよ、われらの足はあなたの門のうちに立っている」という歌声のなかを、宮までたずさえられた(詩篇122:2)。そして、賛美の歌声が高まり、群衆が、楽器と荘重なラッパの音に和して高らかに歌う合唱隊に加わって歌っているとき、その水は、燔祭の壇の上に注がれた。 PP 213.5
救い主は、この象徴的儀式によって、ご自分が彼らのためにもたらされた祝福に彼らの心を向けようとされた。「祭の終りの大事な日に」イエスは、宮の庭に響き渡る大声で言われた。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」「これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである」とヨハネは言った(ヨハネ7:37~39)。かわききった荒野にわき出て、荒れ果てた地に花を咲かせ、死にかけた者に生命を与えるために流れ出た新鮮な水は、キリストだけが与え得る神の恵みの象徴である。これは、命の水のように魂を清め、生きかえらせ、力づける。キリストが内住しておられる者のうちには、つきない恵みと力の泉がある。イエスは、 真心から彼を求めるすべての者の生活を楽しくし、その道を照らしてくださる。イエスの愛を心に受け入れるならば、それは、永遠の命に至るよいわざとなってわき出る。それは、泉がわき出た魂を祝福するばかりでなくて、その牛きた水は、正しい言葉や行為となってわき出て、周りにいるかわいた人々をうるおすのである。 PP 213.6
キリストは、この同じ象徴を、ヤコブの井戸のそばでサマリヤの女と語られたときに用いられた。「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)。キリストは、2つの型を結合された。彼は、岩であり、生きた水である。 PP 214.1
この同じ美しく意味深い象徴が、聖書全体に用いられている。キリストが来られる幾世紀も以前に、モーセは彼を救いの岩としてさし示した(申命記32:15参照)。詩篇記者は、彼のことを、「わがあがないぬし」「わが力の岩」「わたしの及びがたいほどの高い岩」「のがれの岩」「わが心の力」「わが避け所の岩」と歌っている。ダビデの詩のなかで、神の恵みは、天の羊飼いが、その群れを導かれるみどりの牧場の中の冷たい「いこいのみぎわ」としても描かれている。また、「あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。いのちの泉はあなたのもとにあり」と彼は歌った(詩篇19:14、62:7、61:2、71:3、73:26、94:22、23:2、36:8、9)。賢者ソロモンは、「知恵の泉は、わいて流れる川である」と言った(箴言18:4)。エレミヤにとって、キリストは、「生ける水の源」であり、ゼカリヤにとっては、「罪と汚れとを清める1つの泉」であった(エレミヤ2:13、ゼカリヤ13:1)。 PP 214.2
イザヤは、キリストを描写して、「とこしえの岩」また「疲れた地にある大きな岩の陰のよう」であると言った(イザヤ26:4、32:2)。彼は、尊い約束を記録し、イスラエルのために流れた生きた水のことを、まざまざと思い起こさせている。「貧しい者と乏しい者とは水を求めても、水がなく、その舌がかわいて焼けているとき、主なるわたしは彼らに答える、イスラエルの神なるわたしは彼らを捨てることがない」「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ」「……荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである」「さあ、かわいている者はみな水にきたれ」との招待が発せられている(イザヤ41:17、44:3、35:6、55:1)。また、聖書の終わりのほうでも、この招待がくり返されている。生命の水の流れは、「水晶のように輝」き、神と小羊のみ座から流れ出ている。「いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」という恵み深い招声は、各時代を通じて響きわたっているのである(黙示録22:1、17)。 PP 214.3
ヘブルの軍勢がカデシに到着する少し前に、宿営の外にわいていた泉の水が枯れた。主は、もう一度、人々を試みようとなさったのである。彼らが、神の摂理に信頼するか、それとも、父祖たちの不信仰をまねるかどうかをためそうとされた。 PP 214.4
彼らは、すでに、カナンの山々の見えるところにきていた。彼らは、あと数日の行進で約束の国の境に着くことができた。彼らは、エサウの子孫の国であるエドムから少し離れたところにいた。そして、カナンへの道はそこを通っていた。モーセに次のような指示が与えられた。「身をめぐらせて北に進みなさい。おまえはまた民に命じて言え、『あなたがたは、エサウの子孫、すなわちセイルに住んでいるあなたがたの兄弟の領内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。……あなたがたは彼らから金で食物を買って食べ、また金で水を買って飲まなければならない』」(申命記2:3~6)。このような指示が与えられたことによって、水が枯れた理由が十分に説明されたはずであった。彼らは、よく肥えた、水の豊富な地帯を通って、カナンに直行しようとしていた。神は、彼らが、何にも妨げられずに、エドムを通過し、食物を買う機会と、群衆のために十分な水とを約束しておられた。奇跡的な水の流出が止まったことは喜ぶべきことで、荒野の放浪が終わったしるしであった。もし彼らが不信仰のために盲目になって いなかったならば、このことを理解したはずであった。しかし、神の約束の成就の証拠となるべきことが、疑いとつぶやきの原因となった。人々は、神が彼らにカナンをお与えになるという希望を全く捨ててしまったようであった。そして、彼らは、荒野の祝福を求めてやまなかったのである。 PP 214.5
神が、人々をカナンに入国させる前に、人々は、神の約束を信じたことを示さなければならなかった。彼らがエドムに到着する前に水は止まった。彼らは、しばらくの間、見るところによらず、信仰によって歩かなければならなかったのである。彼らは、この第一の試練にあって、父祖たちと同じ狂暴で忘恩の精神をあらわした。宿営内で水を求める声があがるやいなや、彼らは、長年彼らの必要を満たしたみ手を忘れて、神に助けを求めるかわりに、神に向かってつぶやいた。彼らは、絶望の叫びをあげて、「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを」と言った(民数記20:3)。それは、コラの反逆のときに滅ぼされた人々の中に、自分たちも入っていればよかったと望んだことである。 PP 215.1
彼らの叫びは、モーセとアロンに向けられたものであった。「なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」(同20:4、5)。 PP 215.2
そこで、指導者たちは幕屋の入口に行って地にひれ伏した。ふたたび、「主の栄光が……現れ」、主は、モーセに指示をお与えになった。「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出」させなさい(同20:6、8)。 PP 215.3
2人の兄弟は、群衆の前に出て行った。モーセは、神のつえを手に持っていた。彼らは、もう老人であった。彼らは、長い間、イスラエルの強情と反抗に耐えてきた。だが、ついに、モーセは忍耐しきれなかった。「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」と叫んで、モーセは神の命令に従って岩に命じるかわりに、つえで岩を2度も打ったのである(同20:10)。 PP 215.4
水は豊かにわき出て、群衆を満足させた。しかし、大きなあやまちがなされた。モーセは、短気を起こして語った。彼の言葉は、神のみ栄えが汚されたことに対する義憤からではなくて、人間の感情の表現であった。彼は「そむく人たちよ、聞きなさい」と言った。この譴責の言葉は事実であった。しかし、真実でさえも、感情的になり、短気を起こして語るべきではない。神がかつてイスラエルの反逆を責めるようにモーセに命じられたとき、その言葉は、彼にとっては苦痛であり、彼らにも耐えがたいものであった。しかし、神は彼を支えて、その言葉を語る力をお与えになったのである。しかし、彼が自分で彼らを責めようとしたとき、彼は、神の霊を悲しませ、民に害毒を及ぼしただけであった。彼が忍耐と自制を欠いたことは明らかであった。こうして、これはモーセのこれまでの行動が神の指導のもとにあったかどうかを人々に疑わせ、彼ら自身の罪の弁解をする機会を与えた。民と同様に、モーセも神を怒らせた。彼の行動は、最初から、批評非難の的であったと彼らは言った。今や彼らは、そのしもべによって語られた神のすべての譴責を拒もうとして待機していた口実を見つけたのである。 PP 215.5
モーセは、神に対する不信をあらわした。「われわれがあなたがたのために……水を出さなければならないのであろうか」と彼は言って、主が約束を果たされないかのように尋ねた。「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかった」と主は2人の兄弟に言われた(同20:12)。水が枯れ、人々がつぶやき反抗したときに、神の約束に対する彼ら自身の信仰は動揺した。親たちは、不信仰のために荒野で滅びる運命にあったが、彼らと同じ精神が子供たちにもあらわれた。彼らも約束を受けそこなうのであろうか。疲れ果て、 意気消沈したモーセとアロンは、人々の間にゆきわたった考えを止めようと努力しなかった。もし彼らが神に対する不動の信仰をいだいていることを明らかにし、人々に事情をよく説明したならば、彼らがこの試練に耐えられるようにすることができたことであろう。行政官として、彼らに与えられた権限を敏速に、決断をもって行使したならば、彼らは、つぶやきをしずめることができたかも知れなかった。神に援助を仰ぐ前に、自分たちの最善を尽くして、事態を収拾することが彼らの責任であった。カデシにおける不平がすみやかにしずめられていたならば、どれほどの害毒が防がれたことであろう。 PP 215.6
モーセは、性急な行動によって、神が教えようとされた教訓の効果を無にしてしまった。キリストを象徴した岩は、1度打たれたのである。そのように、キリストは1度ささげられたのであった。2度目には、ただ岩に命じるだけでよかったのである。それは、われわれがイエスの名によって、祝福を求めさえすればよいのと同じである。岩を2度打つことによって、この美しいキリストの象徴の意味がなくなってしまった。 PP 216.1
それだけでなく、モーセとアロンは、ただ神だけに属する力を我が物顔に装った。神の介入が必要であるということは、非常に厳粛な事態であった。イスラエルの指導者たちは、これを機会に人々の敬神の念を助長し、神の力と恵みに対する信仰を強めなければならなかった。「われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」と彼らは、怒って叫んだ。彼らは人間的弱さと情をもった彼ら自身にその力があるかのようにふるまい、自分たちを神の位置においたのである。モーセは、絶えず、つぶやき反抗する民に疲れ果てて、全能者なる神が彼の援助者であられることを忘れた。そして、彼は、神の力を受けることをせずに、人間の弱さをあらわして、彼の記録に汚点を残したのである。彼は、仕事を完成するまで、純潔、堅実、無我の精神を保つことができたのであるが、ついに敗北した。神は賛美され、高められなければならない時に、イスラエルの会衆の前で、恥辱をこうむられたのである。 PP 216.2
神は、この場合、その悪行によってモーセとアロンを怒らせた人々に罪の宣告をなさらなかった。譴責は、すべて指導者に下った。神の代表者が、神を尊ばなかった。モーセとアロンは、民のつぶやきが、彼らに対してではなく、神に対して行われたものであることを忘れて、人々が彼ら自身につぶやいていると感じた。彼らは、自分自身をながめて、自分たちを哀れに思い、無意識のうちに罪を犯し、神の前における人々の大きな罪を、彼らに示すことをしなかった。 PP 216.3
非常にきびしく、屈辱的な刑罰がすぐに宣告された。「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」(同20:12)。彼らは、ヨルダンを渡る前に、反抗的なイスラエルと共に死ななければならなかった。もし、モーセとアロンが自尊心をいだいたり、神の警告と譴責に対して怒りをいだいたりしたならば、彼らの罪はさらに大きくなったことであろう。しかし、彼らは、故意、または、計画的な罪を犯したのではなかったから、その責めは受けなかった。彼らは、突然の誘惑に負けたのであって、それをすぐに心から悔い改めたのである。主は、彼らの悔い改めを受け入れられた。しかし、彼らの罪が民の間におよぼす害を考えられた時に、刑罰を免じることはおできにならなかった。 PP 216.4
モーセは、自分に下った宣告を隠そうとしなかった。彼は、神に栄光を帰さなかったために、彼らを約束の国に導くことができないことを人々に告げた。彼は、自分の上に下ったきびしい刑罰に注目することを人々に命じた。そして、彼らが自分自身の罪によって招いた刑罰を、単なる人間のせいにしてつぶやいたことを、神がどうみなされるかをよく考えるようにとモーセは言った。 PP 216.5
彼は、また、神にその宣告の取り消しを嘆願したが、拒否されたことを彼らに告げた。「主はあなたがたのゆえにわたしを怒り、わたしに聞かれなかった」と言った(申命記3:26)。 PP 216.6
イスラエルの人々は、困難や試練にあった時には、 いつでも神がそのことに無関係であって、モーセが彼らをエジプトから導きだしたと非難するのであった。彼らがその放浪期間を通じて、旅の苦難についてつぶやき、指導者に不平を言ったとき、モーセは、「あなたがたのつぶやきは、神に対するものである。あなたを救われたのは、わたしではなくて、神である」と言うのであった。しかし、「われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないの」か、と彼が岩の前で早まって言った時に、彼は、人々の非難を事実上承認したことになった。こうして、彼らの不信をますます強め、彼らのつぶやきを正当化したことになったのである。主は、こうした印象を人々の心から永久に取り除くために、モーセが約束の地にはいることを禁じられたのである。彼らの指導者は、モーセではなく、偉大な天使であられたというまちがいのない証拠が与えられた。主は、彼についてこう言われた。「見よ、わたしは使をあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所に導かせるであろう。あなたはその前に慎み、その言葉に聞き従い(なさい)……わたしの名が彼のうちにあるゆえに」(出エジプト23:20~21)。 PP 216.7
「主は、あなたがたのゆえに、わたしを怒られた」とモーセは言った。全イスラエルの目はモーセに向けられた。そして、彼の罪は、彼を神の民の指導者として選ばれた神の名誉を傷つけた。彼の罪は、全会衆に知れわたった。もし、それが軽々しく扱われたとすれば、責任の地位にある者が激しく試みられた場合ならば、不信仰も短気も赦されるのであるという印象が残ったことであろう。しかし、1つの罪のために、モーセとアロンがカナンに入国できないと宣告されたときに、人々は、神が人をかたよりみるかたでなく、罪を犯す者を必ず罰せられるかたであることを知ったのである。 PP 217.1
イスラエルの歴史は、後世の人々の警告と教訓のために記録されなければならなかった。未来のすべての人々は、天の神が、公平な支配者で、どんな場合でも罪を正当化なさらないかたであることを知らなければならない。しかし、罪が、どんなにはなはだしい害毒を及ぼすものであるかを認める者は少ない。神は非常に恵み深いから、罪人を罰せられないと、人間は、自分かってな考えをいだくものである。しかし、聖書の歴史に照らしてみれば、恵みと愛の神は、罪を、宇宙の平和と幸福を破壊する致命的悪として処理されることが明白である。 PP 217.2
モーセのあの誠実さと忠実さをもってしても、彼のあやまちに対する懲罰を避けることはできなかった。神は人々の大きな罪をお赦しになったのであるが、指導者の罪は、指導される者の罪と同一に扱うことはできなかった。神は、地上のいかなる人よりも、モーセを尊ばれた。神は、ご自分の栄光を彼にあらわされた。また、彼によって、神の戒めをイスラエルに伝達されたのである。モーセが、大きな光と知識を与えられていたことが、彼の罪をさらに重いものにした。過去の忠誠も、1つの誤った行為の償いにならない。人に与えられた光と特権が大きければ大きいほど、その責任も大きくなり、その失敗がはなはだしければはなはだしいほど、刑罰も重くなるのである。 PP 217.3
モーセは、人々が考えるほどの重罪を犯したわけではなかった。彼の罪は、普通一般のものであった。詩篇記者は、「彼がそのくちびるで軽卒なことを言ったからである」と言った(詩篇106:33)。人間の判断では、これはささいなことに思われるであろう。しかし、もし神が、ご自分の最も忠実で尊ばれたしもべの罪に対してこれほどきびしい処置を取られたのであれば、他の者の罪も赦されないことであろう。自己高揚の精神、兄弟たちを非難する意向を、神はお喜びにならない。こうした悪にふける者は、神のみわざに疑惑を投げかけ、懐疑論者の不信に対するよい口実を与えるのである。人間の地位が重要であればあるほど、その感化は大きい。であるから、それだけで、忍耐と謙遜を養う必要も大きいのである。 PP 217.4
神の子供たち、特に責任の地位に立つ人が、神に帰すべき栄光を自分に帰したりするならば、サタンが狂喜するのである。サタンは勝利したのである。サタンも、こうして堕落した。彼は、こうして実に巧みに他の者を堕落させる。神は、われわれが彼の策略 に警戒するために神のみ言葉のなかに、自己高揚の危険に関する教訓を数多くお与えになったのである。われわれの心の衝動、思考能力、性質などは、一瞬でも神の霊の支配下になくてもよいものはない。もし、ほんの少しのすきでも与えるならば、サタンは、神が人にお与えになる祝福、または、神の許しのもとに臨む試練などを利用して、人間を試み、苦難を与え、滅ぼそうとするのである。であるから、その人の霊的光がどんなに大きくても、また、どんなに神の恵みと祝福にあずかっていても、常に主の前に謙遜に歩み、神がすべての思いを導き、すべての衝動を支配されるように嘆願しなければならないのである。 PP 217.5
神を信じると公言する者は、すべて、どんなに腹だたしいことが起こっても、心を守り、自制するという神聖な責任が負わせられている。モーセに負わせられた重荷は非常に重かった。彼のようなきびしい試練を受ける人は、今後、またとないであろう。しかし、そうだからといって、これは彼の罪の赦しの口実にはならなかった。神は、神の民のために十分な準備をしておられたのである。そして、もし彼らが神の力に信頼していたならば、彼らは環境にもてあそばれるようなことはなかったであろう。どんなに激しい誘惑であっても、罪の言いわけにはならない。どんな圧力が魂に加えられたにしても、犯罪は、われわれ自身の行為なのである。この世と陰府(よみ)のいかなる力も、人間に悪を強制することはできない。サタンは、われわれの弱点を攻撃するが、われわれは負ける必要はない。攻撃がどんなに激しく、不意に襲ってきても、神はわれわれに助けを備えられた。われわれは、神の力によって勝利することができるのである。 PP 218.1