人類のあけぼの
第32章 律法と契約
アダムとエバは、創造の当初、神の律法のことを知っていた。彼らは、律法の要求を知っていた。戒めは彼らの心に書かれていた。人間が罪を犯して堕落したときに、律法は変更されなかった。しかし、彼らを再び服従に立ち帰らせるために救済策が設けられた。救い主の約束が与えられ、大いなる罪祭、キリストの死を予表した捧げ物の犠牲制度が設けられた。しかし、もし神の律法を犯すことがなかったならば、死もなければ、救い主の必要もなかった。従って、犠牲の必要もなかった。 PP 185.1
アダムは、彼の子孫に神の律法を教えた。そして、神の律法は、父から子へと後の世代に伝わっていった。しかし、人間の贖罪のために恵み深い備えが与えられたにもかかわらず、それを受け入れ、服従した者は少なかった。この世界は罪のために非常に堕落したために、洪水によって腐敗から潔められなければならなかった。律法は、ノアとノアの家族によって保存された。そして、ノアは、子孫に十戒を教えた。人類が再び神から離れたとき、主は、アブラハムを選び、彼についてこう言われた。「アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守った」(創世記26:5)。 PP 185.2
アブラハムに割礼の儀式が与えられた。割礼を受けた者は、神の奉仕に献身したというしるしであった。それは、彼らが偶像礼拝から離れて、神の律法を守るという契約であった。アブラハムの子孫は異教徒と同盟を結んで、彼らの風習を取り入れて、この契約を守らなかったために、エジプトに滞在して奴隷生活を送ることになった。ところが、彼らが偶像教徒と交わったり、エジプト人にしいて屈服させられたりしたために、神の戒めは、異教主義の下劣で残忍な教えによって、さらに汚された。そこで、主は、彼らをエジプトから救出されたとき、栄光に包まれ、天使たちを従えて、シナイに降りてこられて、恐ろしい威光をもって、すべての民に聞こえるように、主の律法を語られた。 PP 185.3
主は、その時においても、忘れることの早い人間の記憶に主の戒めを委ねることをせず、それを石の板に書かれた。主は、イスラエルが、ご自分の清い戒めに異教の伝説を混合したり、あるいは主の律法を人間の法令や習慣と混同したりすることが全くないようにされた。しかし、主は、ただ十戒の戒めを彼らに与えただけでやめられなかった。人々は、すぐに誤った方向に惑わされるために、主は、1つでも誘惑の戸をあけておかないようにされた。 PP 185.4
モーセは、神がお命じになるままにおきてを書き、その要求項目を細かく人々に教えるように命じられた。人間の神と同胞に対する義務、そして、他国人に対する義務に関するこのような教えは、十戒の原則を単に拡大、明細にしたものであって、だれも考えちがいをしないようにするためであった。これらは、石の板に書かれた十の戒めの神聖さを守るためのものであった。 PP 185.5
アダムが堕落後に、神から与えられ、ノアが保存し、そしてアブラハムが守った神の律法を人間が遵守していたのであれば、割礼の儀式の必要はなかったはずであった。そして、もしもアブラハムの子孫が契約を守り、そのしるしの割礼を行っていたのであれば、偶像礼拝に惑わされたり、エジプトの奴隷生活に苦しむ必要もなかったのである。彼らは、神の律法を心の中にたくわえていて、それをシナイから宣言されることも、石の板に刻まれることも必要がなかったことであろう。そして、人々が十戒の原則を実行していたのであれば、モーセに追加的に指示が与えられる 必要もなかったことであろう。 PP 185.6
アダムに与えられた犠牲制度もまた、アダムの子孫によって曲解された。迷信、偶像礼拝、残酷、不道徳などが、神の定められた単純で意味深い儀式を腐敗させた。イスラエルの人々は、長い間偶像教徒と接触していたために、彼らの礼拝に異教の習慣を多く取り入れていた。そこで、主は、シナイで犠牲の儀式に関して明確な指示をお与えになった。幕屋が完成したあとで、主は、贖罪所の上の栄光の雲の中からモーセと交わり、ささげ物の制度に関する十分な指示と、聖所で続けるべき礼拝の形式とをお与えになった。こうして礼典律は、モーセに与えられたもので、モーセはそれを書物に書いた。しかし、シナイから語られた十戒の律法は、石の板の上に神ご自身がお書きになったもので、契約の箱の中に大切に保存された。 PP 186.1
この礼典律のことを言っている聖句を用いて、この2つの制度を織りまぜて考え、道徳律は廃されたということを証明しようとする人々が多くいる。しかし、これは聖書の曲解である。この2つの制度には、実に明瞭な区別がある。儀式の制度は、キリストとキリストの犠牲、そしてキリストの祭司職を示す象徴によって成り立っている。犠牲と儀式のこの礼典律は、世の罪を取り除く神の小羊であられるキリストの死という型の実体があらわれるまで、ヘブル人が行うべきものであった。そのとき、すべての犠牲の捧げ物は、終わることになっていた。キリストが、「取り除いて、十字架につけてしまわれた」のはこの律法であった(コロサイ2:14)。しかし、十戒の律法に関して、詩篇記者は、「主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり」と宣言している(詩篇119:89)。キリストご自身も、「わたしが律法……を廃するためにきた、と思ってはならない。……よく言っておく」。——この断言をできるかぎり強調して——「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」と主は言われた(マタイ5:7、18)。ここでキリストは、神の律法が過去において、また当時何を要求したかということばかりでなく、これらの律法の要求は、天地の続くかぎり継続するものであることを教えられた。神の律法は、神のみ座と同様に不変のものである。律法はあらゆる時代の人間に、服従を要求し続けるのである。 PP 186.2
シナイから宣言された律法に関して、ネヘミヤは「あなたはまたシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しいおきてと、まことの律法および良きさだめと戒めとを授け」と言った(ネヘミヤ9:13)。「異邦人への使徒」パウロは、「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」と言っている(ローマ7:12)。これは、十戒以外のものではあり得ない。なぜなら、これは、「あなたはむさぼってはならない」という律法だからである。 PP 186.3
救い主の死は、典型と影の律法を廃したけれども、われわれの道徳律に対する義務を少しも軽減しなかったのである。律法を犯した罪を贖うために、キリストが死ななければならなかったという事実は、かえって律法の不変性を証明したのである。神の律法を取り消し、旧約を廃止するためにキリストが来られたと主張する人々は、ユダヤ時代が暗黒で、ヘブルの宗教が単なる形式と儀式だけであったように言うが、それはまちがいである。神が選民を扱われた方法が記されている聖なる歴史の全体のなかに、偉大な、わたしは有ると言われたおかたの栄光に輝く足跡をたどることができる。主が、イスラエルの唯一の支配者として認められ、律法を人々にお与えになった時ほどに、彼の力と栄光が、人々にあらわされた時はなかった。そのとき、王権は人間の手に握られていなかった。目にこそ見えなかったが、イスラエルの王のはなばなしい出現は、言葉に表現できない荘麗さといかめしさがあった。 PP 186.4
このような神の臨在があらわされたときは、いつもキリストによって神の栄光が現された。救い主がこの世に降臨なさった時ばかりでなく、人類の堕落およびその贖罪の約束が与えられたとき以来、各時代を通じて「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」ておられた(Ⅱコリント5:19)。キリストは、 家長時代とユダヤ時代の両時代にわたって、犠牲制度の基礎であり中心であった。われわれの先祖が罪を犯して以来、神と人間の間には直接の交わりはなかった。父なる神は、この世界をキリストの手にお委ねになった。そして、神は、キリストの仲保の働きによって、人間を救い、神の律法の権威と神聖さを擁護なさるのである。堕落した人間と天との交わりは、すべてキリストを通じて行われた。われわれの先祖に贖罪の約束を与えたのは、神のみ子であった。家長たちにご自分をあらわされたのは、キリストであった。アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセなどは福音を理解した。彼らは人間の身代わりと保証であられるキリストによる救いを待望した。これらの古代の聖者たちは、この世界に人間となって来られることになっていた救い主と交わったのであった。彼らのなかにはキリストや天使たちと顔を合わせて話した者もあった。 PP 186.5
キリストは、荒野におけるヘブル人の指導者であられた。彼は、主とも呼ばれた天使なる神であって、雲の柱に包まれて、軍勢の前に進まれた。ただそれだけでなく、イスラエルに律法を与えられたのも彼であった。キリストは、シナイの荘厳な栄光の中から、すべての人に父なる神の十戒を宣言された。石の板に刻まれた律法をモーセに与えたのも彼であった。 PP 187.1
預言者によって人々に語られたのは、キリストであった。使徒ペテロは、キリスト教会にあてて、「あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである」と言っている(Ⅰペテロ1:10、11)。旧約聖書を通して、われわれに語るのはキリストの声である。「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」(黙示録19:10)。 PP 187.2
イエスは、ご自分が人々の間におられて教えられたときに、人々の心を旧約にお向けになった。イエスはユダヤ人に、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」と言われた(ヨハネ5:39)。このときは、旧約聖書が、聖書として存在していたに過ぎなかった。また、人の子は、「彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう」と言い、さらにつけ加えて、「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」と言われた(ルカ16:29、31)。 PP 187.3
礼典律は、キリストによって与えられた。それを行う必要がなくなった後になって、パウロはユダヤ人に礼典律の真の位置と価値とを述べ、それが贖罪の計画の中でどんな位置を占め、キリストの働きにどんな関係があったかを示した。そして偉大な使徒パウロは、この律法が栄えあるものであって、それを創設された神にふさわしいものであると宣言するのである。聖所の中の厳粛な儀式は、その後の各時代を通じてあらわされる大真理を象徴していた。イスラエルの祈りと共にのぼる香の煙は、キリストの義を代表している。ただこれだけが、罪人の祈りを神に受け入れられるものにする。血のしたたる祭壇上の犠牲は、来たるべき贖い主を示していた。そして、至聖所からは神の臨在のしるしが輝き出ていて、人はそれを認めることができた。こうして、暗黒と背教の時代を通じて、人々の心の中に信仰が生々しく保たれ、ついに、約束のメシヤの来臨の時にまで及んだのである。 PP 187.4
イエスは、人間のかたちをとって地上に来られる前から、ご自分の民の光——世の光であられた。罪におおわれた世界の暗黒を貫いた最初の光は、キリストから来たものであった。地上の住民に注がれた天の輝かしい光はすべて彼から来たのである。キリストは贖罪の計画の中で、アルファであり、オメガであり——始めであり、終わりであられる。 PP 187.5
救い主が、罪の赦しのためにその血を注ぎ、天にのぼって、「わたしたちのために神のみまえに出て下さっ」てからというものは、光は、カルバリーの十字架と天の聖所から流れ出ている(ヘブル9:24)。しかし、われわれにさらに明らかな光が与えられたからといって、来たるべき救い主を型によって示された初期 の人々を軽蔑してはならない。キリストの福音は、ユダヤの制度を明らかにし、礼典律を意義深いものにした。新しい真理が啓示されるにつれて、初めから与えられていた真理がより明瞭に理解され、神がご自分の選民をあつかわれる方法のなかに、神の品性とみ旨があらわされた。われわれが新しい光に浴することに、人間を救おうとされる神のみこころのあらわれである贖罪の計画が、さらに明らかに理解されるようになる。われわれは、霊感の言葉の中に新しい美と力とを見る。そして、ますます深く、そのページの研究に没頭するのである。 PP 187.6
神は、ヘブル人と外部の世界との間に隔ての壁をおき、人類の他の大部分を度外視して、イスラエルだけを保護し、愛されたという考えを持っている者が多い。しかし、神の民が、自分たちと同胞との間に隔ての壁を作ることは神のみこころではなかった。無限の愛にあふれた神のみこころは、地のすべての住民に手をさしのべておられた。彼らは、神を拒んでしまったが、神は常にご自分を彼らにあらわそうと努め、彼らを神の愛と恵みにあずかる者にしようとなさった。神の祝福が選民に与えられたのは、彼らが他を祝福するためであった。 PP 188.1
神はアブラハムを召し、アブラハムに繁栄と名誉をお与えになった。そして、アブラハムが旅をしたすべての国々で、彼の忠実さが人々に光を輝かした。アブラハムは、彼のまわりの人々から離れて生活しなかった。アブラハムは、近隣の国々の王たちと友好的関係を持続し、その王たちの中には、アブラハムを非常に尊敬した者もあった。そして、アブラハムの正直、無我、勇気慈悲の心などは、神の品性のあらわれであった。メソポタミヤ、カナン、エジプト、そしてソドムにおいても、神の代表者によって天の神があらわされた。 PP 188.2
そのように、神はヨセフによって、エジプトの人々と、この強国に関係のあったすべての国々にご自身をあらわされたのである。神は、なぜ、エジプト人の中でヨセフを高めようとされたのであろうか。神は、ヤコブの子らに対する神のみこころを他の方法によって完成なさることもできたのである。しかし、神は、ヨセフを光とすることを望まれた。そして、ヨセフを王の宮殿に住ませ、天からの光が遠いところにも近いところにもひろがっていくようにされたのである。その知恵と正義、日常生活における潔白と愛、また、偶像教国の人々の幸福のための献身などによって、ヨセフはキリストの代表者となっていたのである。エジプト全国の人々が、感謝と賛美の心をいだいて、自分たちの恩人ヨセフを見るときに、彼らはそこに自分たちの創造主と、贖い主イエスの愛を認めるようになるためであった。同様に神はまた、モーセを用いて、地上最大の王国の王位のかたわらに光を置かれた。それは、知ろうと思う者は、だれでも真の生きた神について学ぶことができるためであった。そして、この光のすべては、エジプト人の上に神の刑罰のみ手が伸べられる前に与えられたのである。 PP 188.3
エジプトからイスラエル人が救い出されたことによって、神の力が遠近に広く知れ渡った。エリコ城内の好戦的な人々は、震えおののいた。「わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです」とラハブは言った(ヨシュア2:11)。出エジプト後、数世紀たってからも、ペリシテ人の祭司たちは、エジプトに降った災害のことを人々に思い起こさせて、イスラエルの神に反抗しないように警告を発した。 PP 188.4
神は、イスラエルを召し、祝福し、高められた。それは、彼らが神の律法に従い、彼らだけが神の恵みを受け神の祝福をひとり占めにするためではなくて、彼らを通じて、地のすべての住民に神ご自身をあらわすためであった。神が、まわりの偶像教徒とは離れていなければならないと彼らにお命じになったのは、そのためであった。 PP 188.5
神は、偶像礼拝とそれに伴うすべての罪を憎まれる。そして、神は他の国民と交わって、「彼らのおこないにならって」神を忘れてはならないとお命じになった(出エジプト23:24)。神は、彼らの心が神から離れ去ってはいけないので、異教徒との結婚を お禁じになった。神の民が「自らは世の汚れに染まずに」身を清く保つことは、今日と同様昔も必要であった(ヤコブ1:27)。世は真理と義に反するものであるから、世の精神にとらわれないようにしなければならなかった。しかし、神は、神の民が自己だけを正しいとする排他的精神をもって自分を世から区別し、世に感化を及ぼさないようにすることは、神のみこころではなかった。 PP 188.6
各時代のキリストの弟子たちは、主と同じように世の光となるべきであった。「山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中(すなわち世の中)のすべてのものを照させるのである」と救い主は言われた。また、つけ加えて、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と言われた(マタイ5:14、15、16)。エノク、ノア、アブラハム、ヨセフ、モーセなどは、この通りのことをしたのである。神がイスラエルの人々にするようにご計画になったのは、まさしくこのことであった。 PP 189.1
周囲の人々に光を輝かさないで、それを隠してしまったのは、サタンに支配された彼らの邪悪な不信の心からであった。彼らが、異教徒の罪深い習慣に従ったのも、あるいは、神の愛と保護とは自分たちだけのものであるかのようにふるまって、高慢に排他的になったのも、この同じ頑迷な精神のためであった。 PP 189.2
聖書には、永遠に不変の律法と、仮の一時的な律法の2つの律法が示されているのと同様に、契約にも2種類ある。恵みの契約は、まず、エデンで人間に与えられたのである。人間が堕落したあとで、女のすえがへびのかしらを砕くという約束が与えられた。この契約は、すべての人に罪の赦しを与え、キリストを信じる信仰によって、その後従うことができるように、神の恵みの助けを与えた。それは、また、神の律法に忠誠を尽くすことを条件にして、永遠の命を約束した。こうして、家長たちは、救いの希望を与えられたのである。 PP 189.3
この同じ契約は、アブラハムにくり返されて、「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝編を得るであろう」という約束が与えられた(創世記22:18)。この約束はキリストを指示したものであった。アブラハムは、このことを理解し(ガラテヤ3:6、16参照)、キリストに頼って罪の赦しを求めた。彼が義と認められたのはこの信仰であった。アブラハムとの契約は、神の律法の権威をも維持した。主は、アブラハムに現れて、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言われた(創世記17:1)。この忠実なしもべについて、神は、「アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守った」とあかしされた(同26:5)。そして、主は、「わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう」と彼に宣言された(同17:7)。 PP 189.4
この契約はアダムと取りかわされ、また、アブラハムにくり返して与えられたとはいえ、キリストの死によって初めて批准されたのである。これは、初めて贖罪の知らせがかすかながら与えられたときから、神の約束によって存在していたのである。人々は、これを信仰によって受け入れていた。しかし、それがキリストによって批准されたときに、それは新しい契約と呼ばれた。神の律法がこの契約の基礎であった。律法は、単に、神のみこころに人々をもう一度調和させ、彼らが神の律法に従うことができるようにする手段であったに過ぎない。 PP 189.5
もう1つの契約は、聖書で「古い」契約と呼ばれているが、それは、シナイで神とイスラエルの間に結ばれたもので、それは、そのとき犠牲の血によって批准された。アブラハムに与えられた契約は、キリストの血によって批准され、「第2の」または、「新しい」契約と呼ばれている。それは、この契約に印を押す血が、第1の契約の血のあとに流されたからである。新しい契約が、アブラハムの時代に効力をもっていたことは、そのとき、神の約束と誓いとによって保証されたことによって明らかである。「それは、偽ることのあ り得ない神に立てられた2つの不変の事がらによって」である(ヘブル6:18)。 PP 189.6
ところが、もし、アブラハムに与えられた契約が、贖罪の約束を含んだものであったならば、なぜ、シナイでもう1つの契約を結ぶ必要があったのであろうか。人々は、その奴隷時代に、神に関する知識と、アブラハムに与えられた契約の原則の大部分を忘れてしまっていた。神は、彼らをエジプトから救出し、神の力と恵みを彼らにあらわし、彼らが、神を愛し、信頼するようになることを望まれた。神は、彼らを紅海にお導きになった。そこでエジプト人の追跡によって、彼らは全く逃げ場を失ってしまった。それは彼らが自分たちには全く力がなく神の助けの必要なことを悟るためであった。このようにしてのちに、神は彼らを救い出されたのである。こうして、彼らは神に対する愛と感謝に満たされ、神が彼らを救う力を持っておられることを確信した。神は、地上の奴隷生活からの救済者として、ご自分を人々に結びつけられた。 PP 190.1
しかし、さらに大きな真理を彼らの心に深く印象づけなければならなかった。彼らは、偶像礼拝と腐敗のなかで生活していたので、神の神聖さと、自分たちの心のはなはだしい罪深さと、自分たちの力だけでは、神の律法を守ることができないこと、そして、彼らには、救い主が必要であることを真に自覚していなかった。こうしたことを、すべて、彼らは学ばなければならなかった。 PP 190.2
神は、彼らをシナイに導き、ご自分の栄光をあらわされた。神は、彼らに律法を与え、服従することを条件にして、大きな祝福をお約束になった。「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、……あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(出エジプト19:5、6)。人々は、自分たちの心の罪深さと、キリストの助けがなくては神の律法を守ることができないことを自覚しなかった。そして、彼らは直ちに神と契約を結んでしまった。彼らは、自分たちの義を確立することができると感じて、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と宣言した(同24:7)。彼らは、恐るべき威光のうちに律法が宣言されるのを見、山の前で恐れおののいた。しかし、それにもかかわらず、その後わずか数週間しかたたないうちに、彼らは神との契約を破り、偶像にひざまずいて礼拝したのである。彼らは、契約を破ってしまったために、神の恵みを受けることは望めなくなった。そして、今、自分たちの罪深さと、ゆるしの必要を認めた彼らは、アブラハムの契約にあらわされ、そして、犠牲のささげものによって示された救い主の必要を感じるようになった。彼らは今、信仰と愛によって、罪の奴隷からの救い主としての神に結びつけられた。こうしてこそ、彼らは新しい契約の祝福を感謝する用意ができたのである。 PP 190.3
「古い契約」の条件は、従って生きよということであった。「人がこれを行うことによって生きるものである」。しかし、「この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる」(エゼキエル20:11、レビ18:5参照、申命記27:26)。「新しい契約」は、「さらにまさった約束」によるもので、罪の赦しの約束と、心を新たにする神の恵みと、神の律法の原則に心を一致させる約束によるのである。「しかし、それらの目の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。……わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ31:33、34)。 PP 190.4
石の板に刻まれたのと同じ律法が、聖霊によって心の板に書かれるのである。自分自身の義を確立させようと努力するかわりに、われわれは、キリストの義を受け入れる。キリストの血がわれわれの罪を贖うのである。キリストの服従が、われわれに代わって受け入れられる。こうして、聖霊によって新しくされた心は、「御霊の実」を結ぶのである。キリストの恵みによって、われわれは心に書かれた神の律法に従って生きるのである。キリストのみ霊を持っているから、彼が歩かれたように歩くのである。彼は預言者によって、ご自分のことを言われた。「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわ たしの心のうちにあります」(詩篇40:8)。そして、彼がこの地上におられたときには、「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」と言われた(ヨハネ8:29)。 PP 190.5
使徒パウロは、新しい契約のもとにおける信仰と律法の関係を明らかに述べている。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を」——人間は罪深い性質を持っているから、律法を守ることができない。だから律法は、人間を義とすることはできない——「神は……御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(ローマ5:1、3:31、8:3、4)。 PP 191.1
神の働きは、その発展の段階に相違があり、そして、ちがった時代の人々の要求に応じるために、その力のあらわれ方に相違があったけれども、すべての時代において同じであった。最初の福音の約束から始まって、家長時代とユダヤ時代を通じ、そして、現代に至るまで、贖罪の計画にある神のみこころは、徐々に展開されて与えられたのである。ユダヤの律法の儀式や礼典の中に象徴された救い主は、福音の中に啓示されたものと全く同じであった。神の姿をかこんでいた雲は取り去られた。おおい隠していたものが除かれた。そして、イエス、世の贖い主はお現れになったのである。シナイから律法を宣言された方、そして、モーセに礼典律の戒めをお与えになった方は、山の上で説教をされたお方と同じである。律法と預言者の基礎として、彼が宣言された神への愛という大原則は、彼がモーセを通じてヘブル人に語られたものの反復に過ぎなかった。「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」(申命記6:4、5、レビ19:18)。両時代を通じて、教師は同じである。神の要求されるところは同じである。神の統治の原則は同じである。なぜなら、「変化とか回転の影とかいうものはない」お方から、すべてのものがでているからである(ヤコブ1:17)。 PP 191.2