人類のあけぼの
第31章 ナダブとアビウの罪
本章は、レビ記10:1~11に基づく PP 182.7
幕屋が神にささげられたあとで、祭司たちは清い務めにたずさわるために聖別された。これらの式典は、7日を要し、毎日特別の儀式があった。8日目から祭司たちは、それぞれの務めを始めた。アロンは、むすこたちに助けられて、神が要求された犠牲を捧げ、両手を上げて民を祝福した。それまで、すべてが神の命じられた通りに行われてきた。そして、神は、犠牲を受け入れ、ご自分の栄光を著しくあらわされた。火が主のもとから下って、祭壇の上の捧げ物を焼き尽くした。民は、畏怖と強い関心とをもって、この神の力の驚くべきあらわれを見つめた。彼らは、そこに神の栄光と恵みのしるしを見、いっせいに賛美と崇敬の叫びをあげ、主のみ前にあるかのように顔を伏せた。 PP 182.8
しかし、その後まもなく、恐るべき不幸が、突然大祭司の一家にふりかかった。礼拝のとき、民の祈祷 と賛美が神のもとにのぼっていく間に、アロンのふたりのむすこが、それぞれ香炉をとり、主の前にうるわしいかおりとして立ちのぼる薫香をそれにたいた。だが、彼らは、主の命令にそむいて「異火(ことび)」を使った。薫香をたくにあたって、彼らは神ご自身がともし、このために使うように命じられた神聖な火を用いずに、普通の火を用いてしまった。この罪のために、火が主の前から出て、民の見ている前で彼らを焼き滅ぼした。 PP 182.9
ナダブとアビウは、モーセとアロンに次いで、イスラエルのうちで高い地位にあった。彼らは、特に主からの栄誉を受け、70人の長老たちと共に、山で主の栄光を見ることを許された者たちであった。しかし、それだからといって、彼らの罪の言い訳がなりたったり、それが軽く見すごされたりしてはならなかった。むしろ、このために彼らの罪はいっそう重くなった。人は、大きな光を受けたからとか、また、イスラエルの君たちのように山にのぼって神と交わり、神の栄光に浴する特権を得たからといって、自分はそのあとで罪を犯しても罰せられないと考えてはならない。また、このような栄誉を受けたのであるから、神は自分の罪をきびしく罰せられることはないと思ってはならない。そのように考えることは致命的な誤りである。与えられる光と特権が大きければ、その光に応じた徳と聖潔がそこに要求される。神は、これ以下のものはお受けになることができない。大きな祝福や特権を得たからといって、もう安全であると思い、軽率にふるまってはならない。それらは、罪を黙認するものでもなければ、また、神が、その人々を厳格にあつかわれないと思ってよいものでもない。神から与えられた恩典はみな、もっと熱烈な精神をもち、活発に努力して、神のみ旨の遂行を活発に行うための神の手段である。 PP 183.1
ナダブとアビウは、少年時代に自制の訓練を受けなかった。父親が相手の言いなりになる性質で、正しいことに対する確固たる態度が欠けていたために、彼は子供のしつけをないがしろにした。むすこたちは好きなことをするにまかせてあった。彼らはかってにふるまう習慣が長く続いたために、最も神聖な職務の責任を負わせられても、その習慣からぬけきれなかった。彼らは、父親の権威を尊ぶことを教えられていなかった。そして、彼らは神の要求に厳格に従う必要を認めなかった。アロンがあやまってむすこたちを甘やかしたために、ついに彼らは神の刑罰を受けなければならなくなった。 PP 183.2
神は、民らが崇敬と畏怖をもって神に近づき、しかも神の定められた方法に従わなければならないことを教えようとなさった。神は、なまはんかな従順をお受けになることができない。厳粛な礼拝のときにあたって、ほとんどすべてのことが神の指示どおりに行われるというだけでは不十分であった。戒めから離れ、世俗のものと神聖なものとを区別しない者に、神はのろいを宣告しておられる。神は預言者によってこう宣言なさる。「わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、暗きを光とし、光を暗しと……する。わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢しとし、みずから顧みて、さとしとする。……彼らはまいないによって悪しき者を義とし、義人からその義を奪う。……彼らは万軍の主の律法を捨て、イスラエルの聖者の言葉を侮った」(イザヤ5:20~24)。だれも自分を欺いて、神の戒めの一部は不必要であるとか、神はご自分の要求なさることの代わりのものでもお受けになるとか考えてはならない。預言者エレミヤは、「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか」と言った(哀歌3:37)。神は、みことばの中に、人がその好みに従って服従してもしなくても、結果は同じだというような命令は1つもしておられない。もし、人間が厳格な従順以外の道を選ぶなら、「その終りはついに死に至る道となる」のである(箴言14:12)。 PP 183.3
「モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、『あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため……である。……あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである』」。偉大な指導者モーセは、その兄弟に、「わたしは、わたしに近づく者のうちに、 わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう」という神のことばを思い起こさせた(レビ10:6、7、3)。アロンは無言のままだった。恐ろしい罪のために、なんの警告もなしにむすこたちが断たれたので、父親の胸ははりさけそうであった。だが、彼は自分の感情を表さなかった。この罪は自分が義務を怠ったためであることを、彼はここで悟った。彼は悲嘆をあらわして、罪に共感するそぶりを見せてはならなかった。会衆を神に対してつぶやかせてはならなかった。 PP 183.4
主は、他の人々に恐怖をいだかせるために、ご自分の罰の正当性を神の民に認めさせようと望まれる。イスラエルの中には、この恐ろしい刑罰を警告として、神の忍耐を軽んじて滅亡する運命から救われた者が出るのであった。自分の罪の言い訳をしようとする罪人に対して、まちがった同情を示す者を、神は責められる。罪には道徳的な感覚を失わせる作用があり、そのために悪を行う者は、その罪の大きさを自覚しない。そして、それを悟らせる聖霊の力がないので、彼は自分の罪に対してなかば盲目的な状態に陥っている。このような罪に陥っている者に、その危険を教えるのは、キリストのしもべたちの務めである。罪の本性と罪から生ずる結果に対して、罪人の目を盲目にさせて警告の効力を失わせる者は、そうすることが自分たちの愛の証拠であるとうぬぼれがちである。しかし、実は、彼らは神の聖霊のわざに正面から対立して、これを妨げるために働いている。彼らは、罪人を欺いて、滅亡の断崖にいこわせている。彼らは、自分たちでその罪にあずかり、罪人が悔い改めないことの恐るべき責任を背負っている。このまちがった同情の結果、実に多くの人々が滅びに陥ってしまった。 PP 184.1
もしもナダブとアビウが、初めから酒をほしいだけ飲んで半ば泥酔状態になっていなければ、この致命的な罪を犯すことはなかったであろう。彼らは神の臨在のあらわれる聖所にはいる前には、細心の注意を払って、厳粛に準備することが必要であることを承知していた。だが、彼らは不節制によって、清い職務にたずさわる資格を失ってしまった。 PP 184.2
彼らの心は混乱し、道徳的感覚は鈍り、神聖なものと世俗のものとの区別ができなくなってしまった。アロンとそのほかの子らはこう警告された。「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、また主が……語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」(同10:9~11)。飲酒はからだを弱め、思想を混乱させ、道義を低下させる作用を持つ。それは、人に聖なるものの神聖さと、神の要求の拘束力を認めさせない。清い責任ある地位についた者はみな、きびしく節制を守って頭脳を明晰にして善悪を区別し、原則に堅く立ち、公正を行い、あわれみの心を持つ知恵がなければならなかった。 PP 184.3
それと同じ義務が、キリストに従う1人1人に負わされている。使徒ペテロは、「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である」と言明している(Ⅰペテロ2:9)。われわれは創造主に喜ばれる礼拝をささげることができるように、あらゆる力をできるだけ最善の状態に保つことを神から求められている。酒が用いられれば、これらのイスラエルの祭司たちの場合と同じ結果が生じるであろう。良心は罪に対する感受性を失い、次第に悪に慣れて、ついに世俗のものと神聖なものの区別が見分けられなくなってしまう。そのとき、われわれはどうして神が要求される標準に合致できるであろうか。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」。あらゆる時代のキリストの教会に、この厳粛で 恐るべき警告が与えられている。すなわち、「もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(Ⅰコリント6:19、20、10:31、3:17)。 PP 184.4