人類のあけぼの

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第29章 律法に対するサタンの敵意

神の律法をくつがえそうとするサタンの最初の努力は、罪を知らない天の住民の間で行われ、しばらくのうちは首尾よく成功するかのように思われた。多数の天使たちがそれに迷わされた。しかし、サタンは勝利したかのように思われたものの、その結果は彼の敗北と損失、神からの離反と天からの追放であった。 PP 169.1

この戦いが地上で再開されたときも、サタンは、一見優勢であった。人間は罪を犯したために彼に捕えられ、人間の王国もまた、大反逆者の手中に陥ってしまった。こうして、サタンが独立王国を建て、神とそのみ子の権威に反抗する道が開かれたように思われた。しかし、救済の計画が設けられて、人間は再び神と調和し、神の律法に従順な者となり、ついに人間も地球も、悪魔の力からあがなわれることが可能になった。 PP 169.2

サタンは再び敗北した。そして、彼は、敗北を勝利に変えようとして、再び人間を欺く手段をとった。サタンは、堕落した人類を神に反逆させようとして、今度は人間に神の律法を犯すことを可能にしたのは、神の不当な処置であると言った。「なぜ神は、その結果がどうなるかを知りながら、人間が試みられ、罪を犯し、悲惨と死をもたらすことを許されたのか」と言葉巧みに言った。アダムの子孫は、彼らに、再び機会を与えられた忍耐深い神の恵みを忘れ、自分たちの反逆が、天の王にどのような驚くべき大いなる犠牲を払わせたかを考えもせずに誘惑者に耳をかし、サタンの破壊力から自分たちを救うことのできる唯一のお方に対してつぶやいた。 PP 169.3

神に対して同じ反抗的不満をくり返している人々が、今日も大勢いる。彼らは、人間から選択の自由を奪うことは、知的存在としての権利を取り去って、人間を単なる機械人形にしてしまうのに等しいことを理解していない。意志を強制することは、神のみ旨でない。人間は自由意志を持った道徳的存在として創造された。他の諸世界の住民たちと同じく、人間は、従順か否かの試みを受けなければならない。だが、人間は必然的に悪に負ける立場に置かれているのではない。人間が抵抗できないような誘惑や試練は、1つとして襲ってくることが許されていない。神が十分の備えをしてくださったから、人間はサタンとの戦いにおいて決して敗北する必要はなかったのである。 PP 169.4

人間が地上にふえるにしたがって、ほとんど全世界が反逆の側に加わった。今度も、サタンは勝利を得たように思われた。しかし、全能の力は、再び悪の活動をさえぎり、地上は洪水により道徳的堕落から清められた。「あなたのさばきが地に行われるとき、世に住む者は正義を学ぶ……。悪しき者は恵まれても、なお正義を学ばず、……主の威光を仰ぐことをしない」(イザヤ26:9、10)と預言者は言っている。洪水後がそうであった。地の住民は、神の刑罰から解放されると、再び主に反逆した。この世は、神の契約と定めとを2度も退けた。洪水前の民もノアの子孫も共に天の権威をかえりみなかった。 PP 169.5

そこで神はアブラハムと契約を結び、律法の保管者となる民族を召された。この民をいざない滅ぼすために、サタンはただちにわなを仕掛けてきた。ヤコブの子供たちは異邦の民と結婚し、その偶像の礼拝に加わるように誘惑された。だが、ヨセフは神に忠実であった。彼の忠誠は、真の信仰をたえずあかししていた。サタンがヨセフの兄弟たちにヨセフをねたむ心を起こさせて、彼を異国に奴隷として売らせたのは、この光を消すためであった。しかし、神は、エジプトの民にも神に関する知識が与えられるように、これらの出来事を支配なさった。ヨセフはポテパルの家でも牢獄でも、神を恐れつつ、国家の宰相という高い地位につくにふさわしい教育と訓練を授けられた。彼の感化力は、パロの宮廷から国土全体に及び、神を知る知識は遠く広くゆきわたった。エジプトにいるイスラエル人も繁栄して富裕となり、神に忠実な者はみな広範囲に及ぶ感化を与えた。 PP 169.6

偶像に仕える祭司たちは、新しい宗教が人気を博するのを見て驚いた。彼らは天の神に反抗するサタンにそそのかされて、この光を消そうとはかった。王位の継承者の教育は、この祭司たちに委ねられていた。未来の君主の性格を形成し、ヘブル人を苛酷に圧迫させたのは、断固として神に反対する精神と偶像礼拝熱であった。 PP 170.1

モーセがエジプトをのがれてから40年の間に、偶像礼拝が勝利を得たように思われた。イスラエル人の期待は年々弱まっていった。王も国民も自分たちの力を誇り、イスラエルの神をあざけった。この精神はだんだんとつのり、ついにパロ王がモーセと対決するに及んで頂点に達した。 PP 170.2

モーセが「イスラエルの神、主」の言葉をたずさえて王の前に出たとき、王が「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従(わ)……なければならないのか。わたしは主を知らない」(出エジプト5:2)と答えたのは、彼が真の神を知らなかったためではなく、その力に対して反抗していたためであった。パロが天の命令に反対したのは無知のためではなく、徹頭徹尾、憎悪と反抗によるものであった。 PP 170.3

エジプト人は、長い間神の知識を退けてきたにもかかわらず、主はなお悔い改めの機会を彼らにお与えになっていた。ヨセフの時代には、エジプトはイスラエルの避難所であった。神の民に好意が示されたことは、神のみ名の栄えであった。しかし、今や、怒ることおそく、憐れみに富む寛容な神も、災害を次々に送られることになった。エジプト人は、自分たちの拝んでいた対象そのものによって、苦しめられ、主の力の証拠を示された。そして、望む者はみな神に従って刑罰をのがれることができた。王の強情と頑迷が神のことを広く伝える結果になり、多くのエジプト人が神に仕えるようになった。 PP 170.4

イスラエル人は、異邦人と結合し、その偶像礼拝をまねる傾向が強かった。そこで、神はヨセフの感化が広くゆきわたり、彼らが独自の民族として存続するのに好都合なエジプトに、彼らが下っていくのを許された。ここで、ヘブル人は、エジプト人の偶像礼拝の堕落とエジプト滞在期間後半の残酷なとりあつかいと圧制の結果、偶像礼拝に嫌悪感をいだき、先祖の神のもとにのがれたいと思うようになるはずであった。サタンは、こうした摂理そのものを、自分の目的達成のために利用して、イスラエル人の心を暗くし、彼らに異邦の教師の風習を模倣させた。エジプト人は動物を迷信的に尊重していたために、ヘブル人は奴隷生活をしている間、いけにえの供え物を捧げることが許されなかった。こうして、彼らの思いは、犠牲を捧げることによって、偉大なるいけにえキリストに向けられることもなく、彼らの信仰は弱まった。イスラエル解放の時が来ると、サタンは強硬に神の意志に反抗した。彼はなんとしても、200万人以上をかぞえるこの大いなる民族を無知と迷信の中に閉じ込めておきたかった。神が祝福してその数をふやし、地上の強国にすると約束された民、そして、神がご自分のみこころを人々に知らせるために用いようとされた民、すなわち、神が律法の保管者にしようとされたというそういう人々を、サタンは暗黒と束縛の中に置き、彼らの心から神の記憶をぬぐい去ろうとつとめた。 PP 170.5

王の前で奇跡が行われたとき、サタンはその場にいて、その力に対抗し、パロが神の至上権を認めて、その命令に従わないようにしていた。サタンは力のかぎりを尽くして神のわざを模倣し、そのみ旨に抵抗した。しかしながら、その結果はただイスラエル人に対しても、全エジプト人に対しても、神の力と栄光がさらに輝かしく現されることになり、生きた真の神の存在とその主権をいっそう明瞭にしたにすぎなかった。 PP 170.6

神は、ご自分の力を強力にあらわすと共に、エジプトのすべての神々に刑罰を下してイスラエルを解放された。「こうして主はその民を導いて喜びつつ出て行かせ、その選ばれた民を導いて歌いつつ出て行かせられた。……これは彼らが主の定めを守り、そのおきてを行うためである」(詩篇105:43~45)。神は、彼らをよい国へ導くために、奴隷の状態からお救いになった。神は摂理のうちに敵をさける避難所として、国土を彼らのために備えて、彼らがみ翼のか げに宿ることのできるようにされた。神は彼らをご自分に引き寄せ、永遠のみ腕で囲みたいと望まれた。そして、彼らがその恵みと憐れみにこたえて、生きた神の前に他のいかなる神々をも持たず、み名を高め、これを地上に輝かすことをお求めになった。 PP 170.7

エジプトの奴隷であった間に、イスラエル人の多くは、全くと言っていいほど神を忘れ、その戒めを異邦の習慣や伝統と混合してしまっていた。神は彼らをシナイに導き、そこでご自分の声で律法を宣言された。 PP 171.1

サタンと悪天使たちは地上にいた。神が民に律法を宣言しておられるあいだでさえ、サタンは彼らを罪にいざなおうとたくらんでいた。彼は神が選ばれたこの民を、天の神の面前で屈伏させてしまおうとしていた。彼は、彼らを偶像崇拝に陥れることによって、すべての礼拝のもつ力を破滅させようとしていた。なぜなら、自分より高くないもの、自分の手のわざによって象徴され得るものをあがめることによって、人間はどうして高められることができるであろうか。もし、人々が刻んだ像や獣や爬虫類の形で神をあらわそうとするほどに、無限の神の力と威厳と栄光に対して盲目になり、創造主のみかたちに造られた人間がこれらのいまわしい無意味な対象にぬかずくほどに、主と自分たちの関係を忘れてしまうならば、邪悪な放縦の道が開かれ、心のよこしまな欲情のおもむくままに、サタンの完全な支配に服してしまう。 PP 171.2

サタンは、シナイの山麓から、神の律法をくつがえす計画の実行にかかり、こうして天で始めたのと同じ働きを押し進めた。モーセが神と共に山にいた40日の間、サタンは忙しく働いて、疑惑と背信と反逆をひき起こしていた。神が契約の民に託すべき律法を書きしるしておられるあいだに、イスラエル人は主への忠誠を拒んで、金の神々を要求していた。民が守ることを誓った律法の戒めを手にして、モーセが神の栄光の恐るべき臨在から出てきたとき、彼らはその戒めに公然と反抗して、金の偶像の前にぬかずいて礼拝していた。 PP 171.3

サタンは主なる神に対するこの大胆な侮辱と冒瀆にイスラエルを誘い込むことによって、彼らの滅亡を招こうと計画していた。彼らがこれほどにも堕落し、神から与えられた特権と祝福の目覚めと、そして、自分たちがくり返し厳粛に誓った忠誠を全く忘れてしまったのであるから、主は彼らを捨て去って、滅ぼしてしまわれるだろうとサタンは考えた。こうして、生きた神の知識を保存する約束のすえ、アブラハムのすえは滅ぼされてしまい、サタンを征服することになっていた真のすえであられる方が来ないように彼は願ったのである。大反逆者はイスラエルを滅亡させ、それによって神のみ旨の遂行を妨げようと考えていた。だが、またしても彼は敗北した。イスラエルの民は罪深くはあったが滅ぼされなかった。頑強にサタンにくみした者たちは絶たれたが、へりくだって悔い改めた民は、憐れみによって赦された。この罪の歴史は、偶像礼拝の罪とその罰、また、神の公正と忍耐深い憐れみを、末長くあかししている。 PP 171.4

全宇宙がシナイの光景をながめていた。この2つの統治の方法が示されたことによって、神の統治とサタンの統治の対照が明らかにされた。今一度、罪を知らない他の世界の住民たちは、サタンの背信の結果を見、かつ、彼の支配が行われた場合に天に樹立されたであろうと思われる統治がどんなものかを見たのであった。 PP 171.5

人々に第2の戒めを犯させることにより、サタンは、神に対する彼らの観念を堕落させようと意図した。彼は第4の戒めを人々の念頭から取り去ることによって神を全く忘れさせようとした。異邦の神々にまさって崇敬と礼拝を神がお求めになるわけは神が創造者であり、その他のものはみな神に創造されて存在するからである。聖書には、このようにしるされている。預言者エレミヤは言う、「主はまことの神である。生きた神であり、永遠の王である。……天地を造らなかった神々は地の上、天の下から滅び去る。……主はその力をもって地を造り、その知恵をもって世界を建て、その悟りをもって天をのべられた」「すべての人は愚かで知恵がなく、すべての金細工人はその造った偶像のために恥をこうむる。その偶像は 偽り物で、そのうちに息がないからだ。これらは、むなしいもので、迷いのわざである。罰せられる時に滅びるものである。ヤコブの分である彼はこのようなものではない。彼は万物の造り主だからである」(エレミヤ10:10~12、14~16)。神の創造力の記念である安息日は、天地の造り主としての神をさし示す。したがって、それは創造者の存在を絶えずあかしし、その偉大さ、その知恵、その愛を思い起こさせる。もし安息日がいつも清く守られていたなら、無神論者や偶像礼拝者などはあり得なかったことであろう。 PP 171.6

エデンで設けられた安息日の制度は、世界の誕生と共に古い。それは創世以来、すべての父祖たちが順守してきたものである。エジプトの奴隷時代には、イスラエル人は工事監督にしいられて、やむを得ず安息日を破った。そして、彼らはその神聖さをおおかた見失ってしまった。律法がシナイで宣言されたとき、第4の戒めの最初は「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という言葉であって、安息日がそのとき制定されたのではないことを示している。その創設は創造にまでさかのぼる。人々の心から神を消し去るために、サタンはこの偉大な記念をくずそうとした。人々をいざなって創造主を忘れさせることができれば、彼らは悪の力に抵抗しなくなり、サタンは確実に獲物を捕えることができるのであった。 PP 172.1

サタンは、神の律法に対する敵意をいだいていたから、十戒の1つ1つの戒めに対して戦いをいどんだ。すべてのものの父である神を愛し、これに忠誠を尽くすという大原則と、子が親を愛しこれに従順を尽くすという原則とは密接に関連している。親の権威を侮れば、やがて、神の権威を侮るようになる。したがって、サタンは第5条の義務を軽減しようと努力した。異邦民族のあいだでは、この戒めの原則はほとんど守られていなかった。多くの国々において、年をとって自分の世話ができなくなった親は、捨てられたり、殺されたりした。家族の中で母親は尊ばれず、夫が死ぬと、彼女は長男の権威に従わなければならなかった。子は、親に従順であるべきことをモーセは命じた。しかし、イスラエル人が主から離れたとき、第5条も他の戒めと共に無視されるに至った。 PP 172.2

サタンは「初めから、人殺しであっ」た(ヨハネ8:44)。彼は、人類を支配する力を得るやいなや人々を互いに憎み、殺させたばかりでなく、彼らをいっそう大胆に神の権威に反抗させ、第6条を破ることを彼らの宗教の一部とした。 PP 172.3

神の性質をゆがんで考えたために、異邦民族は、神の恵みを得るには人身御供が必要だと信ずるようになった。そして、最も恐るべき残虐がいろいろな形の偶像礼拝のもとで行われてきた。その1つは、偶像の前で自分の子供たちに火の中をくぐらせる風習であった。子供たちのなかで、この試練から無傷で出てくることができたとき、民は自分たちの供え物が受け入れられたと信じた。このようにして出てきた者は、神々から特に恵まれた者とみなされて種々の恩典を与えられ、以後は大いに尊重され、どんな大きな犯罪を犯しても処罰されることはなかった。しかし、火の中をくぐるあいだにやけどをした者の運命は定まっていた。神々の怒りは、そのいけにえの生命を奪わなければしずまらないと信じられていた。したがって、その子は、犠牲としてささげられた。背信のはなはだしかった時代には、こうした憎むべきことが、ある程度イスラエル人のあいだにも行われていた。 PP 172.4

第7条を犯すこともまた、古くから宗教の名において行われていた。最もみだらな忌むべき儀式が、異邦の宗教の一部とされた。神々自身が不道徳なものとしてあらわされ、その礼拝者は、低級な欲望をほしいままにしていた。男色が広く行われ、祭りのときにはだれもが公然と不道徳なことをした。 PP 172.5

一夫多妻は、ごく初期から行われていた。それは洪水前の世界に神の怒りを招いた罪のひとつであった。だが、洪水後それは再び広く行われた。サタンは、とりわけ結婚制度をゆがめ、その義務を弱め、その神聖さを減ずることに力を入れた。というのは、人間のうちにある神のかたちをそこない、悲惨と悪徳に戸を開くのに、これほど確実な方法はなかったからである。 PP 172.6

大争闘の初めから、神の性格を誤解させ、その律 法に反逆させることがサタンの意図したところであった。そして、これはみごとに成功しているように見える。多数の者がサタンの欺瞞に耳を貸し、神に反逆している。しかし、悪の働きのただ中にあって、神のみ旨は着実に完成をめざして前進する。神は、すべての造られた者に、ご自分の公義と慈愛を明らかにしておられる。サタンの誘惑によって全人類は神の律法を犯す者となった。だがみ子の犠牲によって彼らが神に立ち帰る道が開かれた。キリストの恩恵を通して彼らは天父の律法に従うことができるようにされる。このように、いつの時代にも神は背信と反逆のただ中から、ご自分に忠実な1つの民——「心のうちにわが律法をたもつ」民(イザヤ51:7)——をお集めになる。 PP 172.7

サタンは、欺きによって天使たちをいざなった。彼は、いつの時代にも人々の間で、同じような方法で彼の仕事を進めてきた。そして、彼は最後までこの方針を続けるであろう。もし、サタンが公然と、神とその律法に戦いをいどんでいることを表明すれば、人々は警戒するであろう。しかし、彼は自分の本性を隠し、真理と誤謬とを混ぜ合わせている。最も危険な偽りは、真理と混ぜ合わせられたものである。こうして人々は誤りを受け入れて魂を捕えられ破滅に陥る。この方法によって、サタンは世界を自分の側に引き入れている。だが、彼の勝利が永遠に終わる日が来ようとしている。 PP 173.1

反逆に対する神の処置の結果、長い間ひそかに進められてきた仕事のおおいが完全に取りのぞかれる。サタンの支配の成果と神の定めを無視した結果は、すべての造られた者の前に明らかにされるであろう。神の律法は完全に擁護される。神の処置はことごとく、ご自分の民の永遠の幸福と、神が造られたすべての世界の幸福のためにとられたものであることが理解される。サタン自身も宇宙の見守る中で、神の統治の公正とその律法の正義を告白する。 PP 173.2

神が立ちあがって、これまで侮られてきたご自分の権威を擁護される時は遠い先ではない。「主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる」「その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう」(イザヤ26:21、マラキ3:2)。神が山に下って律法を宣言されたとき、イスラエルの民は、その罪深さのために神の臨在の輝く栄光によって焼き尽くされることのないように、そこに近づくことを禁じられた。神の律法を宣言するために選ばれた場所に、こうした神の威光があらわれたとすれば、主が、これらの清い律法を執行するために来られる審判は、どんなに恐るべきものであろう。主の権威をふみにじってきた者たちは、最後の報復の大いなる日に、どうしてその栄光に耐え得よう。シナイの恐怖は最後の審判の光景をあらわすものであった。ラッパが鳴り響いて、イスラエルは、神と会うために召集された。天使のかしらの声と神のラッパの音が、全地から、生きている者と死んだ者を審判者の御前に召し集めるのである。大勢の天使を伴った天父とみ子が、シナイ山の上に臨在された。大いなる審判の日には、キリストが「父の栄光のうちに、御使たちを従えて来る」(マタイ16:27)。そのとき、キリストは、栄光のみ座につき、その前にあらゆる国民が集められる。 PP 173.3

神の臨在がシナイで現されたとき、主の栄光は全イスラエルの目の前で焼き尽くす火のようであった。しかし、キリストが聖天使たちを従えて栄光のうちに来臨されるとき、全地はその臨在の恐るべき光で燃えるように明るくなるであろう。「われらの神は来て、もだされない。み前には焼きつくす火があり、そのまわりには、はげしい暴風がある。神はその民をさばくために、上なる天および地に呼ばわれる」(詩篇50:3、4)。彼の御前から火の流れがほとばしり出て、天は燃えくずれ、地と、その上に造り出されたものもみな焼き尽くされる。「それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、……福音に聞き従わない者たちに報復」される(Ⅱテサロニケ1:7、8)。 PP 173.4

人間が創造されて以来、シナイで律法が宣言されたときのような神の力のあらわれは、他では見ること ができない。「シナイの主なる神の前に、イスラエルの神なる神の前に、地は震い、天は雨を降らせました」(詩篇68:8)。自然界の恐怖すべき激動のさなかに、神の声がラッパの音のように雲の中から聞こえてきた。山はふもとから頂まで震え、イスラエルの民は恐怖で青ざめ、震えながら地上にひれ伏した。このようにみ声をもって地を揺り動かされた主は、今、宣言しておられる。「わたしはもう1度、地ばかりでなく天をも震わそう」(ヘブル12:26)。また、聖書はこう記している。「主は高い所から呼ばわり、その聖なるすまいから声を出し」、「天も地もふるい動く」(エレミヤ25:30、ヨエル3:16)。来たるべきその大いなる日に、天そのものも「巻物が巻かれるように」姿を消す(黙示録6:14)。すべての山々島々は、その場所を動かされる。「地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のようにゆり動く。そのとがはその上に重く、ついに倒れて再び起きあがることはない」(イザヤ24:20)。 PP 173.5

「それゆえ、すべての手は弱り」、すべての顔は「青く変っている」「すべての人の心は溶け去る。彼らは恐れおののき、苦しみと悩みに捕えられ」る。「わたしはその悪のために世を罰し、……高ぶる者の誇をとどめ、あらぶる者の高慢を低くする」と主は言われる(イザヤ13:7、エレミヤ30:6、イザヤ13:7、8、11)。 PP 174.1

モーセが、あかしの板を受けて神の臨在のもとから山を下ってきたとき、罪あるイスラエルは彼の顔を輝かしている光に耐えられなかった。まして、律法を犯し、贖罪を拒んだ者の審判のために、全天の万軍に囲まれ、父の栄光に包まれて現れる神のみ子を、罪人たちはどうして仰ぐことができるであろう。神の律法を軽視し、キリストの血を足の下に踏みにじった者たち、「地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者」はみな「ほら穴や山の岩かげに」身を隠し、山と岩とに向かって言う、「われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」(黙示録6:15、16、17)。「その日、人々は……しろがねの偶像と、こがねの偶像とを、もぐらもちと、こうもりに投げ与え、岩のほら穴や、がけの裂け目にはいり、主が立って地を脅かされるとき、主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避ける」(イザヤ2:20、21)。 PP 174.2

そのとき、神に対するサタンの反逆は、彼自身の滅びと、彼の側につくことを選んだすべての者の滅びに終わったことが明らかとなる。彼は、罪を犯すことによって大きな幸福を味わうことができると主張してきた。だが「罪の支払う報酬は死である」ことが明らかとなる(ローマ6:23)。「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない」(マラキ4:1)。あらゆる罪の根であるサタンと、その枝である悪者たちとは全く絶ち滅ぼされる。罪は終わりを告げ、それから生じたわざわいと滅びもなくなる。詩篇作者は言っている、「あなたは……悪しき者を滅ぼし、永久に彼らの名を消し去られました。敵は絶えはてて、とこしえに滅び……ました」(詩篇9:5、6)。 PP 174.3

しかし、神の審判のラッパを聞いても、神の子らには恐れをいだく理由がない。「主はその民の避け所、イスラエルの人々のとりでである」(ヨエル3:16)。神の律法を犯す者に恐怖と滅亡をもたらすその日が、従順な者には「言葉につくせない、輝きにみちた喜び」を与える(Ⅰペテロ1:8)。 PP 174.4

主は「いけにえをもってわたしと契約を結んだわが聖徒をわたしのもとに集めよ」と言われる。「天は神の義をあらわす、神はみずから、さばきぬしだからである」(詩篇50:5、6)。 PP 174.5

「その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる」(マラキ3:18)。「義を知る者よ、心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け」「見よ、わたしはよろめかす杯をあなたの手から取り除……いた。あなたは再びこれを飲むことはない」「わたしこそあなたを慰める者だ」(イザヤ51:7、22、12)。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移るこ となく、平安を与えるわが契約は動くことがない』とあなたをあわれまれる主は言われる」(イザヤ54:10)。 PP 174.6

贖罪の大いなる計画は、この世界を完全に神の恵みのもとに引きかえす。罪によって失われたすべてのものが回復される。人間ばかりでなく、地も贖われて、従順な者たちの永遠のすみかとなる。6000年のあいだ、サタンは地の所有を維持しようと努力してきた。だが、今や創造当初の神のみ旨が完成される。「いと高き者の聖徒が国を受け、永遠にその国を保って、世々かぎりなく続く」(ダニエル7:18)。 PP 175.1

「日いずるところから日の入るところまで、主のみ名はほめたたえられる」(詩篇113:3)。「その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」「主は全地の王となられる」(ゼカリヤ14:9)。聖書は言う、「主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり」、「すべてのさとしは確かである。これらは世々かぎりなく堅く立」つ(詩篇119:89、111:7、8)。サタンが憎んで滅ぼそうとした聖なるおきては、罪のない宇宙であがめられる。そして、「地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に生やされる」(イザヤ61:11)。 PP 175.2