人類のあけぼの

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第23章 エジプトの災害

本章は、出エジプト記5~10章に基づく PP 129.7

アロンは、天使の指示に従って、これまで長い間、別れていた彼の兄弟に会いに出かけた。彼らは、ホレブに近い砂漠のさびしいところで出会った。彼らは、ここで話し合い、モーセは、「自分をつかわされた主のすべての言葉と、命じられたすべてのしるしをアロンに告げた」(出エジプト4:28)。彼らは、一緒にエジプトに向かい、ゴセンの地につくと、直ちにイスラエルの長老たちを集めた。アロンは、神がモーセになさったことを全部彼らに語って聞かせた。そして、神がモーセにお与えになったしるしを民の前に示した。「民は信じた。彼らは主がイスラエルの人々を顧み、その苦しみを見られたのを聞き、伏して礼拝した」(出エジプト4:31)。 PP 129.8

また、モーセには、王に言うべき言葉がゆだねられていた。2人の兄弟は、王の王からつかわされた大使として、パロの宮殿に入り、その名によって語った。 「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」(同5:1)。 PP 129.9

「主はいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」と王は言った(同5:2)。 PP 130.1

「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちを3日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです」と彼らは答えた(同5:3)。 PP 130.2

モーセとアロンのこと、また、彼らが人々の間でどんなことをあおり立てていたのかという知らせが、すでに王の耳に達していた。王は怒って言った。「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の労役につくがよい」。こうした外国人の妨害によって、王国はすでに損失をこうむっていた。王は、それを思って言葉を続けた。「見よ、今や土民の数は多い。しかも、あなたがたは彼らに労役を休ませようとするのか」(同5:4、5)。 PP 130.3

イスラエル人は、奴隷になっている間に、神の律法の知識をかなり見失い、その戒めから離れていた。安息日は、一般に無視され、作業を監督する者が不当に彼らを働かせたので、安息日が守れないことは明白であった。しかし、モーセは、神に従うことが救いの第一条件であることを、神の民に明らかに小した。こうして彼らが、再び安息日を守ろうとしていることが、圧制者たちに知られるようになった。 PP 130.4

十分に警戒しはじめた王は、イスラエル人が王の仕事に反逆を企てるのではないかと疑った。不満は、怠惰の結果起こった。王は、危険な陰謀を企てる時間が彼らにないようにしなければならないと考えた。そこで王は、直ちに彼らの束縛をきびしくし、独立精神をくだく手段に出た。その日、彼らの労働をさらにきつくし、圧迫を加える命令が出された。 PP 130.5

エジプトで、最も広く使用された建築の材料は、太陽で焼いたれんがであった。最も壮麗な建物の壁もこのれんがの上に西をはりつけたものであった。れんがの製造には、多くの奴隷が使用された。粘土のつなぎとして、麦わらをきざんだものが混せられていたので、そのために多量の麦わらが必要であった。王は、麦わらの供給をそのときから停止することを命じた。労働者たちは、自分たちでわらをさがすとともに、同量のれんがを作ることがきびしく要求された。 PP 130.6

この命令は、国内のイスラエル人を非常に困難な状態に陥れた。エジプト人の監督は、ヘブル人の下役を任命し、彼らのもとにある人々の仕事の責任をとらせた。王の要求が実施され、人々は、わらの代わりに刈り株を集めるために、国中にちらばった。しかし、これでは、従来と同量の仕事を完成することは不可能であった。製造が順調に進行しないために、ヘブル人の下役たちは、激しく打たれた。 PP 130.7

この下役たちは、こうした圧迫が、王からではなく、監督から出たものであると思い、王のところに苦情を訴えた。しかし、パロは、彼らの訴えを嘲笑した。「彼らはなまけ者だ。それだから、彼らは叫んで、『行ってわたしたちの神に犠牲をささげさせよ』と言うのだ」(同5:8)。彼らは、もどって働くように命令され、仕事が軽くされることは、絶対にあり得ないことを知らされた。彼らは、モーセとアロンのところに帰ってきて叫んで言った。「主があなたがたをごらんになって、さばかれますように。あなたがたは、わたしたちをパロとその家来たちにきらわせ、つるぎを彼らの手に渡して、殺させようとしておられるのです」(同5:21) PP 130.8

このような非難を聞いたモーセは、非常に苦しんだ。民の苦悩は、いっそう激しくなった。国内いたるところで、老人や青年たちが絶望の声をあげ、口をそろえて、彼らの悲惨な状態をモーセのせいにした。 PP 130.9

モーセは非常な苦境に陥り、神のみ前に出て叫んだ。「主よ、あなたは、なぜこの民をひどい目にあわされるのですか。なんのためにわたしをつかわされたのですか。わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、すこしもあな たの民を救おうとなさいません」(同5:22、23)。 PP 130.10

それに答えて、神はこうおおせになった。「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出すであろう」(同6:1)。神は、ご自分が父祖たちと結ばれた契約をモーセに思い起こさせ、それが必ず成就されるという確証をお与えになった。 PP 131.1

イスラエル人の中には、エジプトの奴隷生活中、ずっと主の礼拝を守り続けていた人々が少数ながらいた。この人々は、自分らの子供たちが、毎日、異教の憎むべきことをながめ、偽りの神々を礼拝したりさえするようになったのを見て、非常に心を痛めていた。彼らは、大きな苦しみのなかから、エジプト人のくびきからの解放と偶像礼拝の堕落的影響から救われることを、主に叫び求めた。彼らは、自分たちの信仰を隠そうとせず、天地の創造者であられる唯一の真の生きた神が、彼らの礼拝の対象であることを、エジプト人に知らせた。彼らは、世界の創造からヤコブの時代にわたってあらわされた神の存在と能力の証拠を列挙した。こうして、エジプト人はヘブル人の宗教を詳しく知る機会に恵まれていた。しかし、彼らは、奴隷から教えられることを屈辱とし、神を礼拝する者たちを買収によって誘惑した。そして、それがうまくいかないと、今度は脅迫と残酷な行為に及んだ。 PP 131.2

イスラエルの長老たちは、父祖に与えられた約束や、エジプトからの解放に関するヨセフの生前の預言をくり返して、兄弟たちの衰えがちな信仰を保とうとつとめた。それに喜んで封を傾けて信じる者もあれば、周りの状態を見て希望をいだこうとしない者もあった。エジプト人は、奴隷たちの間に伝わった情報を聞いて、そうした彼らの期待を嘲笑し、彼らの神の力をあなどって拒否した。エジプト人は、彼らが奴隷であることを指摘して、「もしあなたの神か正しく、あわれみに富み、エジプトの神々にまさる力を持っているなら、なぜあなたがたを自由な民にしないのですか」とののしって言った。エジプト人は、自分たち自身の状態を考えてみよと彼らに言った。エジプト人は、イスラエル人か偽りの神と呼ぶ神々を礼拝しているにもかかわらず、豊かで、強大な国民である。こうした繁栄を与え、イスラエル人を奴隷として彼らに与えたのも、この神々であると彼らは言うのであった。そして、自分たちには、主を礼拝する者を迫害し、滅亡させる能力があると誇った。パロもまた、ヘブル人の神は、その民を彼らの手から解放することは不可能だと誇っていた。 PP 131.3

多くのイスラエル人は、こうした言葉を聞いて希望を失った。万事がエジプト人の言う通りになるような気がした。彼らは、奴隷であった。監督が情け容赦なく命じるままに、すべて耐えていかねばならなかった。イスラエル人の子供たちは、狩り出されて殺された。そして、彼ら自身の生活も苦しかった。それでも、彼らは天の神を礼拝していた。もし、主がすべての神々よりすぐれたおかたであるなら、彼らを偶像礼拝者の奴隷にしたままほうっておかれない。神に忠実であった者たちは、彼らが奴隷生活に陥るのを主が許されたのは、イスラエルが神から離れ、異邦人と結婚し、偶像礼拝をしたためであることを知っていた。彼らは、神が間もなく圧制者のくびきを砕いてくださることを、力強く兄弟たちに語った。 PP 131.4

ヘブル人は、特別に信仰の試練や、真の苦しみ、困難にあわずに自由を獲得することを期待した。しかし、彼らには、まだ、救われる準備ができていなかった。彼らには、神に対する信仰がほとんどなかった。また、神が彼らのために働くのに最適だと思われるときまで、忍んで苦しみに耐える気持ちがなかった、異国に移住することに付随した困難にあうよりは、奴隷のままでいたほうがよいと思う者か多かった。また、エジブト人の生活になじんでしまった者は、エジプトに定住することを選んだ。そのため、主はパロの前で最初に力をあらわされたときに、彼らをお救いにならなかった。神は、いろいろな出来事を支配して、エジプト王の残酷な精神がつのるのを許し、それとともに、ご自身を民にあらわそうとなさった。人々は、神の義と力と愛とを見ることによって、エジプトを離れ、神の 奉仕に献身するようになるのであった。もし多くのイスラエル人が、これほどまでに堕落せず、また、エジプトを離れることをきらわなかったならば、モーセの働きは、はるかにやさしかったことであろう。 PP 131.5

主は、モーセに、神の恵みの新しい確証をもって、民のところに行き、救済の約束をくり返すようにお命じになった。モーセは、命令された通りに出ていったが、人々は耳を傾けようとしなかった。聖書にはこう書かれている。「彼らは心の痛みと、きびしい奴隷の務のゆえに、モーセに聞き従わなかった」。再び神の言葉がモーセに与えられた。「エジプトの王パロのところに行って、彼がイスラエルの人々をその国から去らせるように話しなさい」。モーセは失望して答えた。「イスラエルの人々でさえ、わたしの言うことを聞かなかったのに、どうして……パロが聞き入れましょうか」。モーセは、アロンを伴ってパロのもとに行き、もう一度「イスラエルの人々をエジプトの地から導き出」すことを要求するように命じられたのである(同6:9~13)。 PP 132.1

モーセは、神がエジプトに罰を下し、驚くべきみ力の現れによって、イスラエル人を救い出されるまで、王は、譲らないであろうと知らされた。モーセは、もし、王が災いからのがれようと思えば、避けることができるように、1つ1つの災いが降される前に、それがどういう性質のもので、どういう結果になるかを説明するのであった。1つの刑罰を彼が拒むたびに、さらに激しい刑罰が続いて降り、パロの高慢な心が低くされ、ついには天地の創造者をまことの生きた神として認めるようになるのであった。もし、エジプト人が主の命令に逆らうならば、主は、それを彼らの偉大な人々の知恵がどんなにむなしく、彼らの神々の力がどんなに弱いものであるかを知る機会にしようとされた。神は、エジプト人を偶像礼拝のゆえに罰し、彼らがなんの感覚もない神々から祝福を受けたといって誇っていることを沈黙させようとされた。こうして、諸国の人々は、神の力を知らされて、その偉大なわざに恐れおののくのである。また、神の民は、偶像礼拝をやめて、神に純粋な礼拝をささげるようになり、神ご自身の名があがめられるのである。 PP 132.2

モーセとアロンは、再びエジプト王の華麗な宮廷に入っていった。高い柱廊、輝く装飾、美しい絵画、異教の神々の彫像などに囲まれて、奴隷民族を代表する2人は、当時の最も強大な王国の君主を前にして、イスラエルの解放を命じる神の言葉を語うために立ったのである。王は、彼らが神からの命令を持っている証拠として奇跡を要求した。モーセとアロンには、そのような要求があった場合、どのように行動すべきかという指示が与えられていたので、アロンがつえをとり、パロの前に投げた。それは、へびになった。王は「知者と魔術師」を召しよせた。すると彼らも「おのおのそのつえを投げたが、それらはへびになった。しかし、アロンのつえは彼らのつえを、のみつくした」(同7:12)。そこで、王は、今までよりもさらに心をかたくなにして、自分の魔術師はモーセやアロンと同じ力を持っていると言った。王は、主のしもべたちを詐欺師であると非難し、彼らの要求をしりぞけても安全であると考えた。王は、彼らの言葉をあなどったが、彼らに危害を加えることは、神の力によってとどめられた。 PP 132.3

パロの前で、モーセとアロンが示した奇跡は、神のみ手によって行われたのであって、彼らが持っていた人間的な力によるものではなかった。これらのしるしと不思議は、「わたしは有る」という大いなるかたが、モーセをつかわされたことと、イスラエル人を解放して、彼らを生きた神に仕えさせることが1三の義務であることをパロに悟らせるためのものであった。魔術師たちも、しるしや不思議を行ったが、彼らは自分たちの力だけで行ったのではなく、主のわざに対抗するために、彼らに助けを与えた彼らの神、サタンの力によるものであった。 PP 132.4

魔術師たちは、ほんとうに彼らのつえをへびに変えたのではなかった。彼らは、大いなる欺瞞者の助けを得て、魔術を用いてへびのように見せかけることができたのであった。つえを生きたへびに変えることは、サタンの力の及ぼないことである。悪の君は、堕落天使の知恵と能力をことごとく身につけているとは いえ、創造する力、すなわち、生命を与える力は持っていない。これは、ただ神のみの特権である。しかし、サタンは自分の力でできることはことごとく行い、にせものをつくり出した。つえは、人間の日にはへびに変わって見えた。パロと廷臣は、それらがへびであると信じていた。その外観からは、モーセによってつくりだされたへびと区別することは全くできなかった。主は、ほんとうのへびがにせのへびをのみつくすようにされたが、パロはそのことでさえ神の力のわざではなく、自分の家来たちの魔術よりもさらにすぐれた魔術の結果であると思っていた。 PP 132.5

神の命令に逆らったパロは、そのかたくなな心を正当化しようとのぞみ、神がモーセを通して行われた奇跡を無視する口実をさがしていた。サタンはちょうど彼がほしがっていたものを与えた。サタンは、魔術師たちに行わせたしわざによって、モーセとアロンが単なる魔術師にすぎず彼らがたずさえてきた使命は、神からのものとして重要視する必要はないとエジプト人に思わせようとした。このように、サタンの欺瞞はその目的を果たし、エジプト人を大胆にして神にそむかせ、また、パロの心を堅くして不信に陥れた。サタンはさらに、モーセやアロンの使命が神からのものであるという信仰をゆるがせ、自分の手下のがわを勝利させようとした。王は、イスラエルの人々が、奴隷から解放されて生きた神に仕えることを喜ばなかった。 PP 133.1

しかし、悪の君が魔術師を通して不思議を行ったのには、もっと深い目的があった。彼は、モーセが、イスラエルの人々を奴隷のきずなから解放することは、人類を罪の支配から解放するキリストを予表していることをよく知っていた。彼は、キリストがこの世に現れるとき、彼が神から世に送られた証拠として力ある奇跡を行われるのを知っていた。サタンは、キリストの力におののいた。サタンは、モーセを通してなされた神のみわざのにせものをつくり出すことによって、イスラエルの解放をさまたげると共に、その後の時代にまで影響を及ぼし、人々にキリストの奇跡を信じさせまいとした。サタンは、絶えずキリストのみわざのにせものをつくり、自分の勢力範囲を確立しようとしている、サタンは、キリストの奇跡が、人間の技巧と能力の結果であるかのように見せかけて、人々にそう思わせている、彼は、このようにして、多くの人々の心からキリストが神の子であるという信仰を失わせ、あがないの計画を通して与えられる恵み深いあわれみの招きを、人々が退けるようにしむける。 PP 133.2

次の朝、モーセとアロンは川岸に行くように指示されたが、そこは王がしばしば行くところであった。ナイル川のはんらんが、全エジプトの食物と富の源であったので、川は神として礼拝されていた。王は祈りをささげるために毎日ここに来ていた。ここで2人の兄弟は、再びパロに伝えるべき言葉をくり返して告げ、それからつえをのべて水を打った。すると、その清い水は血に変わり、魚は死に、川は不快なにおいを放った。家の中の水も、飲み水としてたくわえてあった水も同じように血に変わった。「エジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった」。しかし「パロは身をめぐらして家に入り、またこのことをも心に留めなかった」(同7:22、23)。この災いは7日間続いたが、なんの効果もなかった。 PP 133.3

再びつえが水の上にのべられて、かえるが川からのぼって国中にひろがった。かえるは家々に群がり、寝室に入り、かまどやこねばちにさえ入った。エジプト人は、かえるを神聖なものとしていたので殺そうとしなかった。しかし、かえるのわざわいはついに耐えられなくなった。かえるはパロの宮殿にさえ群がったので、王は、たまりかねてそれを取り除かせた。 PP 133.4

魔術師たちはかえるをつくり出すようには見えたが、それを取り去ることはできなかった。パロはそれを見て、いくらか心を低くした。彼は、モーセとアロンを召して言った。「かえるをわたしと、わたしの民から取り去るように主に願ってください。そのときわたしはこの民を去らせて、主に犠牲をささげさせるでしょう」(同8:8)。2人は、王が以前に高慢なことを言ったことを彼に指摘して災いが取り去られることを祈る時を定めてもらいたいと王に求めた。王は、次の日を指定した。彼は、それまでにかえるが自然にいなくな ってしまい、彼がイスラエルの神に服従するというはなはだしい屈辱にあわなくてもすむようにとひそかに願っていた。しかし、災いは定められた時まで続いた。そして、エジプトのいたる所で死んだかえるが腐って、その死がいが空気を汚染した。 PP 133.5

主は、かえるを一瞬のうちにちりに帰すことがおできになったが、そうはなさらなかった。それは、かえるが取り去られたのち、王と人々が、それを魔術師たちの行う魔法の結果であるということのないためであった。かえるは死に、1か所にうず高く集められた。これこそ、王と全エジプトの人々が、彼らのむなしい哲学では否定することのできない証拠であった。これは、魔術によって行われたものではなくて、天の神の刑罰であった。「パロは息つくひまのできたのを見て、主が言われたように、その心をかたくなに」した(同8:15)。アロンが神の命令を受けて手をのべると、エジプト全国にわたって、地のちりがぶよになった。パロは、魔術師を呼び出して同じことをさせたが、彼らにはできなかった。このように神のわざはサタンのわざよりもすぐれていることが明らかにされた。魔術師たち自身も、「これは神の指です」と認めた。しかし、王はまだ動かされなかった。 PP 134.1

訴えも警告も効果がなかったので、もう1つの刑罰が下った。それが偶然に起こったと言われることのないように、それがいつ起こるかという予告がなされた。あぶが家々を満たし、地の上に群がったので「地はあぶの群れのために害をうけた」(同8:24)。これらのあぶは大きく有毒で、人間や動物はそれにかまれると激しい痛みをおぼえた。この刑罰は、すてに予告されていたように、ゴセンの地には及ぼなかった。 PP 134.2

そこでパロは、イスラエル人に、エジプトで神に犠牲をささげる許可を与えたが、彼らは、そのような条件を受け入れなかった。モーセは言った。「そうすることはできません。……もし、エジプトびとの目の前で、彼らの忌むものを犠牲にささげるならば、彼らはわたしたちを石で打たないでしょうか」(同8:26)。 PP 134.3

ヘブル人が犠牲としてささげるように要求されていた獣は、エジプト人が神則なものとしていた動物に属していた。こうした動物は非常に尊ばれていたので、たとえ事故によるものであっても、1匹でも殺すことは死刑に値する犯罪であった。ヘブル人がエジプトで、彼らの主人の気にさわらないように礼拝することはほとんど不可能であった。モーセは、3日間荒野に行かせてほしいと再び申し出た。王はそれに同意し、災いが取り去られるように祈願してほしいと彼に願った。彼らは祈ることを約束した。そして、もう欺くことはやめてほしいと王に強く訴えた。災いはととめられたが、王は、頑強に反逆して心をかたくし、なおも従おうとしなかった。 PP 134.4

もっと恐ろしい打撃が続いた。野にいるエジプトの全家畜に疫病が下った。神聖な獣も、雄牛、雌牛、羊、馬、らくだ、ろばなど労役用の家畜も殺された。ヘブルびとがその刑罰から免れることは明らかに宣言されていたので、パロがイスラエル人の家に使者を送ったところ、モーセの宣言が正しかったことが証明された。「イスラエルの人々の家畜は1頭も死ななかった」(同9:6)。王は、それでもなお頑強に逆らった。 PP 134.5

次に、モーセは、かまどの灰をとって、「パロの目の前で天にむかって、まき散らしなさい」と命令された(同9:8)。この行為には深い意義があった。400年前、神はアブラハムに、彼の民が将来迫害されることを、けむっているかまどと、燃える燈火の象徴によってお小しになっていた。神は、彼らを迫害する者をさばき、捕われている人々に多くの所有物を与えて連れ出すであろうと宣言しておられた。イスラエル人は、エジプトで長い間苦難のかまどの中で苦しんてきた。モーセのこの行為は、彼らにとって、神かその契約を覚えておられることと、彼らの解放の時が来たことの保証であった。 PP 134.6

天に向かってまかれた灰の細かい粒子が、エジプト全国にまき散らされると、それはいたる所で「人と獣に付いて、うみの出るはれもの」を生じさせた(同9:9)。祭司と魔術師は、それまでパロのかたくなさ を助長していたが、今や、その刑罰は彼らにまで及んだ。彼らは、不快きわまる苦しい病に打ちひしがれ、誇っていた力も、ただ彼らをはずかしめるだけになり、もはやイスラエルの神に立ち向かうことができなくなった。全国民は自分の身さえ守ることのできない魔術師にたよっていることの愚かさを知らされた。 PP 134.7

それでもなお、パロの心はさらにかたくなになっていった。そこで、主は彼にみことばを送って宣言された。「わたしは、こんどは、もろもろの災を、あなたと、あなたの家来と、あなたの民にくだし、わたしに並ぶものが全地にないことを知らせるであろう。……しかし、わたしがあなたをながらえさせたのは、あなたにわたしの力を見させるため」である(同9:14~16)。これは、神が、この目的のために、彼を生かしておかれたということではなく、むしろ神のみ摂理が諸事件を支配して、イスラエルの解放のために定められたちょうどその時に、彼を王位につけたということである。この高慢な暴君は、彼の犯した罪により、神のあわれみを受けるに値しない者となっていたが、それでも彼の頑迷さを通して、主がエジプトの地で驚くべきことをあらわすために彼の生命は保たれていた。諸事件のなりゆきを定めるのは、神の摂理である。神は、神の力の大きな現れにあえて逆らおうとしない、もっとあわれみ深い王を王位につけることもおできであった。しかし、それでは、主の目的は成就されなかったであろう。神の民がエジプト人のはなはだしい残酷な取りあつかいを受けることを神が許されたのは、彼らが偶像礼拝の堕落的な影響について欺かれることのないためであった。主は、こうしたパロとの交渉のうちに偶像礼拝に対する憎悪を示し、残酷と圧迫とを罰せずにはおかない神の決意を示された。 PP 135.1

神は、パロについて宣言された。「わたしが彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう」(同4:21)。王の心をかたくなにするために、何か超自然の力が用いられたのではない。神は、パロに神の力の最も著しい証拠をお示しになったのであったが、王はかたくなにも光を心に留めることを拒んだ、無限の力の表小をことごとく退けた彼は、反抗の決意をさらに固めた。彼が最初の奇跡を退けたときにまいた反逆の種は、その実を結んだ。彼が、彼白身の道を歩む危険を冒し続け、ますます強精の度合いを増すにつれて、彼の心はいよいよかたくなになり、ついに、長子の冷たい死に顔をながめなくてはならないようになった、 PP 135.2

神は、そのしもべを通して人間に語り、注意や警告をお与えになり、その罪を非難なさる。神は、すべての人の品性が決定される前に、そのあやまちを正す機会をお与えになるが、もしその人が正されることを拒否するならば、神のみ力は、その人の行為の傾向をほかに向けるために干渉することをしない。彼には同じことをくり返すことが容易なのである。彼は、聖霊の感化に反対して心をかたくなにしている。光を退け続けると、さらに強力な感化力であっても永続的な印象をうけつけなくなるのである。 PP 135.3

1度、試みに負けた者は、2度目にはさらにたやすく屈服する。罪をくり返すたびに抵抗する力は弱まり、目は暗くなり、確信は消え去る。まかれた放縦の種はみな実を結ぶ。神は、その収穫を妨げるために奇跡を行うようなことはなさらない。「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラテヤ6:7)。神の真理に対して神を恐れぬ不敵さと、愚かな無関心を示す者は、彼白身がまいたものの収穫を刈り取っているのである。こうして、多くの者は、かつて彼らの魂をゆり動かした真理を、冷たい無関心な態度で聞くようになるのである。彼らは、真理に対して怠慢と反抗の種をまき、そのような収穫を刈り取るのである PP 135.4

悪の道は、変えようと思えばいつでも変えられるし、憐れみの招きを軽くあしらっても、なおくり返しその招きを感じることができると考えて、良心の声をしずめている人々は、非常に危険な道を歩んでいる。彼らは、自分の力のすべてを大反逆者サタンの側に置いておきながら、いよいよどうにもならなくなって危険に囲まれたときに、自分の指導者を変えればよいと考えている。しかし、これはそれほど容易にできる ことではない。罪にふけってきた生涯の体験、教育、訓練などが品性をすっかり形成しているのであるから、彼らはもはやイエスのみかたちを受け入れることができなくなっている。もし光が彼らの道を照らしていなかったならば、事情は異なっていたであろう。憐れみのみ手がのべられて、その申しいでを受け入れる機会が彼らに与えられるかもしれない。しかし、長い間拒まれ、侮られてきた光は、ついに取り去られてしまうのである。 PP 135.5

パロには、次に雹の災いが下されることになり、警告が与えられた。「それゆえ、いま、人をやって、あなたの家畜と、あなたが野にもっているすべてのものを、のがれさせなさい。人も獣も、すべて野にあって家に帰らないものは降る雹に打たれて死ぬであろう」(出エジプト9:19)。エジプトでは、雨や雹は珍しく、予告されたようなあらしはこれまでになかった。この知らせは、すみやかに広まり、主の言葉を信じた者はみな彼らの家畜を集めたが、警告を侮った者は家畜を野に残しておいた。こうして、刑罰のうちにも神のあわれみがあらわされ、人々は試みられ、どれだけの人が神のみ力のあらわれを通して神を恐れるようになったかが明らかにされた。 PP 136.1

予告通りに、嵐がやってきた。雷と雹に火がまじり、「エジプト全国には、国をなしてこのかた、かつてないものであった。雹はエジプト全国にわたって、すべて畑にいる人と獣を打った。雹はまた畑のすべての青物を打ち、野のもろもろの木を折り砕いた」(同9:24、25)。破滅と荒廃が、滅びの天使の通ったあとを示していた。ゴセンの地だけが助かった。地は、生きた神の支配のもとにある。そして、白然は、神のみ声に従っている。だから神に従うことだけが安全であることが、エジプト人に明らかに示された。 PP 136.2

全エジプトは、神の刑罰の恐ろしい降下を前にしておののいた。パロは急いで2人の兄弟を召して叫んだ。「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください。この雷と雹はもうじゅうぶんです。わたしはあなたがたを去らせます。もはやとどまらなくてもよろしい」。モーセは答えた。「わたしは町を出ると、すぐ、主にむかってわたしの手を伸べひろげます。すると雷はやみ、雹はもはや降らなくなり、あなたは、地が主のものであることを知られましょう。しかし、あなたとあなたの家来たちは、なお、神なる主を恐れないことを、わたしは知っています」(同9:27~30)。 PP 136.3

モーセは、争闘がまだ終わっていないことを知っていた。パロの告白と約束は、彼の気持ちが全く変わったためではなく、恐怖と苦悩のためやむを得ずなされたものであった。しかし、モーセは彼の願いを聞き入れると約束した。それは王に、これ以上強情をはる機会を与えたくなかったからである。預言者は、激しい嵐も気に留めず出て行った。パロとパロのすべての家来たちは、主がその使命者を守護なさる力を目撃していた。モーセは町の外に出て、「主にむかって手を伸べひろげたので、雷と霊はやみ、雨は地に降らなくなった」(同9:33)。ところが、王は恐怖心が去るとすぐ、もとのかたくなな心にもどった。 PP 136.4

そこで、主はモーセに言われた。「パロのもとに行きなさい。わたしは彼の心とその家来たちの心をかたくなにした。これは、わたしがこれらのしるしを、彼らの中に行うためである。また、わたしがエジプトびとをあしらったこと、また彼らの中にわたしが行ったしるしを、あなたがたが、子や孫の耳に語り伝えるためである。そしてあなたがたは、わたしが主であることを知るであろう」(同10:1、2)。主は、ただご自分だけがまことの生きた神であるという信仰を強くイスラエルの人々にいだかせるために、そのみ力をあらわされた。神は、イスラエル人とエジプト人の間の相違について明らかな証拠をお与えになり、すべての国民が侮り、圧迫しているヘブル人が、天の神の保護のもとにあることを諸国民に知らせようとされた。 PP 136.5

モーセは、もし王がいつまでも強情をはり続けるならば、いなごの災いが送られ、それは地のおもてをおおい、残されているすべての青物を食べ尽くし、家々を満たし、宮殿さえも満たすであろうと警告した。モーセは、そのようなこらしめは「あなたの父たちも、また、祖父たちも、彼らが地上にあった日から今日に至 るまで、かつて見たことのないものである」と言った(同10:6)。 PP 136.6

パロ王の重臣たちは、驚いて立ちすくんだ。国は家畜の死によってばく大な損失をこうむっていた。多くの人が雹で死んだ。森林は倒され、穀物はそこなわれた。彼らは、ヘブル人の労力で得たものを急速にことごとく失っていた。全上は飢餓の脅威にさらされていた。つかさたちや廷臣たちは、王のまわりにつめ寄り、怒って要求した。「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」(同10:7)。 PP 137.1

モーセとアロンが再び召されて行くと、王は彼らに言った。「行って、あなたがたの神、主に仕えなさい。しかし、行くものはだれだれか」(同10:8)。モーセは言った。「わたしたちは幼い者も、老いた者も行きます。むすこも娘も携え、羊も牛も連れて行きます。わたしたちは主の祭を執り行わなければならないのですから」(同10:9)。 PP 137.2

王は激しい怒りに満たされた。「万一、わたしが、あなたがたに子供を連れてまで去らせるようなことがあれば、主があなたがたと共にいますがよい」と彼は叫んだ。「あなたがたは悪いたくらみをしている。それはいけない。あなたがたは男だけ行って主に仕えるがよい。それが、あなたがたの要求であった」(同10:10、11)。彼らは、ついにパロの前から追い出された。パロは、重労働によってイスラエル人を滅ぼそうとしたのだが、今度は、彼らの幸福に深い関心をよせ、子供たちをやさしく見守っているかのように見せかけた。彼の真の目的は、男たちが帰ってくる保証として女と子供を手もとに置いておくことであった。 PP 137.3

さて、モーセがつえを地の上にさしのべると、東風が吹いていなごを運んで来た。「その数がはなはだ多く、このようないなごは前にもなく、また後にもないであろう」(同10:14)。いなごは空をおおったので、地は暗くなった。そして、残されていた青物をことごとく食べ尽くした。パロは、大急ぎで預言者たちを召して言った。「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。それで、どうか、もう1度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」(同10:16、17)。彼らがそのようにすると、強い西風がいなごを紅海に運んでいった。王はそれでもなお、彼のかたくなな決意を変えようとしなかった。 PP 137.4

エジプト人は、まさに絶望に陥るところであった。これまで彼らに下った天罰は、ほとんど耐えがたいように思われ、これから先は、どうなることかとあやぶまれた。国民は、彼らの代表者として、パロを礼拝していた。ところが、自然界のすべての力をみ心のままにお用いになる真の神に、パロが逆らっていることを彼らの多くははっきりと悟った。ヘブルの奴隷たちは、全く奇跡的な方法で助けられたために、救済の確信をいだくようになった。監督たちはこれまでのように彼らを抑圧しようとしなかった。エジプトのいたるところで奴隷たちが立ち上がって、その受けた圧迫の報復をするのではないかと、人々はひそかに恐れた。人々は、いたるところで息を殺して次にはいったい何が起こるだろうかとささやき合っていた。 PP 137.5

突然、暗黒が全国にのぞんだ。それは非常に濃い暗黒であったので、「そのくらやみは、さわれるほどであ」った(同10:21)。人々から光がとり去られたばかりでなく、空気もまた息がつまるようであったので、呼吸するのも困難であった。「3日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった」(同10:23)。太陽と月はエジプト人の礼拝の対象であった。この不思議な暗黒の中で、エジプト人と彼らの神々は、奴隷たちのために働き出した力に打たれた。この刑罰は、恐るべきものであったとはいえ、神は憐れみ深く、滅ぼすことを喜ぶ方ではないということを証拠だてるものであった。神は最後の最も恐ろしい災いを彼らの上に下す前に、人々に反省と悔い改めのときをお与えになった。 PP 137.6

恐怖は、ついに、パロを動かしてさらに譲歩させた。3日のくらやみののち、パロはモーセを召し、もし、羊と牛を残すならば、人々を去らせようと言った。堅く決意したヘブルびとは、「ひずめ1つも残しません」と答えた。「わたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。王は、怒りをおさえることができなかった。「わたしの所から去りなさい。心して、わたしの顔は2度と見てはならない。わたしの顔を見る日には、あなたの命はないであろう」とパロは言った。モーセは言った。「よくぞ仰せられました。わたしは、2度と、あなたの顔を見ないでしょう」(同10:26、28、29)。 PP 138.1

「モーセその人は、エジフトの国で、バロの家来たちの日と民の目とに、はなはだ大いなるものと見えた」(同11:3)。モーセは、畏敬の念をもってエジプト人に迎えられた。人々は彼だけが災いを取り去る力を持っている者であるとあがめていたので、王も彼に害を加える勇気がなかった。彼らは、イスラエル人にエジプトを立ち去る許可が与えられることを願っていた。モーセの要求に最後まで反対したのは王と祭司たちであった。 PP 138.2