人類のあけぼの
第24章 過越の祭り
本章は、出エジプト記11章、12:1~32に基づく PP 138.3
イスラエルの解放を叫ぶ要求が、はじめてエジプト王に示されたとき、最も恐ろしい災いの警告が与えられた。モーセは、パロに、次のように言うように命令された。「主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう」(出エジプト4:22、23)。イスラエル人はエジプト人に軽蔑されていたが、神からは、神の律法の保管者として選ばれる光栄に浴していた。彼らには、特別の祝福と特権が与えられ、諸国民の間で、長子がほかの兄弟たちよりすぐれているのと1司様の優位を占めていた。 PP 138.4
エジプトが最初に警告された刑罰は、最後に与えられるのであった。神は、忍耐深く、憐れみに富んでおられる。神は、ご自分のかたちに造られた者を、やさしく守られる。もし、エジプト人が、畑の産物や羊や牛の群れなどを失ったとき、悔い改めていたならば子供たちは打たれなかったであろう。しかし、国民は心をかたくなにして神の命令を退けたために、今、最後の災いが訪れようとしていた。 PP 138.5
モーセが、再びパロの前に姿を現すならば殺されることになっていた。しかし、神の最後のことばを、反抗的な王に伝えなければならなかったので、モーセは、また王の前に来て、その恐ろしい宣告をするのであった。「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。エジフトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかってなく、また、ふたたびないであろう』と。しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます」(同11:4~8)。 PP 138.6
この宣告が執行される前に、主はモーセを通して、イスラエルの子らにエジプトから出て行くことについての指示と、特に、迫っている刑罰から守護されるようにするための指示を与えられた。それぞれ家族は自分たちだけか、あるいは他の家族と一緒になるかし て、「傷のない」小羊、または小やぎをほふり、ヒソプの束でその血を「家の入口の2つの柱と、かもい」に塗らなければならなかった。それは滅びの天使が真夜中に通過するとき、その家にはいらないためであった(出エジプト12:1~28参照)。彼らは、モーセが言ったように、その夜、焼いた肉に種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならなかった。「腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である」(同12:11)。 PP 138.7
主は言われた。「その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。……その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう」(同12:12、13)。 PP 139.1
この大いなる解放を記念して、後世のイスラエル人は、みな1つの祭りを年ごとに守ることになった。「この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない」。後世、彼らがこの祭りを行うとき、彼らはモーセが命じたようにこの大いなる解放の物語を、その子孫にくり返して聞かせなければならなかった。「あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」(同12:14、27)。 PP 139.2
さらに、人間と家畜のういごは共に主のものとなり、あがないによってのみ、自分たちのものとなったが、それはエジプトのういごが殺されたとき、イスラエルのういごが恵みによって救われたとはいえ、もし、贖いの犠牲がなかったならば、同じ運命にさらされていたことを認めるものであった。「ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなろであろう」と主は言われた(民数記3:13)。主は、幕屋の制度を制定されたのち、聖所の奉仕に当たる者としてイスラエルのういこの代わりに、レビの部族をお選びになった。主は言われた。「彼らはイスラエルの人々のうちから、全くわたしにささげられたものだからである。イスラエルの人々のうちの初めに生れた者、すなわち、すべてのういこの代りに、わたしは彼らを取ってわたしのものとした」(民数記8:16)。しかし、すべての人々には、神の憐れみを認めるしるしとして、長子の贖い金を払うことが要求された(同18:15、16参照)。 PP 139.3
過越の祭りは記念の祭りであると共に、また、一象徴的な祭りでもあった。それはエジプトからの解放を指示していたばかりでなく、キリストがその民を罪の束縛から自由にして成就される、さらに驚くべき解放をも表示していた。犠牲の小羊は、われわれの救いの唯一の希望である「神の小羊」をあらわしている。「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ」と使徒は言った(1コリント5:7)。過越の小羊はほふられるだけでは十分ではなく、その血を柱に注がなければならなかった。そのように、キリストの血といさおしは魂にも適用されなければならない。われわれは、キリストが死なれたのは世のためばかりでなく、われわれ1人1人のためであることを信じなければならない。われわれは、順いの犠牲の功績を自分のものとしなければならない。 PP 139.4
血を注ぐのに用いられたヒソプは、清めの象徴で、重いひふ病や、死人にさわって汚れた人々のきよめにも用いられていた。詩篇記者の祈りにも、そのような意味がうかがわれる。「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう」(詩篇51:7)。 PP 139.5
小羊は、そのまま調理され、骨は1本も折られなかったが、そのようにわれわれのために死なれることになっていた神の小羊の骨は、1本でも折れてはならなかった(ヨハネ19:36参照)。こうして、キリストの犠牲の完全さが示されていた。 PP 139.6
肉は、食べなければならなかった。われわれは、罪が赦されるためにキリストを信じるというだけでは、まだ十分ではない。われわれはみ言葉を通して、キリストから来る霊的な力と栄養とを、信仰によって絶えず受けていなければならない。キリストは言われた。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり」。キリストはこの言葉の意味を説明して、こう言われた。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(同6:53、54、63)。イエスは、父の律法を受け入れ、その生活において律法の原則を実行し、心の中にその精神と恵みの力をあらわされた。ヨハネは言っている。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(同1:14)。 PP 140.1
キリストに従う者は、彼の経験にあずかる者でなければならない。彼らは神の言葉を受け入れ、消化し、それが彼らの生活と行為を動機づける力となるようにしなければならない。彼らは、キリストの力によって彼のかたちに変えられ、神のご性質を反映しなければならない。彼らは、神の子の肉を食べ、血を飲まなければならない。そうしなければ、彼らの中に生命はない。キリストの精神と働きが彼の弟子たちの精神となり、働きとなるべきである。 PP 140.2
小羊は苦菜と共に食べなければならなかったが、それはエジプトでの奴隷の苦しさを示していた。そのようにわれわれがキリストを食べるとき、われわれは心のうちで自分の犯した罪の悔い改めをしていなければならない。種入れぬパンを用いたことにも深い意味があった。それは過越の祭りのさだめに明らかにしるされており、ユダヤ人も実際に厳格に守っていたので、その祭りの期間中、彼らの家でパン種を見ることは絶対になかった。同じようにキリストから生命と栄養を受ける者はみな、罪のパン種を取り除かなければならない。パウロは、コリントの教会にそのように書いている。「新しい粉のかたまりになるために、古いバン種を取り除きなさい。……わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いバン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか」(1コリント5:7、8)。 PP 140.3
奴隷たちは、自由を得るに先だって、間もなく成就されようとしている大いなる解放を信じていることを表さなければならなかった。血のしるしを彼らの家に塗り、彼らとその家族はエジプト人から離れて、それぞれの家の中に集まっていなければならなかった。もしイスラエル人が、与えられた命令のどのような点でも、無視したり、彼らの子供をエジプト人から離すことを怠ったり、小羊を殺しても門の柱に血を塗ることを忘れたり、あるいはだれか家の外に出ているようなことがあったならば、彼らは安全ではなかったであろう。彼らが、必要なことをことごとくすませていると心から思っていたとしても、ただ真剣にそう思っただけでは救われなかったのである。主の命令に注意を払わなかった者は、みな滅びの天使によって、そのういごを失うのであった。 PP 140.4
イスラエルの人々は、従順によって彼らの信仰の証拠を示さなければならなかった。そのように、キリストの血の功績によって救われようと望んでいる者は、みな救いを得るために、自分でもしなければならないことがあるのを知るべきである。罪の刑罰からわれわれを贖うことができるのはキリストだけである。しかし、われわれも罪から離れて服従しなければならない。人間は信仰によって救われるのであって、行いによるのではないが、その人の信仰は、行いによって示される必要がある。神は、み子を罪のなだめの供え物として死ぬためにお与えになり、真理の光、すなわち生命の道を明らかにされた。そして必要なてだてと、さだめと、特権をお与えになった。そこで人間もこうした救いの方法と力を合わせなければならない。神がお備えになった助けを感謝して活用し、神のご要求をことごとく信じ、それに従わなければならない。 PP 140.5
モーセがイスラエル人に向かって、彼らの救済のために神が備えられたことをくり返して述べたとき、「民は……伏して礼拝した」(出エジプト12:27)。喜ばしい自由の希望も、彼らの圧迫者の上に臨もうとしている刑罰の恐ろしさも、また、彼らが急いで立ち去るための苦心と労力なども、すべて一時は忘れ去られて、彼らの恵み深い解放者であられる神への感謝で心は満ちあふれた。エジプト人の多くは、ヘブル人の神こそ唯一の真の神であることを認めるようになっていた。これらの人々は、滅びの天使が国中をめぐるとき、イスラエルの家に避難させてもらいたいと嘆願した。彼らは喜んで迎えいれられた。彼らはその後、ヤコブの神に仕え、イスラエルの民と共にエジプトから出て行くことを誓った。 PP 141.1
イスラエル人は、神がお与えになった指示に従った。彼らは大急ぎで、秘密のうちに出発の準備をした。家族が集められ、過越の小羊がほふられて、肉は火で焼かれ、種入れぬパンと苦菜がそなえられた。家庭の祭司である父親は、門柱に血を注ぎ、家の中にはいって家族と一緒にいた。彼らは大急ぎで、黙って過越の小羊を食べた。人々は、恐れおののいて、祈りつつ見張っていた。長子たちの心は、じょうぶなおとなから小さな子供にいたるまで、言うに言われぬ恐怖に襲われた。父親と母親は、その夜下ろうとしている恐ろしい災いを思いながら、彼らの愛する長子をその腕にだきしめていた。しかし、イスラエルのどの家にも死の天使は来なかった。血のしるし(それは救い主の保護のしるしであった)が、彼らの戸にあったので滅ぼす者ははいらなかった。 PP 141.2
真夜中に、「エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである」。国のすべてのういごは「位に座するパロのういこから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういご」は滅ぼす者にうたれた(同12:30、29)。エジプトの広大な領土のいたるところで、すべての家庭が誇りとしていたものが殺された。悲しむ者の叫びと嘆く声がどこからも聞こえた。王と廷臣たちは顔を青くし、足をふるわせながら、この恐ろしいありさまをながめて立ちすくんだ。パロは、前に、自分がどのように大声で叫んだかを思い出した。「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」(同5:2)。今、彼の天に対する不敵な誇りはくじかれた。「夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、『あなたがたとイスラエルの人々は立ってわたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい』」。王の大臣たちも国民も、イスラエル人に嘆願して「すみやかに国を去らせようとした。彼らは『われわれはみな死ぬ』と思ったからである」(同12:31、32、33)。 PP 141.3