キリストの実物教訓

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第20章 愚かな金持ち

本章は、ルカ12:13~21に基づく COL 1282.1

キリストは人々を教えておられた。そして、いつものように、弟子たちだけでなく、他の人々もキリストの周りに集まっていた。キリストは弟子たちに、彼らがやがて役割を演ずべき場面について語っておられた。彼らは、自分たちにゆだねられた真理を、広く宣べ伝えなければならなかった。彼らは、この世の支配者たちと争うこととなるのも、覚悟しなければならなかった。キリストのために彼らは法廷に立たされ、為政者や王たちの前に呼び出されなければならなかった。キリストは、だれも反論することができないような知恵を彼らに与えると保証なさった。群衆の心を感動させ、狡滑な敵を論駁(うんばく)なさったキリストのみ言葉は、キリストの内に聖霊の力が宿っているのを証ししたが、キリストは彼に従う者にこの聖霊の力を約束なさった。 COL 1282.2

しかし、天の恵みを、ただ利己的な目的のためにのみ望んだ人々が大勢いた。彼らは、真理を明らかにお示しになるキリストの驚くべき力を認めた。彼らは、支配者や為政者たちの前で語る知恵が与えられるという約束が、弟子たちに与えられるのを耳にした。キリストは、自分たちの世的な利益のためにも、その力を貸してはくださらないであろうかと彼らは考えた。 COL 1282.3

「群衆の中のひとりがイエスに言った、『先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください。』」神はモーセを通して、財産の譲渡について、指示を与えておられた。長男は、父の財産のうち、他の子供たちの2倍を受けたが、他の兄弟たちは平等に分配を受けることになっていた。この人は、自分の分け前が兄弟に詐取されたと考えた。そして自分の力だけでは、自分が当然受けるべき分であると思われるものを手に入れることができなかった。しかし、もしキリストが口添えをしてくだされば、必ず自分の希望通りになるものと彼は考えた。この男は、キリストの、人の心を動かす訴えや、学者やパリサイ人に対する厳粛な譴責の言葉を聞いていた。そのような命令の言葉が兄弟に向かって語られるならば、彼は当方の権利を無視して分け前を渡さないようなことはないだろうと、彼は考えた。 COL 1282.4

キリストが厳粛な教えをたれておられた最中に、この男は自分の利己的な性質をあらわした。彼は、主の能力を、自分の現世の問題の解決に役立たせようと思ったのであるが、その霊的真理は彼の心を捕らえなかった。彼の心は、遺産を獲得することに奪われていた。富んでおられたにもかかわらずわたしたちのために貧しい者となられた栄光の王なるイエスは、神の愛という宝を彼に示しておられた。聖霊は彼に、「朽ちず汚れず、しぼむことのない」財産を受け継ぐ者となるようにと訴えていた(Ⅰペテロ1:4)。彼は、キリストのみ力の証拠を見ていた。今こそ、偉大な教師に自分の心の最大の願いを表明すべき時が来た。しかし、バンヤンの寓話の中のくまでを持った男のように、彼の目は地上に向けられていた。彼は上の方にある冠を見なかった。魔術師シモンのように、彼は、神の賜物を、世的な利益を得る手段と考えたのであった。 COL 1282.5

救い主の地上における使命は、終わりに近づいていた。恵みの王国の建設にあたって、主がなすべきことを成し遂げる時は、わずか数か月しか残っていなかった。それなのに、人間の貪欲は、一片の土地に関する争いのために、主をそのみ働きからそらそうとした。しかし、イエスは、その使命からそらされるべきではなかった。イエスは、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」とお答えになった。 COL 1282.6

イエスは、この人に何が正しいかを告げることもおできになったろう。イエスは、その場合に何が正当かを知っておられた。しかし、兄弟たちは、いずれも、貪欲な心を持っていたための争いであった。キリストは、こういう論争を解決することはわたしの仕事ではないと言われた。キリストは、福音の宣教という別の目的 のため、すなわち永遠の実在に対して人々の目を覚まさせるという目的のために、来られたのであった。 COL 1282.7

この場合のキリストのご処置は、キリストの名によって奉仕するすべての者に対する教訓である。キリストが12人の弟子たちをおつかわしになった時、彼は、「行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」と言われた(マタイ10:7、8)。彼らは、人々の現世的な問題の解決にあたるべきではなかった。 COL 1283.1

彼らの仕事は、神と和らぐよう人々を説き勧めることであった。この仕事にたずさわる彼らに、人類を祝福する力があった。人間の罪と悲しみに対する唯一の救済策は、キリストである。キリストの恵みの福音のみが、社会ののろいとなっているさまざまの悪を除くことができる。富んだ者が貧しい者に対して行う不正、貧しい者が富んだ者に対していだく憎しみは、共に、利己心に根ざしており、これはキリストへの屈服によってのみ根絶される。キリストのみが、利己的な罪の心を取り去り、新しい愛の心をお与えになるのである。キリストの僕は、天からつかわされた聖霊によって福音を宣べ伝え、キリストが人々のためにお働きになったように働くべきである。その時、この人類を祝福し高める働きにおいて、人間の力では全くなしとげられないような結果があらわされるのである。 COL 1283.2

主は、この質問者を悩ましていた問題、また同様なすべての争いの根底を突いて、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」と言われた。 COL 1283.3

「そこで1つの譬を語られた、『ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、「どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが」と思いめぐらして言った、「こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ。」すると神が彼に言われた、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか。」自分のために宝を積んで神に対して富まない者はこれと同じである』。」 COL 1283.4

愚かな金持ちのたとえによって、キリストは、この世をすべてとする者の愚かさをお示しになった。この人は、すべての物を神から受けていた。太陽は彼の土地の上を照らしていた。太陽の光は正しい者の上にも正しくない者の上にも輝くのである。天からの雨は、悪人の上にも善人の上にも降り注ぐ。主は植物を茂らせ、畑に豊かに物を生ぜしめられた。 COL 1283.5

この金持ちは、農産物をどうすべきかと心を悩ました。彼の倉はあふれるほどであり、余分に取れた物を入れる場所もなかった。彼は、すべての恵みの源である神のことを思わなかった。彼は、貧しい人々を助けることができるように、神が彼を神の物をつかさどる家令とされたことを自覚しなかった。彼は、神の賜物を分配するという尊い機会を持ちながら、自分の安楽のことしか考えなかった。 COL 1283.6

貧しい者、孤児、やもめ、苦しむ者、悩んでいる者の窮状は、この金持ちも知っていた。持ち物を施す多くの機会があった。豊かな持ち物から1部を分けてやることは、彼には容易なことだったろう。そうすれば、多くの家庭は困窮から解放され、飢えている多くの人々は食物を与えられ、多くの裸の者は着物を着せられ、多くの人々の心は喜び、パンと着物を求める多くの祈りは答えられ、賛美の調べが天に上ったことであろう。「神よ、あなたは恵みをもって貧しい者のために備えられました」(詩篇68:10)。この金持ちに与えられた祝福を通して、多くの人々の困窮に対する豊かな備えがなされていた。しかし、彼は、貧しい人々の叫びに対して心を閉じ、その僕たちに、「こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分 の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」と言ったのである。 COL 1283.7

この人の目標は、滅んで行く獣の目標より高くはなかった。彼は、神も天国も未来の生命もないかのように、自分の持つものはすべて自分の物で、神や人にはなんの負うところもないかのように生活していた。詩篇記者は、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」と書いた時、このような人間のことを述べたのであった(詩篇14:1)。 COL 1284.1

この人は、自己のために計画を立て、生活した。彼は、未来に対して十分の備えができたのを見届けた。彼にとって今や、勤労の実をたくわえ、楽しむことがすべてであった。彼は、自分を他の人々よりも恵まれた者と思い、自分の賢明な経営法を手柄とした。彼は町の人々から、すぐれた判断力を持っ人、富裕な市民としてあがめられた。「みずから幸いなときに、人々から称賛され」るものだからである(詩篇49:18)。 COL 1284.2

しかし、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」である(Ⅰコリント3:19)。金持ちが、楽しい年月を期待していた時、主は全く別の計画を立てておられた。この不忠実な家令に言われたことは、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」という言葉であった。この要求には金で応ずることはできない。彼が蓄えた富であっても、刑の執行猶予を買い取ることはできない。一瞬にして、彼が一生をかけて獲得したものは、彼にとって全く無価値なものとなる。「そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」。彼の広大な畑も、一杯に満たされた倉も、彼の支配の下を離れる。「彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません」(詩篇39:6)。 COL 1284.3

彼は今の自分にとって価値のある唯一の物を、手に入れていなかった。自己のために生きることによって、彼は、同胞に対する憐れみとなって流れ出ていたはずの神の愛をしりぞけてきた。こうして、彼は命を拒否したのである。なぜなら、神は愛であり、愛は命だからである。この人は、霊的なものよりも地上のものを選んだ。そして、地上のものと共に、彼は過ぎ行かなければならなかった。「人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい」(詩篇49:20)。 COL 1284.4

「自分のために宝を積んで神に対して富まない者はこれと同じである。」この描写は、いつの時代にも真実である。あなたは、利己的な利益のために計画を立てることも、宝を集めることも、古代バビロンの建設者が建てたような広壮な邸宅を建てることもできよう。しかし、破滅の使者を締め出すことができるほどの高い壁や、がんじょうな門を造ることはできない。バビロン王ベルシャザルは、「盛んな酒宴を設け」、「金、銀、青銅、鉄、木、石などの神々をほめたたえた」(ダニエル5:1、4)。しかし、見えない方の手が、壁に破滅の言葉を書きしるし、敵軍の足音が宮殿の門の中に聞こえたのである。「カルデヤびとの王ベルシャザルは、その夜のうちに殺され」、別の国の王が王位についた(ダニエル5:30)。 COL 1284.5

自己のために生きることは、滅びることである。貪欲、自己のために利益を求めることは、魂を命から切り離す。物を獲得し、自己に引き寄せようとするのは、サタンの精神である。人々に与え、自己を他の人々の幸福のために犠牲にすることは、キリストの精神である。「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるといりいとである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(Ⅰヨハネ5:11、12)。 COL 1284.6

それゆえ、キリストは言われる。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。」 COL 1284.7