キリストの実物教訓

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第19章 人を赦す方法

本章は、マタイ18:21~35に基づく COL 1278.2

ペテロがキリストのもとに来て、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。7たびまでですか」と質問した。ラビたちは赦しの限度を3度までとしていた。ペテロはキリストの教えから考えて、完全数である7回までのばそうと考えた。しかしキリストは、赦すことにうみつかれてはならないと、お教えになった。「7たびまでとは言わない。7たびを70倍するまでにしなさい」と主は言われた。 COL 1278.3

そこで主は、赦しを与える理由がなんであるかということと、赦さない精神をいだくことがいかに危険であるかをお示しになった。主は、政府の事務をつかさどっていた役人に対して、王がどんな処置を取ったかについて、1つのたとえをお話しになった。役人のうちには、国家の巨額な公金を横領していた者があった。王が、資金をゆだねていたものの会計調査を行った時、王に対して1万タラントという巨額の負債を負った者のあることが判った。その男は、王の前につれて来られた。この男には支払う金がなかった。当時の習慣によって、王は彼に、所有物を全部売り払って負債をつぐなえと命じた。しかし、驚いた男は王の足下にひれふし、王に嘆願して言った。「『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。」 COL 1278.4

「その僕が出て行くと、100デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。」 COL 1278.5

このたとえには、たとえ全体を描き出すために必要な細かい記述があるが、それらは重要な霊的意味を持つものではない。そうしたものに注意をそらしてはならない。ここに、いくつかの重要な真理が教えられているので、それにわたしたちの思いを集中すべきである。 COL 1278.6

この王が与えた赦しは、すべての罪に対する神の赦しをあらわしている。あわれに思って僕の負債を赦した王は、キリストを表している。人間は律法を破って、罪の宣告のもとにあった。人間は自分自身を救うことができなかった。そのためにキリストはこの世界にこられ、神性に人性をまとい、不義な者のために、義なるご自身の命をお与えになった。主はわたしたちの罪のためにご自身を与え、血によって買いと った赦しを、すべての人に価なしに提供される。「主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがある」(詩篇130:7)。 COL 1278.7

ここに、わたしたちが、わたしたちと同じ罪人に向かって、同情の心をいだかなければならないという理由が示されている。「神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」(Ⅰヨハネ4:11)、「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」とキリストは仰せになる(マタイ10:8)。 COL 1279.1

たとえにおいて、負債のある者が、「どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから」と約束して、猶予を願った時、その宣告は取り消された。負債は全部消された。そのすぐあとに、彼は、彼を赦した主人の模範にならう1つの機会が与えられた。外に出ると、彼は、わずかな貸しのある仲間に出会った。彼は1万タラント赦されたばかりであった。彼は、この仲間には100デナリ貸していた。しかし、これほどの憐れみを受けた彼が、仲間に向かっては全然違った態度をとった、仲間は、彼自身が王に向かってしたと同じ訴えをした。しかし同じような赦しは得られなかった。つい先ほど赦されたばかりの彼は、やさしい心も、同情も持たなかった。憐れみが彼に示されたのに、彼は仲間に向かっては、憐れみを持たなかった。彼は待ってくださいという頼みに、気をとめなかった。この恩知らずの僕は、仲間に貸したわずかな金のことしか考えていなかった。彼は、自分の当然受けるべきものと考えたものを、全部要求した。そして彼のためには恵み深くも取り消されたところの、同じ厳しい宣告を仲間に対して下した。 COL 1279.2

今日、いかに多くの者が、同じ精神をあらわしていることであろう。負債を負った者が主人に憐れみを願った時、彼は自分の負債の大きさを本当には理解していなかった。彼は自分の無力を知らなかった。彼は自分を救おうとした。彼は「どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから」と言ったのである。同様に、自分の行いによって神の恵みを得ようと望んでいる者が多い。彼らは自分の無力なことを知っていない。彼らは価なくして与えられる賜物として、神の恵みを受けず、自分の義をたてようと努力している。彼らの心は罪のために砕かれることなく、謙遜になっていない。彼らは他人に対して厳しく、寛容ではない。彼らの神に対する罪は、彼らに対する兄弟の罪と比べると、1万タラント対100デナリで——ほとんど100万倍に当たる。しかし、彼らはあえて人を赦そうとしないのである。 COL 1279.3

たとえの中で、主人は、この無慈悲な負債者の出頭を命じ、彼に「言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした」。そこでイエスは言われた、「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。赦すことを拒む者は、それによって彼自身が赦される望みを捨てているのである。 COL 1279.4

しかし、このたとえを誤用してはならない。わたしたちを神がお赦しになるからといって、わたしたちが神に服従する義務が減少するものではない。お互いに仲間に対して赦しの精神を持つからといって、なすべき義務を果たさずにすむものではない。キリストが弟子たちに教えられた祈りの中に、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」と、主は仰せになった(マタイ6:12)。これは、わたしたちの罪が赦されるために、わたしたちから借りている人に、当然支払いを求めてよいものまでも要求してはいけないという意味ではない。もし彼らが支払うことができない場合、たとえ、それが不十分な管理の結果ではあったとしても、彼らを獄に人れたり、しえたげたりして、ひどい取り扱いをするべきではない。しかし、このたとえはわたしたちに、怠惰を奨励するように教えるものではない。神の言葉は、働こうとしない者は、食べることもしてはならないと言っている(Ⅱテサロニケ3:10)。主は、けんめいに働く人に、なまけ者を扶助することを求め てはおられない。時間を浪費し、努力をしないために、貧しく乏しくなっている人が多い。このようなありさまにおちいった人々が、その誤りを正さないならば、彼らのためにいくら努力しても、すべては穴の開いた袋の中に宝を入れるようなものである。しかし、避けることのできない事情で貧困におちいることもある。こうした不幸な人々に対しては、やさしさと同情を示さなければならない。わたしたちは自分たちが、彼らと同じ事情のもとにあったとすれば、自分がしてもらいたいと思うように、他の人々を取り扱うべきである。 COL 1279.5

聖霊は、使徒パウロを通して、次のようにわたしたちを戒めておられる。「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、1つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」(ピリピ2:1~5)。 COL 1280.1

しかし罪は、軽く考えてはならない。主は、兄弟が悪をなすままに放任しておかないようにと、わたしたちに命じておられる。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい」と主は言われた(ルカ17:3)。罪は罪として呼ばれるべきである。そして悪を行う者の前に、はっきりとそれを示さなければならない。 COL 1280.2

パウロは聖霊によって、「時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」と書いて、テモテを教えた(Ⅱテモテ4:2)。またテトスには次のように書いた、「法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおる、……だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにしなさい」(テトス1:10~13)。 COL 1280.3

キリストは、次のように仰せになる。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは3人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」(マタイ18:15~17)。 COL 1280.4

主はクリスチャンの間の困難な問題は、教会の中で解決すべきであるとお教えになった。それらを、神をおそれない人々の前に持ち出してはならない。もしクリスチャンが兄弟から不正なことをされた場合、法廷にもちこんで不信者に訴えるべきではない。彼は、キリストがお与えになった教訓に従うべきである。復讐しようとするのではなく、その兄弟を救うことを求めるべきである。神は、神を愛し、おそれる者の権益をお守りくださる。わたしたちは確信をもって正しくおさばきになるお方に、問題をゆだねることができる。 COL 1280.5

くりかえし悪事を行い、それを行った者がそのあやまちを告白する時、害を受けた者はしびれを切らしてこれ以上赦すことはできないと考えることが、しばしばある。しかし、救い主はわたしたちに、誤りを犯した者をどのように取り扱うべきかをはっきりとお語りになった、「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい」(ルカ17:3)。彼を、信用できないといって退けてはならない。「もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないか」と考えなさい(ガラテヤ6:1)。 COL 1280.6

もしあなたの兄弟が過ちを犯すならば、あなたは彼らを赦すべきである。彼らが告白してきた場合、あなたは、彼らの心が十分砕かれているとは思えないとか、彼らが痛切に告白しているようには思われないとか言ってはならない。人の心の中まで読んだかのように、彼らをさばく力が、あなたにはあるのだろうか。神の言葉はこう言っている。「そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して1日に7度罪を犯し、そして7度『悔い改めます』と言ってあな たのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」(ルカ17:3、4)。神があなたを赦してくださっただけ赦しなさい。7度だけでなく、7度を70倍するまでにと言われる。 COL 1280.7

わたしたち自身、神の無代のたまものの恵みをこうむっている。わたしたちは恵み深い契約によって、神の子と定められた。救い主の恵みによってわたしたちはあがなわれて、生まれかわった者となり、キリストと共なる世継ぎにまで高められたのである。この恵みを他の人々にあらわすようにしよう。 COL 1281.1

過ちを犯した者を失望におとしいれてはならない。パリサイ的な厳しさによって、兄弟を傷つけてはならない。苦々しい軽べつの心を起こしてはならない。あざけりの調子を声に出してはならない。もしあなたが自分自身の言葉を語り、無関心をよそおい、疑いや、不信を示すならば、魂を滅びにおとしいれることになる。憐れみ深い長兄イエスの心を持った人間が、彼の心に触れなければならない。心から彼に同情して温かく手を握り、一緒に祈りましょうとささやきかけなければならない。神はあなたがた2人に、豊かな経験をお与えになることであろう。祈りはわたしたちを互いに結びつけ、また、わたしたちと神とを結びつける。祈りはイエスをわたしたちに近づけ、疲れ果てて倒れそうな魂に、世と肉と悪魔に勝利する新しい力をもたらす。祈りは、サタンの攻撃をかわすものである。 COL 1281.2

人が人間の不完全さから目を転じて、イエスを見上げる時、聖なる変化が品性の中に起こる。キリストの霊が心に働いて、そのみかたちに一致させる。そして、イエスを高く掲げるように努めなさい。心の目を、「世の罪を取り除く神の小羊」に注ぎなさい(ヨハネ1:29)。そしてあなたがこのような働きに従事する時、「かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである」(ヤコブ5:20)。 COL 1281.3

「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」(マタイ6:15)。人を赦さない精神を、正しいと認めることはできない。他の人に対して無慈悲な者は、その人自身が神の赦しの恵みを受けていない証拠である。神の赦しによって、過ちを犯した者の心は、無限の愛なる神の大いなるみ心に近く引き寄せられる。神の憐れみが潮のように、罪人の心に流れ込み、又その人から他の人々の心に流れ込むのである。キリストがその尊い生涯にあらわされたやさしさと憐れみとが、主の恵みの共有者となる者の中に見られるのである。しかし、「もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」(ローマ8:9)。そのような人は神から遠ざかっていた。彼が、神から永遠に切り離されるのは当然である。 COL 1281.4

彼が以前に赦しを受けたことは事実である。しかし彼の無慈悲な心は、彼が今、神が愛の中に赦しをお与えになったことを拒んでいることを示している。彼は神から自分を引きはなし、赦しを受ける前となんら変わりがない。彼は自分の悔い改めを否定した。そして彼の罪は、あたかも彼が悔い改めなかったかのように彼の上に置かれているのである。 COL 1281.5

しかしこのたとえの偉大な教えは、神の憐れみと人間の無情との比較にある。また、それは、神の憐れみ深い赦しが、わたしたちの赦しの尺度であるということを教えている。「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか。」 COL 1281.6

わたしたちは、自分が赦すから赦されるのではない。わたしたちが赦すように赦されるのである。すべての赦しは、なんの功もなくして得られる神の愛に基づいている。しかし他の人々に対するわたしたちの態度は、わたしたちがその愛を自分のものにしたかどうかを示すのである。キリストが、「あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」と言われたのは、そのためである(マタイ7:2)。 COL 1281.7