キリストの実物教訓
第21章 「大きな淵がおいてあって」
本章は、ルカ16:19~31に基づく COL 1285.1
キリストは、金持ちとラザロのたとえをお語りになって、人々が自己の永遠の運命を決定するのは、この世の生涯においてであることをお示しになった。恩恵の期間の間は、神の恵みがすべての人々に与えられている。しかし、もし人々がその機会を自己満足のために逃してしまうならば、彼らは自分を永遠の命から切り離してしまうのである。その後にはもはや恩恵の期間は与えられないのである。自分の選択によって、彼らは自分たちと神との間に越えることのできない淵をつくってしまうのである。 COL 1285.2
このたとえは、神を頼りとしなかった金持ちと、神を頼りとした貧しい人との対照を描いている。キリストは、この両者の立場が逆になる時が来ることをお示しになった。この世の財産は少なくても、神に頼り、苦しみに耐える者は、やがて、世の与えうる最高の地位を占めながら、その生涯を神にささげなかった人々よりも高められるのである。 COL 1285.3
「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた」とキリストは言われた。 COL 1285.4
この金持ちは、公然と、神も人も無視してはばからない、不正な裁判官によって代表されるような人ではなかった。彼はアブラハムの子であると称していた。彼は、こじきに乱暴をすることもなく、また見るのが不愉快だからどこかへ行ってくれとも言わなかった。もし、この人のいやがるあわれなこじきが、金持ちの門の所で、彼の出入りするのを見ることによって、幾分でも慰められるのなら、金持ちは彼がそこにいてはいけないとは言わなかった。しかし、彼は苦しんでいる兄弟の困窮に対して、利己的で無関心であった。 COL 1285.5
当時、病人の世話をする病院はなかった。苦しむ者や貧しい者は、人々の助けと同情を受けることができるように、主が富をおゆだねになった人々の目につく所に運ばれて来た。このこじきと金持ちの場合もそうであった。ラザロは助けを大いに必要としていた。なぜなら、彼には友も家庭も金も食物もなかったからである。にもかかわらず、彼はくる日もくる日も、このような状態の下に過ごさねばならなかった。それに反して金持ちは、すべての必要が満たされていた。同胞の苦しみを十分救うことができるのに、彼は、今日多くの者がそうであるように、ただ自分のために生きていた。 COL 1285.6
今日、わたしたちの身近に、飢え、裸で、家のない者が大勢いる。これらの貧しく、苦しんでいる人々に自分の財産を分け与えない者は、自分に罪の荷を背負わせていることになるが、やがて、それに当面する恐ろしい日がやってくる。すべてのどん欲は偶像崇拝として責められている。すべての利己的な放縦は、神の御目にはいとわしいものである。 COL 1285.7
神はこの金持ちを神の財産の管理者とされた。このこじきのような者に心を用いることは、彼の義務であった。「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」という命令が与えられていた(申命記6:5、レビ19:18)。この金持ちはユダヤ人であり、神のご命令をよく知っていた。しかし彼は、自分にゆだねられた財産や能力の使途について責任があることを忘れていた。主の祝福は、彼に豊かに与えられていたが、彼はそれを、自分を創造された方ではなく、自分自身をあがめるために、利己的に用いたのであった。彼が豊かであればあるだけ、人類を向上させるために贈り物を用いるべき彼の義務も、それに比例して大きいのであった。これは主のご命令であったが、この金持ちは、神に対する自分の義務を思わなかった。彼は金を貸し、貸したものから利息を取った。しかし、彼は、神が彼に貸してくださったものに対して利息を払わなかった。彼は知識と能力を持っていた が、それらを活用しなかった。彼は神に対する責任を忘れて、自分の力のすべてを快楽のために費やした。日々の娯楽、友人たちの称賛やおせじなど、彼をとり巻くすべてのものは、彼の利己的な楽しみを助長した。彼はあまりにも友人たちとの社交に心を奪われていた。彼は神と協力して、神の恵みの働きに参加する責任を忘れていた。彼は、神のみ言葉を理解し、その教えを実行する機会をもっていたが、彼の選んだ快楽愛好的な社交は、彼の時間をあまりにも取りすぎて、彼は永遠の神を忘れてしまった。 COL 1285.8
やがて、この2人の人間の状態に変化の起こる時がきた。貧しい人は、日々苦しんだが、忍耐強く、静かに耐えた。そのうちに、彼は死に、葬られた。彼のために悲しむ者もなかった。しかし、苦しみに耐えることによって、彼はキリストのために証しをし、信仰の試みに耐えた。そして死んだ時、彼は、天使によってアブラハムのふところに連れていかれたと述べられている。 COL 1286.1
ラザロはキリストを信じて、苦難の中にいる貧しい人々を代表している。ラッパが鳴り、墓にいるすべての者が、キリストの声を聞いて出てくる時、彼らはその報いを受ける。彼らの神に対する信仰は、単なる理論ではなく、真実のものであったからである。 COL 1286.2
「金持も死んで葬られた。そして黄泉(よみ)にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。」 COL 1286.3
キリストは、このたとえでは、人間の立場に立って語っておられる。キリストの話を聞いていた者たちのうち、多くの者が、復活の間には意識のある状態が続くという教えを信じていた。救い主は、彼らのそのような考えを知っておられて、すでに彼らのいだいている思想を用いて、重要な真理を彼らの心に植えつけようとなさった。彼は、聴衆の前に、彼らが、自分たちの神との真の関係を知るための鏡を置かれた。 COL 1286.4
彼は、すべての人に明らかにしたいと望まれた思想——人はその持ち物によって評価されるものではないということと、人間の持っているすべての物は、主からただ委託された物としてその人の所有になっていること——を教えるために、そのころ一般に流布していた考え方を利用なさった。これらの賜物の用い方を誤るならば、神を愛し神に信頼する最も貧しくて、最も苦しんでいる人よりも下に置かれることとなるのである。 COL 1286.5
キリストは、聴衆に、人間は、死後に魂の救いを得ることは不可能であることを理解させようと望まれた。アブラハムは、次のように答えたと述べられている。「子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできな。」このように、キリストは、人々が第二の恩恵期間を望んでもむだであることをお示しになった。この世は、永遠のために備えをするために、人々に与えられた唯一の期間である。 COL 1286.6
この金持ちは、自分がアブラハムの子であるといり考えを捨てず、苦しみの中から、アブラハムに助けを求めている。「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください」と彼は祈った。彼は神に祈らず、アブラハムに祈った。そのことによって、彼は、アブラハムを神よりも上に置いていること、自分が救われるためにアブラハムとの関係にたよっていることを示した。十字架上の強盗は、キリストに祈りをささげた。「あなたが御国の権威をもっておいでになるときには、わたしを思い出してください」と、彼は言った(ルカ23:42)。すると直ちに答えが与えられた。「(わたしが屈辱と苦痛のうちに十字架にかかっていろ)きょう、よく言っておくが、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」しかし、この金持ちはアブラハムに祈り、その願いは聞き入れられなかった。キリストのみが、「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆる しを与える」救い主としてあがめられるのである(使徒行伝5:31)。「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)。 COL 1286.7
この金持ちは、生涯を自己の快楽のために過ごし、永遠のための備えをしなかったことに気づいた時は、すでに遅かった。彼は自分の愚かさを認め、自分と同じように、自己の満足のために生き続けるに違いない自分の兄弟たちのことを思った。そこで彼は、求めた。「父よ、ではお願いします。わたしの父の家ヘラザロをつかわしてください。わたしに5人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです。」しかし、「アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』。」 COL 1287.1
金持ちがその兄弟たちのために、もっと証拠を与えてくれるように嘆願した時、彼は、もしそのような証拠が与えられても、彼らはその勧めを聞き入れないであろうとはっきり告げられた。彼の要求は神を非難するものだった。それは、あなたがもっと十分にわたしを警告してくださったならば、わたしは今ここにいないであろうにと言っているも同然であった。この願いに答えて、アブラハムは、あなたの兄弟たちは十分に警告されていると答えた。光は彼らに与えられたが、彼らは見ようとしなかった。真理は彼らに示されたが、彼らは聞こうとしなかった。 COL 1287.2
「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」。この言葉は、ユダヤ民族の歴史の中において、真実であることが証明された。キリストの最後の、かつ最大の奇跡は、死んで4日もたったベタニヤのラザロをよみがえらされたことであった。ユダヤ人は、救い主の神性についての、この驚くべき証拠を与えられたが、彼らはそれを拒否した。ラザロはよみがえり、彼らの前で証ししたが、彼らはすべての証拠に対して心をかたくなにし、彼の命を取ろうとさえしたのであった(ヨハネ12:9~11)。 COL 1287.3
律法と預言者とは、人間の救いのために神がお定めになったものである。これらの証拠に心を向けるべきであるとキリストは自われた。もし彼らが、神のみ言葉にあらわされた神のみ声に耳を傾けないなら、死人の中からよみがえった人の証しにも心を留めはしないであろう。 COL 1287.4
モーセと預言者に心を留める者は、神がお与えになったもの以上に大きな光を求めはしないであろう。しかし、もし人々が光を拒み、彼らに与えられた機会の価値を認めないならば、彼らは、死からよみがえった人が、メッセージを持って彼らの所にくるようなことがあっても、聞きはしないであろう。彼らは、このような証拠によっても、納得することはないであろう。なぜなら、律法と預言者を拒否する者は、心をかたくなにしてしまうので、すべての光を拒むからである。 COL 1287.5
アブラハムとこの金持ちとの会話は、比喩的なものである。これから学ぶべき教訓は、すべての人は、要求されている義務を果たすのに十分な光が与えられているということである。人の責任は、その人の与えられた機会と特権に比例するのである。神は、各々に働きをお与えになったのであるが、その働きを果たすのに十分な光と恵みとをすべての人にお与えになる。もし、小さな光が示す義務を人が果たさないならば、さらに大きな光が与えられても、その光に従わず、与えられた祝福を活用しようとしないことを示すだけであろう。「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」(ルカ16:10)。モーセと預言者によって啓発されることを拒み、何か驚くべき奇跡が行われることだけを求める者は、もし彼らの望みがかなえられても、納得しはしないであろう。 COL 1287.6
金持ちとラザロのたとえは、これらの人々によって代表される2種類の人々が、霊の世界においていか に評価されているかを示している。もし富を不正な方法によって得るのでなければ、金持ちであることは別に罪ではない。金持ちは、富を持っていることを非難されはしない。ただ、ゆだねられた財産を利己的に用いる時に非難されるのである。善をなすために富を用いることによって、神のみくらに富を積むことこそ望ましいことである。このように、永遠の富を求めることに専念する者を貧しくすることは、死でさえできない。 COL 1287.7
しかし、宝を自己のために蓄える者は、その蓄えたもののわずかな部分さえ、天へたずさえて行くことはできない。彼は不忠実な家令であったことを示した。彼は、その生涯の間、良い物を持ったが、神に対する義務を忘れていた。彼は天の宝を得ることができなかった。 COL 1288.1
多くの特権を持っていた金持ちは、そのわざが未来の世界にまで達し、霊的な特権をますます優れたものとして、自分とともにたずさえて行くように、その賜物を涵養(かんよう)すべきであった人を示している。贖罪の目的は、罪をぬぐい去ることだけでなく、罪の退化力のために失われた霊的賜物を、人間に回復することにある。金銭は来世にたずさえて行くことはできない。金銭はそこでは必要でない。しかし、キリストに魂を導くためになされた良い行いは、天にたずさえられるのである。しかし、主の賜物を利己的に費やし、困っている同胞に助けを与えず、神のみわざの進展のために何もしない者は、造り主をはずかしめるのである。神から盗むことは天の書に記録される。 COL 1288.2
金持ちは、金で手に入れられるあらゆるものを持っていたが、神との会計を正しく保って置くところの富を持っていなかった。彼は、自分の所有するものはすべて、自分の物であるかのように生活した。彼は神の声も苦しむ貧困者の叫びも無視した。しかし遂に、無視することのできない要求が出された。疑う余地もなければ、抵抗することもできない力によって、彼は、もはや彼のものでない財産を手放すように命じられた。かつての金持ちは、全くよりどころのない貧困状態に落とされた。天のはたで織られたキリストの義の衣は、彼をおおうことができない。かつては、紫の衣や細布を着ていた者が、裸にされた。彼の恩恵期間は終わった。彼はこの世に何物もたずさえてこなかった。また彼は、この世から何1つたずさえて行くことはできない。 COL 1288.3
キリストは未来の幕をあげて、この光景を、祭司や司たち、学者やパリサイ人たちの前にお示しになった。この世の財貨に富み、神に対して富まぬ人々よ、この光景を見ていただきたい。この光景について深く考えていただきたい。人々の間では高く評価されるものの内にも、神の目には憎むべきものとされるものがある。キリストは「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」と問うておられる(マルコ8:36、37)。 COL 1288.4