キリストの実物教訓
第18章 道やかきねのあたりから招かれた客
本章は、ルカ14:1、12~24に基づく COL 1270.1
救い主は、あるパリサイ人の宴会の客となっておられた。救い主は貧しい人の招待も、金持ちの招待も同様にお受けになった。そしてその場その場の光景を、真理に結びつけてお教えになるのが常であった。ユダヤ人の間では、国家的宗教的な祝祭日には聖なる祝宴がもよおされた。彼らにとってそれは永遠の命の賜物の象徴であった。大宴会が開かれて、そこに、自分たちはアブラハム、イサク、ヤコブと共に座し、異邦人は外に立って、物ほしそうな目つきでながめているというような話を、彼らは好んでしたものであった。キリストは今、大宴会のたとえによって、ご自身が与えようと望んでおられる警告と教訓をお教えになった。ユダヤ人は、現世と来世の両方の神の賜物を、自分たちだけで独占しようと考えた。彼らは、異邦人に対する神の憐れみを否定していた。そのような時にキリストは、神の国の招きと、憐れみの招待を拒んでいるのは、実に彼らであることをお示しになった。彼らが軽んじた招待は、彼らが軽べつしていた者たち、重い皮膚病にかかった人をさけるかのようにいみきらっていた者たちに与えられることを、イエスはお示しになった。 COL 1270.2
このパリサイ人は、宴会に客を選ぶにあたって、自分の利己的な関心を念頭においていた。そこでキリストは彼に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、障害のある人、足の不自由な人、盲人などを招くがよい、そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際にはあなたは報いられるであろう。」 COL 1270.3
キリストは、かつてモーセによってイスラエルに与えられた教えを、ここにくりかえしておられる。彼らの宴会の時には、「他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない」と主はお命じになった(申命記14:29)。 COL 1270.4
こうした集会は、イスラエル人に実物教訓となるべきであった。人々は、このように真の親切の喜びを教えられて、その1年の間、親しい人に先たたれた者や、貧しい者のために世話をすべきであった。また、これらの宴会には広い教訓が含まれていた。イスラエルに与えられた霊的祝福は、彼らのためだけではなかった。神は、彼らが世に分け与えることができるように、彼らに命のパンをお与えになったのである。 COL 1270.5
彼らはこの働きをなしとげなかった。キリストの言葉は彼らの我欲に対する譴責であった。パリサイ人はキリストの言葉を不快に思った。彼らの1人は、話題を他に向けようとして、信心深げに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。この男は。神の国に確実に入れるという、大きな確信をもって語った。彼の態度は、救われるための条件を満たさないでいて、キリストによって救われたと喜ぶ者の態度と同じであった。彼の精神は、「わたしは義人のように死に、わたしの終わりは彼らの終りのようでありたい」と祈った時のバラムの心と同じであった(民数記23:10)。このパリサイ人は、自分が天にふさわしいかどうかは考えないで、自分の望んでいる天での楽しみだけを考えていた。彼の言葉は宴会の客の心を彼らの実際の義務という主題からそらそうとする意図からでたものであった。彼は、現在の生活を素通りして、はるかかなたの義人の復活の時のことを考えさせようとしたのである。 COL 1270.6
キリストはうわべを装っている名の心をお読みになった。そして彼に目を留め、彼らが今もっている特権の性質と価値をお示しになった。主は将来の祝福にあずかるためには、今この時に、彼らがなさなければならないことがあることをお示しになった。 COL 1270.7
「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた」と主は語られた。宴会の時が来たので、主 人は招いた客に僕をつかわして、「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と2度目の伝言を言わせた。ところが不思議なことにみな無関心であった。「みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは士地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。ほかの人は、『わたしは5対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。」 COL 1270.8
言いわけをした者のうち、だれ1人として実際にその必要があってそう言ったのではなかった。土地を「行って見なければなりません」と言った男は、それをすでに買っていたのである。彼が早く行ってそれを見たいということは、彼の関心が買ったものにすっかり奪われていたということのためである。牛も同様に購入済みであった。それを調べるというのは、買った当人の興味を満足させるにすぎないことであった。第三の言いわけは理由らしいものさえない。招かれた客が妻をめとったという事実は、宴会に出ることを少しもさまたげるものではない。彼の妻も同様に歓迎されるにちがいないのである。しかし彼は、自分の楽しみの計画をもっていた。そして彼にとってはその方が、出席いたしますと言った宴会よりもっと望ましいものであった。彼は、その主人の宴会よりは、他の社交のほうが楽しいことを知っていた。彼は断りを言わず、断りの礼を尽くす風さえしなかった。「わたしはできません」という言葉は、「わたしは行こうと思っていない」という本当の気持ちのおおいでしかなかった。 COL 1271.1
口実は、皆心が他のことに奪われていたことを示す。招かれた客は、他の興味に心が奪われて夢中であった。彼らは、行きますと約束した招待を破棄して、彼らの無関心によって、気高い主人を侮辱した。 COL 1271.2
キリストは大宴会のたとえによって、福音が提供する祝福を例示された。ごちそうとはキリストご自身にほかならない。彼は天から下ってきたパンである。彼から救いの川が流れでるのである。主の使者たちは、救い主の来臨をユダヤ人にのべ伝えた。彼らは「世の罪を取り除く神の小羊」としてキリストを示した(ヨハネ1:29)。神はお備えになった宴会において、天が与え得る最大の賜物——見積もることもできない賜物を彼らに提供された。神の愛は大宴会をもうけ、くちない富を供給された。キリストは、「それを(天から下ってきた生きたパンを)食べる者はいつまでも生きるであろう」と仰せになった(ヨハネ6:51)。 COL 1271.3
しかし福音の宴会の招待を受けるためには、まずキリストとその義を受けるという1つの日的を第1にして、世俗的関心をその次にしなければならない。神は人間のためにすべてをお与えになった。であるから、神は神のための奉仕を、地上のどんな利己的な心づかいよりも先にすることを人にお求めになる。神は二分された心をお受けにならない。この世の愛情に没頭している心を、神にささげることはできない。 COL 1271.4
この教訓はすべての時代のためである。わたしたちは、神の小羊が行かれるところには、どこへでも従うべきである。主の導きを選び、主の友となることを、世の友の交わり以上に大切にしなければならない。キリストは、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」と仰せになった(マタイ10:37)。 COL 1271.5
キリストの時代には多くの者は、家庭の食卓で日ごとのパンをさく時、「神の国でパンを食べる者はさいわいである」という言葉をくりかえした。しかしキリストは、無限の価を払って備えられた食卓に、客を招いて来ることがどんなにむずかしいかをお示しになった。こうしてキリストのみ言葉を聞いた人々は、自分たちが憐れみ深い招待を軽んじたことを知った。彼らの心を奪っていたのは、世の所有物や、富や、楽しみであった。彼らは一斉に言いわけをし始めた。 COL 1271.6
今日も同じである。人々は、いろいろな言いわけをして宴会への招待を断ったのであるが、それは福音の招待を拒む言いわけを網羅している。人々は福音の要求することに耳を傾けることによって、彼らの現世の有望に思われるものを危険にさらすことはでき ないと主張する。彼らは、永遠の事物より現世の利益のほうを重要視する。彼らが神から受けた祝福そのものが、彼らの魂を創造主とあがない主から引き離すじゃま立てをする。彼らは、彼らの現世の利益追求を妨げられたくないので、憐れみの使者に向かってこう言う。「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」(使徒行伝24:25)。他の人々は、神の召しに従う時、彼らの社会的関係の中で起こると予想される困難を言い出す。彼らは、彼らの肉親や友人たちと仲たがいになることはできないと言う。こうして彼らは、彼らがたとえの中に描かれている人物の1人にほかならないことを、証明する。宴会の宅であるお方は彼らの見えすいた口実を、ご自身の招待に対する侮辱であるとみなされるのである。 COL 1271.7
「わたしは妻をめとりましたので、参ることができません」と言った男は、大多数の人々を表している。神の召しに心を留めないのを自分の妻や夫のせいにする者が多くいるのである。「わたしの妻が反対するので、わたしはわたしの確信する義務に従うことができません。彼女の影響で、わたしはそうすることができないようになっています」と夫は言う。妻は、「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」との恵み深い招きを聞く。すると彼女は、「『どうぞ、おゆるしください』わたしの夫は憐れみの招待を断っています。彼は仕事がやりかけだと言っています。わたしは夫といっしょに行かなければなりません。ですからまいることができません」と言うのである。子供たちの心は感銘を受ける。彼らは行きたいと思う。しかし彼らは父母を愛している。両親が福音の招待に気を留めないので、子供たちは行ってはならないと思う。彼らもまた、「どうぞおゆるしください」と言う。 COL 1272.1
この人々は皆、家庭内に分裂がおこるのを恐れて救い主の招待を断るのである。彼らは神に従うことを拒むことによって、家庭の平和と幸福を確保したと考えている。しかしこれは思い違いである。利己的な種をまく者は、利己的な収穫を刈り取らなければならない。彼らはキリストの愛を拒むことによって、人間の愛に純潔と堅固さを与えることができる唯一のものを拒んでいるのである。彼らは天国を失うのみならず、天国を犠牲にしてまで得ようとしたものを真に楽しむことすらできなくなるのである。 COL 1272.2
たとえでは、宴会の主人はその招待がどのようにあしらわれたかを知り、「おこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい入、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』」。 COL 1272.3
主人は彼の賜物をさげすんだ人々を捨てて、満たされない階級、家も土地ももっていない人々を招待した。彼は貧しく飢えている者、与えられた賜物を喜んでうける者を招待した。キリストは「取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいろ」と言われた(マタイ21:31)。人々に相手にされず、顔をそむけられるようなみじめな人々ではあっても、しかし彼らは、神の注目と愛を受けられないほど低く、みじめになりさがってはいない。キリストは心配にやつれ、疲れ、しえたげられている人間が、ご自身のもとに来ることを切望される。 COL 1272.4
キリストは他のどこにも見いだすことができない光と、喜びと、平和を彼らに与えたいと望まれる。手のつけようのない罪人こそ、主の深く、熱い憐れみと愛の対象なのである。主は彼らをご自身に引き付けようとして、聖霊をつかわし、やさしく切々と訴えられるのである。 COL 1272.5
貧しい者や、盲人につかわされた僕は、主人に報告した。「『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい』」。ここでキリストは、ユダヤ教の境界をこえて、世界の大通り、小道に福音の働きがなされることを指摘された。 COL 1272.6
この命令に従ってパウロとバルナバは、ユダヤ人にこう言明した。「『神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしから ぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。主はわたしたちに、こう命じておられる、「わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである」』。異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた」(使徒行伝13:46~48)。 COL 1272.7
キリストの弟子によって宣布された福音の使命は、世界に対する主の初臨の布告であった。それは、主を信じる信仰による救いのよい知らせを、人々にもたらした。それは、主の民をあがなうために栄光の中に来られる主の再臨をさし示し、信仰と服従によって光の中にある聖徒の嗣業に共にあずかる望みを、人々の前に示したのである。この使命は、今日人々に与えられている。今は、それに、間近に迫っているキリストの再臨の布告が、結びつけられている。キリストご自身が、再臨について語られたしるしは成就した。神のみ言葉によってわたしたちは、主が戸口におられることを知ることができる。 COL 1273.1
黙示録の中でヨハネは、キリストの再臨の直前に、福音が宣布されることを預言している。彼は1人の天使が「中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである』」(黙示録14:6、7)。 COL 1273.2
この預言によると、さばきとそれに付随した警告の使命のあとに、天の雲にのって人の子が来られることがのべられている。さばきの使命の宣布は、キリストの再臨が近いことを知らせている。そしてこの宣布は、永遠の福音と呼ばれている。このようにしてキリスト再臨のことを説教して、その切迫を告げることが福音使命の本質的部分であることが示されている。 COL 1273.3
終末時代には、快楽と金銭を求めて人々は、現世の利益追求にその心を奪われると聖書は言明している。彼らは永遠の実在に盲目となる。「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう」とキリストは仰せになった(マタイ24:37~39)。 COL 1273.4
今日も同じである。人々はあたかも、神も、天国も、来世もないかのように、利益と自己中心的放縦な生活を追い求めている。ノアの時に、悪を行っている人々の目をさまし、悔い改めをうながすために、洪水の警告が発せられた。同様にキリストの切迫した来臨の使命は、世俗のことに心を奪われている者の、覚醒をうながすために計画された。それは彼らの目を覚まして永遠の実在を意識させ、彼らが主の宴会への招待に心を留めるために与えられたのである。 COL 1273.5
福音の招待は全世界に——「あらゆる国民、部族、国語、民族」——与えられるべきである(黙示録14:6)。警告と憐れみの最後の使命は、栄光をもって全地を照らすべきである。それはあらゆる階級の人々、富める者、貧しい者、高貴な者、卑賎(ひせん)な者に行きわたらなければならない。キリストは、「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」と仰せになる。 COL 1273.6
世界は、福音の欠乏のために滅びつつある。神のみ言葉のききんがくる。人間の言い伝えを混ぜないでみ言葉を説教する者はほとんどいない。人々は聖書を手にしているけれども、神が彼らのために聖書の中に備えてくださった祝福を受けていない。主は、人々にご自身の使命を伝えるために、僕たちをお召しになった。罪の中に滅びつつある者に、永遠の命の言葉を伝えなければならない。 COL 1273.7
キリストは、道や垣根のあたりに出て行けとの命令によって、主のみ名によって奉仕の召しを受けたすべての者の働きをお定めになった。全世界は、キリストの教役者の畑である。人類家族全体が彼らの会衆である。主は恵みのみ言葉が、すべての魂に深い感銘を与えることを望んでおられる。 COL 1273.8
このことは大部分個人的な働きによってなしとげなければならない。これがキリストの方法であった。キリストの働きは大部分個人的な面談によってなされた。主は、1人の聞き手に、心からの配慮をお持ちになっていた。しばしばその1人の魂が、イエスから聞いた話を数千の人々に伝えたのである。 COL 1274.1
わたしたちは、人々が自分のところにくるまで待っていてはならない。わたしたちは人々がいるところへ出ていって、彼らをさがし求めねばならない。み言葉が講壇から説教された時、働きは始まったばかりである。こちらからもっていかなければ、福音に接することができない人々が、おびただしくいるのである。 COL 1274.2
宴会への招待は、初めにユダヤ人に与えられた。彼らは人々の間で教師、指導者として立つように召された人々であった。キリストの来臨を予言する預言の書を、その手に持つ人々であった。そしてキリストの使命を予表する象徴的儀式が、彼らにゆだねられた。もし祭司たちや民がその召しに応じたならは、彼らは世界に福音の招待を与える働きのために、キリストの使者たちと1つになったにちがいない。他の人々に与えるために、真理が彼らに送られたのである。彼らがその召しを拒んだ時、それは貧しい人、障害のある人、盲人、歩けない人に送られた。取税人や罪人たちはその招待を受け入れた。福音の召しが異邦人に送られる時にも、その伝えられる方法は同じである。使命はまず「大通りに」与えられる。つまり世の働きに活発に従事している人々、民の教師や指導者に与えられる。 COL 1274.3
主の使者は、このことを心に留めておくべきである。群れの牧者たち、神によって立てられた教師たちは、その招待に応じなければならない。社会の上層階級に属する者を、やさしい愛情と兄弟に対するような心づかいをもって捜し出すべきである。実業家、責任ある高い地位にいる人々、大きな発明の才や、科学的知識をもつ人々、天才とよばれている人々、現代に対する特殊な真理をまだ知らない福音の教師たち——これらの人々がます最初に招待を聞くべきである。このような人々をまず招待しなければならない。 COL 1274.4
金持ちのためになすべき働きがある。彼らに、天の賜物をゆだねられた者としての責任を自覚させる必要がある。生ける者と死人をさばかれるお方に弁明しなければならないことを、彼らに考えさせる必要がある。金持ちには神を恐れつつ愛をもって働きかけなければならない。多くの場合、金持ちは自分の富にたより、自分の危険を感じない。彼の心の目は、朽ちない価値を持つ者に引き付けられる必要がある。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われた真の慈愛の権威を、彼らは認めなければならない(マタイ11:28~30)。 COL 1274.5
教育、富、名声をもった高い地位にある人々は、自分の救いの重要さについて語りかけられることはほとんどない。多くのキリスト教の働き人たちは、これらの階級に近づくことをためらっている。しかしそのようなことではいけない。もしだれかがおぼれていたら、彼が弁護士、あるいは商人、あるいは判事であるからといって、わたしたちは、彼が死んでいくままに放っておいてよいだろうか。崖から飛び降りようとしている人を見たら、その人の地位や職業がどうあろうと、わたしたちはすぐに彼を引き戻すであろう。わたしたちは、魂の危機にある人々に警告することを、ためらってはならない。 COL 1274.6
見たところ世俗のことに没頭しているからといって、なおざりにしてはならない。高い社会的地位にある多くの者は深い悲しみをもっており、虚栄にあきている。彼らは自分たちにない平安を渇望している。社会の最上層の階級にも、救いを求めて飢えかわいている者がある。キリストの愛によって和らげられた心と親切な態度で、主の働き人たちが個人的に彼らに近づくならば、多くの者が助けを受けることであろう。 COL 1274.7
福音使命の成功は博学な講話、雄弁な論証、深い理論によるものではない。それは命のパンを渇望 している魂に、使命を平易に語り、それを適合することにかかっている。「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」——これが魂の求めである。 COL 1274.8
最も単純でささやかな方法によって、幾千という人々の心にふれることができる。世の最も才能のある男女と見られている人々、最も知能のすぐれた人々は、世の人が自分の一番興味をもつ事柄について自然に話すのと同様に、神を愛する人が神の愛について話すその単純な言葉に、新鮮な感動をうけることがよくあるのである。 COL 1275.1
時々、よく準備され、研究された言葉が少しも感化を与えないことがある。しかし自然の単純さで語られた神の息子、娘の、真実で正直な話は、キリストとその愛に対して長く閉じられて来た心の扉を、開く力を持つのである。 COL 1275.2
キリストのために働く者は、自力で働くのではないことを心得ていなければならない。神の救いの力を信じて、神のみ座をしっかりつかむべきである。まず祈りによって神と相撲を取り、そしてその後で神がお与えになったすべての才能を用いて働くべきである。聖霊が与えられ、彼の力となってくださる。奉仕の天使は彼のそばにいて、人々の心を感動させる。 COL 1275.3
もしエルサレムの指導者や教師たちが、キリストのお教えになった真理を受け入れていたならば、彼らの町はどんなにかすばらしい伝道の中心地となったことであろう。背信したイスラエル人は改心したであろうし、主のためにおびただしい大軍が集められたことであろう。そして彼らは、なんと速やかに全世界に福音を伝えることができたことであろう。 COL 1275.4
同様に今、感化力を持ち、大きな能力を持つ有用な人々が、キリストに導かれるならば、彼らによってどんなにすばらしい働きがなしとげられることであろう。倒れた者は助けおこされ、捨てられた者は集められ、救いのおとずれは遠く、広く伝えられる。招待は速やかに発せられ、主の食卓に客が集められる。 COL 1275.5
とはいえ、わたしたちは貧しい階級の人々を無視して、すぐれた才能のある人々だけを考えてはならない。キリストは使者たちに、小道や垣根のあたりに行って、貧しく身分の低い人々の所へも行くようにお教えになった。大都市の裏町や小道に、田舎の人通りの少ない小道に、教会とのつながりもなく、寂しく、神は自分たちをお忘れになったと感じている家族や孤独な人々——それは母国を離れた外国人かもしれない——がいる。彼らは、救われるために何をしなければならないかを知らない。多くの者は罪の中に沈んでいる。多くの者は悩んでいる。彼らは苦痛、欠乏、不信、失望に圧倒されている。心身のあらゆる種類の病気が、彼らを苦しめている。彼らは苦悩が取り去られ、慰められることを切望している。サタンは、彼らを誘惑して、肉欲と快楽に慰めを求めさせる。これは、彼らを破壊と死に至らせるものである。サタンは食べようとすれば、口もとで灰に変わるソドムのりんごを彼らにさし出している。彼らはかてにもならぬもののために金を費やし、飽きることもできないもののために労しているのである。 COL 1275.6
キリストがこられた目的は、こうした苦しむ人々を救うためであることをわたしたちは知らなければならない。彼らに向かってキリストは、次のように招いておられる。「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。……わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で自分を楽しませることができる。耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる」(イザヤ55:1~3)。 COL 1275.7
神は、わたしたちが旅人や、世から捨てられた者や、道徳力を失った貧しい人々を顧みるようにと特別な命令を与えられた。宗教には全く無関心に見える多くの者が、心の底では、休みと平安を求めている。彼らは罪の非常な深みに沈んでいるけれども、彼らを救うことができるのである。 COL 1275.8
キリストの僕は、主の模範に従うべきである。主はあちらこちら歩まれた時、苦しむ者を慰め、病気の者をいやされた。そして、その後で、主の王国の偉大な真理を彼らの前に示されたのである。これが主に 従う者の働きである。肉体の苦しみを除いてやる時、あなたは魂の欠乏のために働く道を見いだすのである。あなたは高くあげられた救い主をさし示すことができ、回復の力をもつ唯一のお方であられる大いなるいやし主の愛を、告げることができる。 COL 1275.9
さ迷い出て、失望しているあわれな者に、絶望する必要はないと語りなさい。彼らは過ちにおちいり、正しい品性を築かなかったけれども、神は彼らを回復することを喜び、人々を救いに入れることを喜ばれる。神はサタンにつかれていた一見全く望みのない者を救って、恵みの支配をうける者とすることをお喜びになる。神は不従順の者の上に下る怒りから彼らを救うことをお喜びになる。すべての人のためにいやしと清めが備わっていることを彼らに告げなさい。主の食卓には、彼らの座る場所がある。主は、喜んで彼らを迎えようとして待っておられるのである。 COL 1276.1
小道や垣根のあたりに行く者は、彼らが働きかけなければならない、これまでと全く異なった種類の人々に出会う。そこには、与えられたすべての光に従って生活し、知っている最良の方法で神に仕えている人々がいる。それでも彼らは、自分たちと、その周囲の人々のために、まだまだ大きな働きが行われなければならないと感じている。神をもっと知りたいと彼らは切に望んでいる。しかし彼らは、大きな光の一部を見始めたにすぎない。彼らは、信仰によってはるか遠方に認めた賜物を、神がお与えになるように、涙ながらに祈っている。大都会の悪の真中に、こうした魂が多く見いだされるのである。彼らは非常に恵まれない境遇にいる者が多く、そのために世に気づかれずにいる。そういう人々は多いが、牧師も教会もその人々について少しも知らないでいる。しかし、彼らはその低く卑しくみじめな場所で、主の証人となっている。彼らはわずかの光しかもたず、キリスト教の訓練を受ける機会もなかったことであろう。しかし彼らは、着る物もなく、飢え、こごえている人々の中にいて、他の人々に奉仕しようとしている。神の豊かな恵みの管理者たちは、こうした人々をさがし出し、彼らの家を訪問し、聖霊の力によって、彼らの必要を満たすために働くべきである。彼らと共に聖書を学び、聖霊の感動を受けて、単純に彼らと祈りなさい。キリストはその僕たちに、魂に対する天来のパンとなる使命をお与えになる。尊い祝福が心から心へ、家から家へ伝えられるであろう。 COL 1276.2
たとえの中にある「人々を無理やりにひっぱってきなさい」という命令は、たびたび誤解されてきた。それは、わたしたちが、人々に強制して、福音を受けさせるべきだという教えであるかのように解釈されてきた。しかしそれはむしろ、熱心に招待して、勧誘するならば、効果があることを示すのである。福音は人々をキリストに連れてくるのに、強制力は決して用いない。その使命は、「さあ、かわいている者はみな水にきたれ」(イザヤ55:1)、「御霊も花嫁も共に言った『きたりませ』……いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」である(黙示録22:17)。神の愛と恵みの力が、わたしたちに来ることをせまるのである。 COL 1276.3
救い主は、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と仰せになる(黙示録3:20)。主は軽べつや脅かしにあわれてもひるんだり去ったりなさらないで、「どうして、あなたを捨てることができようか」と言って、たえず失われた者をおたずねになる(ホセア11:8)。かたくなな心がどんなに主の愛を退けても、主は再び来て、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と、更に強く訴えられるのである。人を引きつけずにはおかない主の愛の力が、魂に入って来ることを迫るのである。こうしてついに彼らはキリストに向かって、「あなたの助けはわたしを大いなる者とされました」と言うのである(詩篇18:35)。 COL 1276.4
キリストは、ご自身が失われたものをたずねる時に持っておられたのと同じひたすらな愛を、主の使者たちにお与えになる。わたしたちは単に「来なさい」と言うのではない。招きを聞いても、その意味を聞きとることができない鈍い耳の人々がいる。彼らの目 は備えられたものに、なんのよきものも見いだせないほど盲目になっている。多くの者は自分が大いなる堕落の淵に沈んでいるのを知っている。彼らは、わたしは助けを受けるにふさわしくありません、わたしをほっておいてくださいと言う。しかし働き人はそこでやめてはならない。やさしい同情をもって、失望した無力な者をしっかり捕らえなければならない。彼らに、あなたの勇気、あなたの希望、あなたの力を与えなさい。親切に、彼らを強いて主の所に連れて来なさい。「疑いをいだく人々があれば、彼らをあわれみ、火の中から引き出して救ってやりなさい。また、そのほかの人たちを、おそれの心をもってあわれみなさい」(ユダ22、23)。 COL 1276.5
もし神の僕たちが、信仰によって主と共に歩むならば、主は彼らの使命に力をお与えになる。彼らは、人々が福音を受け入れないではいられなくなるように、神の愛を示すとともに、神の恵みを拒むことは危険であることを示すことができる。人が神から与えられた分をなしさえすれば、キリストは驚くべき奇跡を行われるであろう。今日も人間の心の中に、過去幾時代もの間に行われてきた大変化がなしとげられるであろう。ジョン・バンヤンは歓楽と冒瀆の中から救われ、ジョン・ニュートンは奴隷売買から救われて、高くあげられた救い主を伝えた。今日も、バンヤンやニユートンのような人が、多くの人々の中から救われるにちがいない。神と協力する人間の器によって、多くのあわれな社会の日陰者たちが教化され、ひるがえって、彼らは、人間の中に神のみ姿を回復したいと願うようになる。よりよい道を知らないために、非常にわずかの機会にしかめぐまれず、誤った道に歩んでいる者が多くいる。そういう人々に、光が潮のようによせて来るのである。キリストがザアカイに、「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」とお語りになったように、主は彼らにも語りかけられる(ルカ19:5)。そしてがんこな罪人であると見なされていた者たちが、キリストに目を留めていただいたために、幼児のようにやさしい心を持つ者となる。多くの者が大きな過ちと罪から救い出される。そして機会と特権に恵まれていながら、それを尊ばなかった者の位置をかわって占めるのである。彼らは神にえらばれた者、尊い者となり、キリストがみ国にお入りになる時には、彼らはキリストのみ座の一番近くに立つのである。 COL 1277.1
しかし、「あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい」(ヘブル12:25)。イエスは「招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう」と言われた。彼らはその招待を拒んでしまい、彼らのうちだれ1人としてもう1度招待される者はない。ユダヤ人はキリストを拒むことによって、自分たちの心をかたくなにし、サタンの力に自己を屈しつつあった。こうして彼らは神の恵みを受け入れることができなくなった。今日も同じである。もし人が神の愛を喜んで受けることをせず、その愛が心の中で魂を和らげ、屈服させる永続的な力とならないならば、わたしたちは全く失われた状態にあるのである。主は、今まで与えてこられたより以上の大きな愛を、お与えになることはできない。もしイエスの愛が人の心を従わせないとすれば、わたしたちの心を動かす方法は他になにもないのである。 COL 1277.2
あなたが憐れみの使命を聞くことを拒む度に、あなたは不信を強めているのである。あなたがキリストに心の戸を開かないその度に、あなたは、ますます、語っておられるお方の声を聞こうとしなくなる。ついにあなたは憐れみの最後の訴えに応答する機会をなくしてしまうのである。「エフライムは偶像に結びつらなった。そのなすにまかせよ」と、古代イスラエルについて書かれたように、あなたについて書かれないようにしなさい(ホセア4:17)。キリストがエルサレムのために泣かれたように、あなたのために泣かれることのないようにしなさい。その時イエスはこう言われた、「ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」(ルカ13:34、35)。 COL 1277.3
わたしたちの時代は、憐れみの最後の使命の招待が、人の子らにむかって発せられている時である。「道やかきねのあたりに出て行け」という命令は、その最後の成就に至っている。キリストの招待は、すべての魂に発せられるべきである。使者は、「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と言っている。天使たちは、今も人間の働き人と協力して働いている。聖霊はあなたを強いて来させるために、あらゆる手をつくしておられる。キリストはあなたの心に入ろうとして、かんぬきがはずされ、扉が開かれたことを示す物音を聞こうと、耳をそばだてておられる。天使たちは、更にもう1人の罪人が見いだされたとの知らせを天にもたらすために、待っている。天の軍勢は、立琴をならし、喜びの歌を歌う用意をして、もう1人の魂が福音の祝宴への招待を受けいれるのを待っているのである。 COL 1278.1