キリストの実物教訓

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第17章 「ことしも、そのままにして置いてください」

本章は、ルカ13:1~9に基づく COL 1267.1

キリストは、お教えになった時、審判の警告と恵みの招待とを結合なさった。「人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなく、それを救うためである」と主は言われた(ルカ9:56・詳訳聖書)。「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネ3:17)。神が義と審判を行われるのに対して、キリストは、どんな憐れみ深いお働きをなさるものかが、この実を結ばない、いちじくの木のたとえに示されている。 COL 1267.2

キリストは、すでに神の国の到来について、人々に警告してこられた。そして、人々の無知と無関心を鋭く譴責された。彼らは、天候を予報する空のしるしは、早く読みとったが、キリストのお働きをはっきり指示した時のしるしは、見分けなかった。 COL 1267.3

現代の人々が、自分たちは天の愛顧を受けているもので、叱責の言葉は、人にあてられたものだと決めているように、その当時の人々もそうであった。聴衆は、つい先ごろ、大きな騒ぎを引き起こした事件をイエスに告げた。ユダヤの総督ピラトの取った処置が、人々を怒らせた。エルサレムに民衆の暴動が起こり、ピラトは暴力によってこれを鎮圧しようとした。ある時などは、ピラトの兵卒たちが神殿の境内におしいり、犠牲をほふっていたガリラヤの巡礼者たちを、数人切り殺したことがあった。ユダヤ人は、この災難を、被害者たちの罪に対する天のさばきとみなした。この暴力行為について語った者らも、心ひそかに満足感をいだいてこう言った。自分たちの幸運は、彼らがガリラヤ人よりすぐれていて、ガリラヤ人より多く神の恵みを受けている証拠であると考えた。彼らは、これらの人々が刑罰を受けるのは当然であると疑いもなく考えたから、イエスがこの人々をとがめる言葉を聞くものと期待した。 COL 1267.4

キリストの弟子たちは、主の意見を聞くまでは、あえて自分たちの考えを言わなかった。主は、人間が限られた判断力によって、他人の品性を批判し、罰を与えたりすることについて、明らかな教訓をかねてから与えておられた。しかし、彼らは、キリストがこの人々を、他の人よりも罪深いと非難されることを期待した。彼らは、イエスの答えを聞いて、大いに驚いた。 COL 1267.5

群衆に向きなおって、救い主は、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と言われた。これらの驚くべき災難は、彼らの心をへりくだらせるために、また、彼らが罪を悔い改めるようになるために起こった。刑罰の嵐は近づいている。そしてそれはキリストの中にかくれ家を見いだしていないすべての者の上に、まもなく吹き荒れようとしている。 COL 1267.6

イエスは、弟子たちと群衆に向かって語っておられた時、預言的な眼をもって将来を見、軍勢に包囲されたエルサレムを見ておられた。イエスは選ばれた町に向かって進軍する外国人の足音を聞き、包囲攻撃をうけて幾千の者が死んでゆくのをごらんになった。多くのユダヤ人が、あのガリラヤ人たちと同じように、犠牲をささげている最中に、神殿の庭で殺された。個人にのぞんだ災難は、同様に罪深い国家に対する神よりの警告であった。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」とイエスは仰せになった。彼らのために猶予の日がしばらく与えられていた。彼らが平和をもたらす道を知る時が、彼らのためになお残っていた。 COL 1267.7

イエスは続いてお語りになった、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは3年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふ さがせて置くのか』」。 COL 1267.8

キリストの聴衆は、キリストの言葉を間違って適用することはできなかった。かつてダビデはイスラエルのことを、エジプトからたずさえ出されたぶどうの木として歌った。イザヤは、「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である」と書いていた(イザヤ5:7)。救い主がこられた時代の人々は、主のぶどう園——主の特別な保護と祝福の囲い——の中にあるいちじくの木によって代表されていた。 COL 1268.1

主の民に対する神の御目的、また、彼らの前途にある輝かしい可能性は、次のように美しく表現されていた。「こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる」(イザヤ61:3)。ヤコブは臨終に際し、御霊の霊感のもとに、最愛の子ヨセフについて語った、「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。」更に彼は語った、「あなたの父なる神はあなたを助け」、全能者は「上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福……をもって、あなたを恵まれる」(創世記49:22、25)。そのように、神は生命の井戸のそばに、よいぶどうの木としてイスラエルをお植えになった。神はそのぶどう園を「土肥えた小山の上に」つくられた。彼は「それを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え」た(イザヤ5:1、2)。 COL 1268.2

「良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった」(イザヤ5:2)。キリストの時代の人々は、彼らの時代の前のユダヤ人よりもはるかに敬虔な態度を示していた。しかし彼らは神のみ霊の美しい徳性にはさらに欠けていた。ヨセフの生涯を香り高いものとし、美しいものとした品性の尊い実は、ユダヤの国の内には見られなかった。 COL 1268.3

神はみ子をつかわして、実を求められたが、何も見いだされなかった。イスラエルは地をふさぐものであった。それが存在するということはのろいであった。ぶどう園の実りの多い木が、占めるべき場所をそれがふさいでいたからであった。それは神が与えようとされた祝福を、世から奪った。イスラエル人は国々の中に神を誤って表した。彼らは単に無用であるばかりか、明らかにじゃま物であった。彼らの宗教の大半は、人を迷わせ、救うどころかかえって破滅に陥れるものであった。 COL 1268.4

たとえの中でぶどう園の園丁は、もし実を結ばないでいるならば、その木は切り倒されるという宣告に、なんの疑問ももっていない。しかし彼は、実を結ばない木に対して主人が関心を持っていることを知っており、自分も同じ関心をもっている。彼にとって木が成長し、多くの実を結ぶのを見ることぐらい大きな喜びは他にない。彼は主人の希望に答えて言った、「ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから、それで来年実がなりましたら結構です。」 COL 1268.5

園丁はこれほど見込みがない木なのに、そのために働くことを拒んでいない。彼はなおいっそう、骨折ってみようとする。環境をもっとも良いものにしてやり、あらゆる心づかいを惜しみなく与えようとする。 COL 1268.6

ぶどう園の主人と園丁は、いちじくの木に同じ関心をもっている。同様に父なる神とみ子は、選民を愛する点で一体となっておられた。こうして、キリストは、ますます多くの機会があなたがたに与えられるのだと聴衆に語っておられた。彼らが義の木となり、世界の祝福のために実を結ぶようになるために、神の愛が考え出すことができるすべての方法が実施されるはずであった。 COL 1268.7

イエスはたとえの中で、園丁の働きの結果についてはお語りにならなかった。主のお話はここでとぎれた。その結論は、主のみ言葉を聞いた時代の人々の態度にかかっていた。「もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」という厳粛な警告が、彼らに対して与えられた。最終的な宣告が発せられるかどうかは、その人々次第であった。怒りの日は近づいていた。ぶどう園の主人は、すでにイスラエルをおそった災害によって、実を結ばない木の破滅について、憐れみ深い警告を前もって発しておられたのである。 COL 1268.8

その警告は、時代をくだって現代のわたしたちにま で響いてくる。ああ、軽はずみな人よ。あなたは主のぶどう園の実を結ばない木ではないだろうか、破滅の宣告が、まもなくあなたに向かって発せられるのではないか。あなたはどれほど長く主の恵みを受けてきたか。どんなに長く主は、あなたが愛をもって応えるのをじっと待ってこられたか。主のぶどう園に植えられ、園丁の注意深い保護を受けて、なんという大きな特権をあなたは受けていることか。どんなにしばしば情け深い福音のおとずれが、あなたの心を震わせたことか。あなたはキリストの名を名乗り、外面的にはキリストの体である教会の一員である。しかしあなたは、偉大な愛のみ心との生きたつながりを自覚していない。主の命の潮は、あなたに流れてない。「みたまの実」である主の品性の美しい徳性は、あなたの中にみられない。 COL 1268.9

実を結ばない木は、雨と日光と園丁の世話を受けている。土から栄養を吸収している。しかし実のない大枝が地面を暗くし、実を結ぶべき木がその影のために繁茂できないようになっている。同様にあなたに惜しげなく与えられた神の賜物は、世界になんの祝福をももたらさない。あなたは他の人に与えられるはずの特権を、彼らからうばっているのである。 COL 1269.1

あなたはおぼろげながら、自分が地をふさぐものであることを感じている。しかし神は、その大いなる憐れみによって、あなたを切り倒されなかった。神はあなたを冷たく見ておられるのではない。神は顔をそむけてなんの関心をももたず、あなたを滅びるままにしておかれるのではない。神は幾世紀も前にイスラエルに叫んで言われたように、あなたを見て叫ばれる、「エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。……わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではないからである」(ホセア11:8、9)。憐れみ深い救い主は、あなたについてこう言っておられる。「ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。」 COL 1269.2

キリストは猶予の期間を長くなさった。また、なんという不屈の愛をもってイスラエルのために働かれたことであろう。十字架上で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とキリストは祈られた(ルカ23:34)。キリストの昇天後、福音はまずエルサレムで宣教された。そこで聖霊が注がれた。そこで最初の福音教会は、よみがえられた救い主の力をあらわした。そこでステパノ——「彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた」(使徒行伝6:15)——は証しを立て、その生命をささげた。こうして、天が与えることができるすべてのものが与えられた。「わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか」とキリストは言われた(イザヤ5:4)。そのように、あなたのためのキリストのご配慮とお働きはおとろえるどころか、かえって強くなっているのである。更に彼はこう言われる、「主なるわたしはこれを守り、常に水をそそぎ、夜も昼も守って、そこなう者のないようにする」(イザヤ27:3)。 COL 1269.3

「実がなりましたら結構です。もしそれてもだめでしたら。」—— COL 1269.4

神の力に応答しないでいると心はかたくなになって聖霊の感化にもはや感じなくなってしまう。その時、次の言葉が語られるのである、「その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか」。 COL 1269.5

今日、神はあなたを招いておられる。「イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。……わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。……わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、……彼らは帰ってきて、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、……あなたはわたしから実を得る」(ホセア14:1~8)。 COL 1269.6