キリストの実物教訓
第16章 本心に立ちかえった青年
本章は、ルカ15:11~32に基づく COL 1261.4
道に迷った羊、なくなった銀貨、そしてこの放蕩息子のたとえは、神からさ迷い出た者に対する神の憐れみ深い愛を明らかに示している。彼らは、神にそむいたけれども、神は彼らをその悲惨な状態のままにしておかれない。敵の巧みな誘惑にさらされているすべての者に対して、神は、情けと憐れみに満ちておられる。 COL 1261.5
放蕩息子のたとえでは、かつては天の父の愛を知っていたにもかかわらず、敵の誘惑のとりこになっている者に対する神のお取り扱いが示されている。 COL 1261.6
「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行」った。 COL 1261.7
この弟は、父の家の束縛をきらった。彼は、自分の自由が制限されているものと思った。彼は、自分への父親の愛情と配慮を誤解した。そして、彼は自分のかってな生活をしようと決心した。 COL 1261.8
この青年は、父に尽くすべきことがあるのを認めようともせず、感謝もあらわさない。ところが、父の財産を受けるべき子としての特権は、主張する。彼は父の死後に与えられるべき遺産を、今手にすることを欲した。彼は、現在の快楽に熱中して、将来のことを考えなかった。 COL 1261.9
彼は、父からの財産を譲り受けると、父の家から離れた「遠い所」へ行った。金は豊富にあるし、思うままに行動する自由もあるので、自分のかねての念願がかなったと思って、得意になっていた。そこには、だれ1人として、それはあなたのためにならないから、してはいけないとか、これは正しいことだから、しなさ いとか言う人はいなかった。彼を罪の深みに沈ませる悪友もいて、彼は、ついに「放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」 COL 1261.10
聖書に、「自ら知者と称しながら、愚かにな」る人々のことが書いてある(ローマ1:22)。たしかに、たとえの中の青年は、ちょうど、そのような人であった。彼が自分かってに父親から要求した財産は、すべて遊女たちに費やしてしまった。彼の青年時代という宝も浪費してしまった。人生の尊い年月、知性の力、青年時代の希望に満ちた幻、霊的向上心などのすべてが、欲望の炎の中で燃やしつくされたのである。 COL 1262.1
そこへひどいききんが起こって、彼は食べることにも困り始め、その地方のある人に身を寄せたところ、その人は、彼を畑にやって豚を飼わせた。ユダヤ人にとって、これは、最も卑しく下等な職業であった。自分の自由を誇っていた青年は、今や、自分が奴隷になってしまったことを悟った。彼は「自分の罪のなわにつながれる」最悪のどれいであった(箴言5:22)。彼の心を夢中にさせていた世の華麗さは、消え去って、鎖の重さを身に感じるようになった。放蕩息子は、ききんにおそわれた外国の畑の中にすわって、豚のほかにはただ1人の友もなく、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどになった。彼の全盛時代に彼の周りに群がって散々飲み食いした遊び友だちで、彼を助けに来た者は1人もなかった。彼の宴楽の喜びは、今は、もうどこへ行ったのか。彼は良心の声を静め、知覚をまひさせて、はかない幸福感に酔っていた。しかし、彼は、すでに金も使い果たし、食べるものもなく、誇りも傷つけられてしまった。道徳性は萎縮し、意志は薄弱になり、高尚な感情はどこかへ消え去ったようである。これでは、全く人間として最もみじめな者といわなければならない。 COL 1262.2
これは、また、なんとよく罪人の状態を描写していることであろう。神に愛され、祝福にとりかこまれていながら、放縦と罪深い快楽に心を奪われた罪人は、なんとかして神から離れ去ることを願う。感謝の心を失った息子のように、当然受けるべき権利として、神の祝福を受けることを主張する。そして、神の恵みを当然のことのように受けて、感謝もしなければ、愛の奉仕もしない。カインが住む所を求めて、神の前を去っていったように、また放蕩息子が、「遠い所」へさまよっていったように、罪人は、神を忘れてほかに幸福を求めるのである(ローマ1:28)。 COL 1262.3
外観がどんなものであろうと、自己を中心にしている人の生活は、浪費である。だれでも神を離れて生きようとするならば、自分の財産を浪費するのである。すなわち貴重な年月を浪費し、思いと心と魂の力を浪費し、自分を永遠の破産者にしようとしている。自分を満足させるために神から離れていく者は、富の奴隷である。天使との交わりのために創造された人の心が、この世的で肉欲的なことのために用いられるまでに堕落してしまった。自己のために生きることは、ついに、こうした結末となるのである。 COL 1262.4
もしも、あなたがこのような生活を選んだなら、パンでないもののために金を費やし、満足を与えないもののために労しているのである。やがて、自分の堕落した状態を認める時がやってくる。遠国でただ1人、自分のみじめさを感じ、絶望の果て、「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫ぶようになる(ローマ7:24)。預言者は、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる」と言ったが、これは万人の認める真理をあらわした言葉である(エレミヤ17:5、6)。神は、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」が、太陽や雨を受けないようにする力が人にはある(マタイ5:45)。そのように、義の太陽が輝き、恵みの雨がすべての人々の上に豊かに注がれているのに、神から離れて、「荒野の、干上がった所に住」むこともできる。 COL 1262.5
神の愛は、今でも神から離れて生きる人の上に注がれ、神はなんとかしてその人を、父の家へ引き返そうと働きかけてくださる。放蕩息子は悲惨な状態に おちいって初めて、「本心に立ちかえっ」た。今まで彼を捕らえていたサタンの欺まんの力から解放された。彼は、この苦しみが自分自身の愚かさの結果であることをさとり、「父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰」ろうと言った。放蕩息子は、実にあわれむべき状態であったけれども、父の愛を確信して望みをいだくことができた。放蕩息子を家へ引きつけたのは、この愛であった。そのように、神の愛の確証が、罪人を神に帰らせることになるのである。 COL 1262.6
「神の慈愛があなたを悔改めに導く」のである(ローマ2:4)。神の愛の憐れみとなさけという黄金の鎖が、危険におちいったすべての魂にのべられている。「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」と主は言われるのである(エレミヤ31:3)。 COL 1263.1
放蕩息子は、自分の罪を告白しようと決心した。父のところへ行って、「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません」と言おうとする。しかし、父親の愛に対する彼の認識が乏しかったことが、「どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」という言葉にあらわれている。 COL 1263.2
青年は、豚の群れと豆がらをあとにして、家路に向かう。弱り果ててふるえ、飢えのために気も遠くなりながら、彼は、ひたすら家路を急いでいく。今は彼のぼろをおおいかくすものは何もないが、あまりにもみじめなので、恥も外聞もあったものではない。かつては、子であったところへ、召し使いの地位を求めるために急いでいくのである。 COL 1263.3
昔、意気揚々となんの深い考えもなく父の家を出た青年は、それが父の心にどんな痛みと寂しさを残したかを夢想だにしなかった。非道な仲間たちと踊ったり、騒いだりしていた時に、それが自分の家庭にどんな暗い影を投げたかは考えてもみなかった。ところが、今、疲労のため痛む足どりで、彼が家路をたどる時にも、彼の帰りを待ちわびている人があるのを彼は知らないのである。放蕩息子が、「まだ遠く離れていたのに」、父は彼の姿を認めた。愛は、すばやく発見する。長年の罪の生活のために変わり果てた姿であっても、父の目から子を隠すことはできなかった。父は「哀れに思って走り寄り、その首を」しっかりと温かく抱きしめたのである。 COL 1263.4
父は、他人が軽べつの目で、ぼろをまとった息子のあわれな姿をあざわらうことを許さない。父は、自分の肩から、巾広いりっぱな上衣をぬいで、息子のやつれた体にかけてやる。すると青年は、悔い改めの涙にむせんで、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」と言ったが、父は息子をしっかりと抱いて、家へ連れて入った。召し使いの地位を求める言葉をいう機会はなかった。彼は、息子なのである。家の最上のものをもって優遇しなければならない人である。そして、召し使いや女中たちが尊敬して仕えなければならない人なのである。 COL 1263.5
父は召し使いたちに言いつけた、「『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』それから祝宴がはじまった。」 COL 1263.6
放蕩息子は、かつての落ちつかない若者だった時には、父親を厳格で恐ろしい人のように考えていた。ところが今は、その考えがなんと変わったことであろう。そのように、サタンに欺かれている者は、神を厳格苛酷な方のように思う。神は、罪人を厳しく見張っていて、責める方であって、真に正当な理由がない限り、助けを与えようともしなければ、迎えいれてくださらないものと、彼らは考える。また、彼らは、神の律法を、人間の幸福を制限するもの、重苦しいくびきと見なして、それから逃れようと望む。しかしながら、キリストの愛によって、目が開かれた者は、神が憐れみ深いお方であることを悟る。神は横暴で残酷な方ではなくて、悔いて帰る子を、だきかかえようとして待っ ている父のような方であると知ることができる。罪人は、詩篇記者とともに、「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる」と言うようになる(詩篇103:13)。 COL 1263.7
このたとえでは、放蕩息子の愚かな行いに対しては、なんの非難や侮辱の言葉も言われていない。息子は、過去が許され、忘れられ、永久に消し去られたことを感じる。同様に神は、罪人に対してこう言われる。「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した」と(イザヤ44:22)。「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ31:34)。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施ざれる。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(イザヤ55:7)。「主は言われる、その日その時には、イスラエルのとがを探しても見当らず、ユダの罪を探してもない」(エレミヤ50:20)。 COL 1264.1
これは神が悔い改める罪人を快く受け入れてくださることの、なんと尊い確証であろう。読者よ。あなたは、自分勝手な道を選んで来たであろうか。神からさ迷い出ていったことであろうか。あなたは、罪の実を食べようとすると、それがあなたのくちびるの上で灰にかわってしまうことに気づかれたであろうか。今や、財産は使い果たし、人生の計画は挫折し、希望も消え、ただ1人、心寂しく座しているであろうか。これまで長くあなたの心に語りかけていたけれども、あなたが一向に耳をかそうとしなかった、まぎれもないあのみ声が、今明瞭に聞こえてくる。「立って去れ、これはあなたがたの休み場所ではない。これは汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨な滅びだ」(ミカ2:10)。あなたの天の父の家に帰りなさい。「わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」と言って、神はあなたを招いておられるのである(イザヤ44:22)。 COL 1264.2
自分がもっと善良になり、神の前に出るにふさわしい者となるまでは、キリストに近づくべきではないという敵のささやきに耳を傾けてはならない。それまで待っているとすれば、いつまでも主の所に来ることはできない。もし、サタンが、あなたの汚れた衣を指さすならば、「わたしに来る者を決して拒みはしない」というイエスの約束をくりかえしなさい(ヨハネ6:37)。イエス・キリストの血がすべての罪から清めると敵に言いなさい。ダビデの祈りをあなたの祈りとして言いなさい。「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう」(詩篇51:7)。 COL 1264.3
立って、あなたの天の父に帰りなさい。神は、遠くからあなたを迎えてくださる。あなたが悔い改めて、1歩神に向かって進むならば、神は、永遠の愛の腕にあなたをいだこうと走りよられるのである。神の耳は、悔い改めた魂の叫びを聞くために開かれている。人の心が、まず神を求め出したその瞬間を、神は、ご存じである。どのようにためらいがちの祈りであっても、どのようなひそかな涙であっても、どのようなか弱い切なる心の願いであっても、必ず神の霊がそれを迎えに出られるのである。キリストから与えられる恵みは、祈りが口から出て、心の願いが述べられるその以前にすでに、人の心に働いている恵みに合流する。 COL 1264.4
天の父は、罪に汚れた衣をあなたから脱がせてくださる。ゼカリヤの美しい比喩的預言の中で、大祭司ヨシュアが汚れた衣を着て、主の使いの前に立ち、罪人を代表している。そして、主からみ言葉があった。「『彼の汚れた衣を脱がせなさい』。またヨシユアに向かって言った、『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう。』……そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた」(ゼカリヤ3:4、5)。そのように神は、あなたに「救いの衣」を着せ、「義の上衣」をまとわせてくださる(イザヤ61:10)。「たとい彼らは羊のおりの中にとどまるとも。はとの翼は、しろがねをもっておおわれ、その羽はきらめくこがねをもっておおわれる」(詩篇68:13)。 COL 1264.5
神は、あなたを祝宴の家に連れて行き、あなたの上に愛の旗をひるがえしてくださる(雅歌2:4)。「あなたがもし、わたしの道に歩」むならば、「ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる」 ——神のみ座のまわりの聖天使たちの間にさえ立たせると、神は言われるのである(ゼカリヤ3:7)。 COL 1264.6
「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる」(イザヤ62:5)。「彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」(ゼパニヤ3:17)。こうして天と地は、天の父の喜びの歌に声を合わせる。「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」 COL 1265.1
救い主の語られたたとえのこの所までには、喜ばしい光景の調和を乱す不調和音は、どこにも見られない。しかし、キリストは、ここでもう1つの分子について語られた。放蕩息子が帰って来た時に、「兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかった。」この兄は父とともに失われた者のことを心配し、その帰りを待っていたのではなかった。それだから、迷い出た者が帰って来ても、父とともに喜ばないのである。 COL 1265.2
楽しい音も、彼の心になんのうれしさも感じさせない。1人の僕に祝宴の理由を聞いたが、その答えを聞いて、彼はねたましく思った。そしていなくなっていた兄弟を家に入って歓迎しようとしないのである。放蕩息子に示された父の愛を、自分に対する侮辱と考えるのである。 COL 1265.3
父が出て来て兄をいさめる時に、彼の心の高慢さと悪意に満ちていることがあらわされる。彼は、自分の父の家の生活を無報酬の労働であると言い、それを、今帰った息子に小ざれた愛と、卑劣にも比較する。彼は、息子としてではなくて、召し使いとして働いて来たことを明らかにする。父とともに住むというつきぬ喜びにひたっていなければならないその時に、彼の心は、その慎重な生活から得られる利益のことを考えていた。彼の言うことによれば、罪の快楽を見合わせたのもそのためであった。もし、この弟が父からこのような賜物を受けるとするならば、自分は不当の扱いをされたのだと兄は考える。彼は、弟が親切にされているのを快く思わない。また、もし自分が父の立場にあれば、放蕩息子を家に入れたりしないことを明らかに示す。兄は帰って来た弟を自分の弟として認めないばかりか、冷淡に弟をさして、「あなたの子」というのである。 COL 1265.4
それでも、父はやさしく彼を扱って言う、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」。あなたの兄弟がさ迷い歩いていたこの年月の間、あなたは、わたしと交わる特権をもっていたではないか。 COL 1265.5
父の家では子供たちの幸福のためになるものであれば、なんでもおしみなく与えられていた。子は、賜物とか、報酬とかを考える必要はなかった。「わたしのものは全部あなたのものだ。」あなたはただわたしの愛を信じ、そして、おしみなく与えられる賜物を受ければよいのである。 COL 1265.6
1人の息子が、父の愛を認めないで、しばらくの間、家から離れていた。ところが、その息子が今帰って来た。そして、喜びの潮がすべての心配事を洗い流してしまう。「このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。」 COL 1265.7
兄は、自分のみにくい忘恩の精神に気づいたことであろうか。弟は、どんなに悪いことをしたとしても、なお、自分の弟であることに変わりがないことを悟ったであろうか。兄は、そのねたみとがんこさを悔い改めたであろうか。それについて、キリストは何も言われなかった。なぜなら、このたとえは、なお現実に演じられていたからである。そして、その結末は、聴衆のこれからの決定いかんにかかっていたからである。 COL 1265.8
この兄は、キリストの時代の悔い改めないユダヤ人を代表していた。そして、また、いわゆる取税人や罪人を軽べつするところの各時代のパリサイ人をもさしている。彼らは、自分たちが、ひどい罪におちいっていないと言って、自分を義とする精神に満ちている。キリストは、これらのとがめ立てする人々に対して、彼らの側に立ってお語りになった。たとえの中の兄 のように、彼らは、神からの特別の特権にあずかっていた。彼らは、神の家の子であるととなえてはいたが、実は雇い人の精神をもっていた。彼らは、愛の動機からではなくて、報酬を望んで働いていた。神は、彼らの目には、厳しい主人と思えた。彼らは、キリストが取税人や罪人を招いて、恵みの賜物を惜しみなくお与えになるのを見た。ところがこれは、ラビたちが、難行苦行によってのみ与えられることを願っていた賜物であったので、彼らはここでつまずいた。放蕩息子が帰って来たということで、天の父は喜びに満ちておられるのに、彼らの心には、ただしっとの思いが起こるばかりであった。 COL 1265.9
たとえの中で、父が兄をいさめたことは、パリサイ人に対する天のやさしい訴えの言葉であった。「わたしのものは全部あなたのものだ。」それは報酬ではなくて、賜物である。それは、放蕩息子と同じようにしてもらえるものである。わたしたちもなんの功績もなく、天の父の愛の賜物としてのみ、受けることができるのである。 COL 1266.1
自分を義とすることによって人は、神を誤り伝えるばかりでなくて、兄弟を冷たく批判するようになる。利己的でしっと深い兄は、ことごとに弟に目をつけて、その行動を批判し、ほんの些細なことまで非難した。兄は、あらゆるあらさがしをして、責めとがめた。 COL 1266.2
こうして、兄は彼が許し得ないことを正当化しようと努めた。今日も同じことをしている者がたくさんいる。魂が、人生における最初の誘惑の大水の中で苦闘しているのを、彼らは、かたくなな態度でかたわらからながめて、つぶやき責める。彼らは、神の子であるととなえても、サタンの精神をその行動にあらわしている。これらの兄弟を訴える人々は、兄弟に対する彼らの態度によって、神が彼らに祝福を与え得ないところに自分たちをおくのである。 COL 1266.3
「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか」と絶えずたずねている人が多い。「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(ミカ6:6~8)。 COL 1266.4
「悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折る、……自分の骨肉に身を隠さないなど」こそ、神の喜ばれる奉仕なのである(イザヤ58:6、7)。あなたが、自分は、ただ天の父の愛のみによって救われた罪人であることを認めた時に、罪に悩む人々をやさしくあわれむことができる。そして、あわれな人や、悔い改めた人を、ねたんだり、責めたりしなくなる。利己という氷が、あなたの心からとけ去って、初めて、神の心と1つになり、失われた者の救いを神と共に喜ぶようになるのである。 COL 1266.5
確かに、あなたは、自分が、神の子であると表明している。もしそれが事実であるなら、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」のは、「あなたの弟」である。神が、彼を子としてお認めになるのであるから、彼はあなたと最も密接な関係によって結ばれている。このような関係を拒むならば、それはあなたが神の家族の子ではなくて、雇い人であることを示しているのである。 COL 1266.6
たとえ、あなたが失われた者を迎えなくても、その喜びの宴は続けられる。そして回復された者は、天の父のそばに座し、天の父の働きにあずかる。多く赦された者は、多く愛するのである。しかし、あなたは、外の暗きに出されるであろう。「愛さない者は、神を知らない。神は愛である」(Ⅰヨハネ4:8)。 COL 1266.7