キリストの実物教訓

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なくした銀貨

キリストは、迷った羊のたとえを語られたあとで、もう1つのたとえを語って言われた。「また、ある女が銀貨10枚を持っていて、もしその1枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。」 COL 1259.1

パレスチナの貧しい人の家は、大抵一部屋だけで、普通は窓もない暗い部屋であった。それに、部屋の中を掃くことはまれであったので、床に落ちた銀貨は、すぐにちりやほこりの中に埋まってしまって、それを見つけるためには、昼間でも、あかりをつけて、よく気をつけて掃かなければならなかった。 COL 1259.2

花嫁の結婚の時の持参金は、普通、何枚かの銀貨になっていて、彼女は、それを何よりも大切な宝としてしまっておいて、自分の娘に譲ることにしていた。もしも、その中の1枚でも紛失すると、たいへんな災難とみなされた。また、なくなったものが発見されたときの喜びも非常なもので、近所の女たちもともに喜ぶのであった。 COL 1259.3

「見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。」 COL 1259.4

このたとえも、前のと同じように、何かがなくなったけれどもさがしにさがした末に、発見することができて大きな喜びがあったという。しかし、この2つのたとえは異なった種類の人々をあらわしている。道に迷った羊は、迷っていることを知っている。羊は羊飼いとおりを離れて、自分で元のところへもどれないでいる。これは、自分が神から離れて、行きづまり、恥辱とはげしい誘惑の中にいることを自覚する人々を代表している。ところがなくなった銀貨は、罪過と罪との中に失われた状態にありながら、それを自覚していない人々をあらわしている。彼らは、神から離れているが、それを知らない。彼らの魂は危険にさらされているのに、それに気づかず、全く無関心でいる。キリストは、神のご要求に無関心な人々でさえ、神は憐れみ深くお愛しになることを、このたとえの中で教えておられる。わたしたちは、彼らをさがし出して、神につれもどさなければならない。 COL 1259.5

羊は、おりからさ迷い出て行った。それは、荒野かまたは山で道に迷ったのである。銀貨は、家の中でなくなった。すぐ近いところにありながら、よく捜さなければ見つけることができなかった。 COL 1259.6

このたとえは、家庭の者に対する教訓である。家庭では、よく家族の者の魂がおろそかに扱われがちである。その中には、神から遠ざかっている者もあろう。ところが、こうして神からゆだねられた賜物の1人でさえ、家族の中で見失うことがないように気をつけている者はごくまれである。 COL 1259.7

銀貨は、ちりやほこりの中に落ちていても、銀貨であることに変わりはない。銀貨には価値があるから、さがすのである。そのように、どんなに堕落していても、人の魂は、神のみ前には尊い価値がある。貨幣には、統治者の像と記号が刻まれているように、人類には、創造の始めから、神のかたちと記号とが刻まれていた。そして、今こそ罪の影響によって神のかたちが損なわれて薄らいだとはいえ、まだその記号がかすかながらすべての魂に残っている。神は、魂を回復して、神ご自身のかたちを再び魂に押して、正しく、聖なるものにしようと望んでおられる。 COL 1259.8

たとえの中の女は、なくなった銀貨をけんめいになってさがした。彼女は、あかりをつけて、家を掃き清めた。銀貨を捜すのにじゃまになるものは、残らず取り除いた。ただ1枚だけがなくなったのであるが、彼女は発見するまで捜すことをやめなかった。そのように家庭の中に、もしも1人でも神から離れた者があるならば、その回復のために全力を尽くさなければなら ない。ほかの家族の者もみな、深く自分を反省して、日常の行為を吟味しなければならない。その魂の悔い改めの妨げになるものがなかったか、彼の取り扱いに過ちがなかったかを考えなければならない。 COL 1259.9

もしも家庭の中に1人でも、自分の罪深い状態を自覚しない者があるならば、両親は、それをそのままにしておいてはならない。あかりをつけよう。神の言葉を探り、その光によって家にあるすべての物をよくさぐって、なぜこの子が失われたかをよく考えることにしよう。両親は、自分の心を反省してみて、日常の習慣や行為について考えてみなければならない。子供たちは、神の嗣業であるから、こうした神の財産の取り扱い方の責任を、神の前で問われるのである。 COL 1260.1

遠い外国の伝道地で、働くことを熱望する父親や母親がよくある。また、家庭の外で、クリスチャン活動を活発に行っていながら、自分たちの子供には、救い主と救い主の愛について、何も教えない親たちが多い。子供たちをキリストに導くという仕事は、牧師や安息日学校の教師にゆだねている親たちが多い。しかし、それでは、神からゆだねられた責任をおろそかにしていることになる。子供たちをクリスチャンにするために教育と訓練を与えることは、親たちが神に対して行うことができる最高の奉仕なのである。忍耐強く励んで、一生の間たゆまず努力しなければならない。この任務を怠ることによってわたしたちは不忠実な管理人になってしまう。このような怠慢に対して、どんな弁解も神はお許しにならない。 COL 1260.2

とはいうものの、このような怠慢におちいっていた者も失望してはならない。銀貨をなくした女は発見するまで捜した。そのように、愛と信仰と祈りによって、親たちは家族の者のために働き、ついには、喜びつつ神のところへきて、「見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たち」と言うことができるようにしよう(イザヤ8:18)。 COL 1260.3

これこそ、真の家庭の伝道であって、伝道の働きをされる者も、する者も共に大きな利益を受ける。わたしたちは、家族の者のために忠実に働いて初めて、教会の中の仕事をする資格が与えられる。もし忠実であれば、わたしたちも、彼らと共に永遠に生きることができる。わたしたちは、家族の者に対していだいているのと同じ関心を、キリストにある兄弟姉妹に対して示さなければならない。 COL 1260.4

そして、神は、わたしたちがこのような経験によって、更に広く他の人々のために働くようになろことをご計画になった。わたしたちの同情心が範囲を広め、愛が増加するにつれて、どこにでも、なすべき仕事を見いだすことができるようになる。神の一大人類家族は、世界的なものであるから、だれ1人見過ごしてはならない。 COL 1260.5

わたしたちはどこにいようと、そこには、夫われた銀貨が発見されるのを待っている。わたしたちは、それを捜しているであろうか。わたしたちは、毎日、宗教に無関心な人々に会っている。彼らと会話をかわしたり、お互いに行き来したりしている。そういう時わたしたちは、彼らの霊的幸福に関心をもっていることを示しているであろうか。キリストを罪からの救い主として彼らに紹介しているであろうか。わたしたち自身の心がキリストの愛に熱していて、その愛のことを人々に語るであろうか。もしそうしていないとするならば、やがて神のみ座の前に立つ時に、これらの魂、しかも永遠に失われた魂と、どうして顔を合わせることができよう。 COL 1260.6

いったい、だれが1人の魂の価値を評価できるであろうか。もしその価値を知りたいと思うならば、ゲッセマネへ行って、血の大きなしずくのような汗を流して苦しまれたキリストと、苦悩を共にするとよい。そして、十字架にかけられた救い主を見ることである。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というあの絶望の叫びを聞き、傷ついた頭、刺された脇、さかれた足を見なければならない。そして、キリストは、ここで、すべてのものを失う危険を冒しておられたことを忘れてはならない。わたしたちの贖罪のために、天そのものが危機におちいったのである。十字架の下に立って、キリストはただ1人の罪人のためでさえ、その命をおすてになったのだということを考える時、初めて、1人の魂の価値を正しく 評価することができる。 COL 1260.7

もし、あなたがキリストと親しく交わっていれば、どの人にも価値があることを認めるようになる。キリストがあなたに対していだかれたと同じ深い愛を、あなたも他の人々にもいだくようになる。そうしてこそ初めて、キリストが身代わりになってなくなられた人々を追いやるのではなくて、引き寄せることができ、反感をいだかせるのではなくて、引き付けることができる。もし、キリストが個人的に努力されなかったならば、だれ1人として、神に引きもどされる者はなかったことであろう。 COL 1261.1

わたしたちが、魂を救うことができるのも、この個人的な働きによってである。このような滅びゆく人々を見る時に、何知らぬ顔をして、じっと安んじているわけにはいかない。彼らの罪が大きく、みじめさが深刻であればあるだけ、彼らを回復させようとする努力も熱烈で、愛のこもったものとなることであろう。悩み苦しむ者や、神に罪を犯している者、または、罪の重荷に圧倒されている人々に何をすべきかがわかるであろう。またあなたは、彼らに心から同情することができて、援助の手をさしのべるようになることであろう。あなたの信仰と愛の腕の中に彼らをかかえてキリストのみもとに彼らを連れてくることであろう。そして、彼らを温かく見守って励まし、彼らに対するあなたの同情と信頼を示して、彼らがかたく立って動かされることがないようにすることであろう。 COL 1261.2

このような働きには、天のすべての使いたちが常に協力しようとしている。全天の資源は、失われた者を救おうとする人々が、いつでも自由に使用できるように提供されている。天の使いたちは、どんなに軽率で、どんなにがんこな人にでも、あなたが近づくことができるように助けを与える。そして、道に迷った者が1人でも神のところに連れもどされると、天全体が歓喜の声をあげる。セラピムやケルビムは、金の立琴をかきならし、人の子らに対する神の憐れみといつくしみに対して、神と小羊をほめたたえるのである。 COL 1261.3