キリストの実物教訓
第14章 祈りの能力
本章は、ルカ18:1~8に基づく COL 1248.5
キリストはここで再臨のすぐ前の時代のことと、信者たちの経なければならない危機について語っておられた。そこで特にその時のことについてたとえを語り、「失望せずに常に祈るべきことを」教えられた。 COL 1248.6
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』。」そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。」 COL 1248.7
ここに描かれている裁判官は、正義を重んぜず、人の苦しみをなんとも思わない人であった。彼は熱心に訴えるやもめの願いもなかなか聞かなかった。この女は幾度となく、冷淡に扱われては裁判所から追い返されていた。裁判官は、このやもめの訴えが正当なものであることを認めていたから、すぐにでも彼女を救うことができたのであるが、そうはしなかった。彼は自分の威力を示したかったのである。こうして、彼はやもめの願い求めることを容易に聞き入れないでいることに、みずから満足感を味わっていた。しかし、彼女は失望も落胆もしなかった。彼女は裁判官のこのような冷酷無情な仕打ちにもひるむことなく、嘆願しつづけたので、裁判官はついに彼女の訴えを聞くことになった。「わたしは神をも恐れ蛍人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう」と彼は言った。彼は自分の体面を保つためと、自分が不正で片寄った裁判をする人であるという世評を受けないために、しつこく訴えるやもめの願いを聞き入れたのである。 COL 1248.8
「そこで主は言われた、『この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう』。」キリストは、ここではこの不義な裁判官と神とを著しく対照しておられる。裁判官は、やもめがあまりにくどいので、もう彼女にわずらわされないようにという単なる利己的考えから、やもめの願いを聞いた。彼はあわれみも同情もなかった。やもめの不幸に心を痛めたのでもなかった。ところが、神を求める者に対する神の態度は、これとはなんと違っていることであろう。神は欠乏と困難の中にある者の願いを限りない憐れみをもってかえりみてくださるのである。 COL 1248.9
裁判官に正しい裁きを求めた女は、夫と死に別れて、たよるあてもなく、失った財産をとりもどす手段もなかった。人間は罪のために神との関係を断たれてしまった。人間には自分で自分を救う方法がない。しかし、わたしたちはキリストにあって、天の父に近づくことができる。神は、ご自分がお選びになったものを、大切になさるのである。彼らこそ、神のみ名を賛美するためと、世界の暗黒の中で光を輝かすために、 暗やみから驚くべきみ光の中に招き入れられた者である。不義な裁判官は、彼に救いを願い求めたやもめに特別の考慮を払ったわけではなかった。しかし、哀願して止まないやもめにわずらわされないために、その敵から救ってやった。ところが、神は、神の子供たちを限りなく愛しておられるのである。神がこの地上の教会ほどに、愛を注がれるものは他にない。 COL 1248.10
「主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた」(申命記32:9、10)。「あなたがたにさわるものは、彼の目の玉にさわるのであるから、あなたがたを捕らえていった国々の民に、その栄光にしたがって、わたしをつかわされた万軍の主は、こう仰せられる」(ゼカリヤ2:8)。 COL 1249.1
「どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください」というやもめの祈りは、神の子らの祈りを代表している。サタンこそ、彼らを訴える大敵である。サタンは「われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」である(黙示録12:10)。サタンは、絶えず神の民を偽って訴え、あざむき滅ぼそうとしている。キリストが、このたとえの中で弟子たちに祈るように教えられたのは、サタンと彼の手下の勢力から救われることである。 COL 1249.2
ゼカリヤの預言には、サタンが神の民を訴えるのに対し、キリストが神の民の敵に対抗して立っておられることが示されている。「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか。』ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていた」と預言者は言っている(ゼカリヤ3:1~3)。 COL 1249.3
ここで、神の民は、さばかれている罪人として描かれている。大祭司ヨシュアは、大きな苦難を受けている民に、神の祝福が与えられることを祈り求めている。ヨシュアが、神に嘆願しているのに対し、彼の右には、サタンが彼の敵対者として立っている。サタンは、神の子供たちを非難し、できれば彼らを絶望におとしいれようとしている。彼は、神の民の悪行と欠点を神の前に述べたてる。また、彼らの過失や失敗を指摘して、キリストの前に彼らの品性をあばいて、大きな苦しみをなめている彼らの所に、キリストからの助けがのべられないように望んでいる。ヨシュアは神の民の代表として、汚れた衣を着て罪を責められている。ヨシュアは、民の罪を自覚して失望している。サタンは、ヨシュアに罪を思い起こさせ、絶望におとしいれる。しかし、サタンの攻撃がどんなにはげしくても、彼はなお嘆願者として立ちつづける。 COL 1249.4
サタンが他を訴えることを始めたのは、天においてであった。人類が堕落して以来、訴えることがサタンの仕事であった。そして、世界歴史が終末に近づくにしたがって、特別な意味において、これが彼の仕事になる。彼は、時の短いのを知っているから、人をあざむいて滅びにおとしいれるために、全力を尽くすのである。彼は、地上にいる一団の人々が、弱く罪深い人々であるにもかかわらず、神の律法を敬っているのを見て怒りをいだくのである。サタンは、彼らが神に従うことができないようにしようとしている。サタンは、彼らにはなんの価値もないことを喜び、すべての者をおとしいれて、神から引き離そうと、あらゆる策をめぐらしている。彼は神を非難するとともに、この世界で憐れみと愛、同情と赦しの精神を心にいだいて、神のみこころを行おうと努力するすべての者を責め、非難するのである。 COL 1249.5
神の力が神の民のためにあらわされるごとに、サタンは怒りをいだく。神が神の民のために働かれるごとに、サタンの部下たちは以前に倍した力をもって、彼らの滅びを図る。サタンは、キリストに信頼する者を1人残らずねたむのである。サタンのねらっていることは、人間をそそのかして、悪を行わせることである。そして、それに成功すると、その責任を全部、誘惑された人間のせいにすることである。サタンは、人々の汚れた衣、不完全な品性を指摘する。また、彼らの弱さと愚かさや、忘恩の罪やキリストに似ていないこ となど、彼らがあがない主のみ栄えを汚したことを指摘する。そして、こうしたことはすべて、サタンが彼らを、自分の思いのままに滅ぼしてよい理由であると主張するのである。サタンは、また人々の心に、自分たちはもう救われる見込みがなく、彼らの汚れは、とうてい洗い清められ得ないものであるというように思わせて、恐怖におとしいれようとしている。こうして、サタンは人々の信仰を失わせて、全く自分の誘惑のとりことし、神に反逆させようとしているのである。 COL 1249.6
神の民は、サタンの告訴に対して、自分の力では返す言葉がない。自分を振りかえってみれば、絶望するほかはない。しかし、彼らは助け主なるキリストの助けを仰ぎ、あがない主の功績にすがるのである。「こうして、神みずから義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3:26)。神の子供たちは、神がサタンの非難を沈黙させ、彼の策略を失敗に終わらせてくださることを確信して、神に叫び求める。「どうぞ、わたしを訴える者をさばいてください」と彼らは祈る。そして、キリストは、大胆に訴えてくるサタンを、十字架の大議論によって沈黙させられるのである。 COL 1250.1
「主はサタンに言われた、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか』」と。サタンが神の民を暗黒に閉じこめて、滅ぼそうとする時、キリストはみ手を下される。彼らは、罪を犯しはしたが、キリストが彼らの罪の重荷をご自分の魂の上にせおってくださった。そしてイエスは人類を、火の中から燃えさしのように取り出された。イエスは、ご自分の人性によって人と結合され、また、ご自分の神性によって、無限の神と1つに結ばれておられる。助けが、滅びようとする魂にさしのべられた。敵は責められたのである。 COL 1250.2
「ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、『彼の汚れた衣を脱がせなさい』。またヨシュアに向かって言った、『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう』。わたしは言った、『清い帽子を頭にかぶらせなさい』。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。」そして、天使は、万軍の主の権威をもって、神の民を代表しているヨシュアと厳粛な契約をかわした。「あなたかもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならは、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。」すなわち神のみ座の周りの天使の間にさえ行き来できるのである(ゼカリヤ3:3~7)。 COL 1250.3
神の民には欠点があるにもかかわらず、キリストは、彼の保護の対象である彼らから、お離れにならない。キリストは彼らの衣を変える力を持っておられる。キリストは彼らの汚れた衣をとり除き、悔い改めて信じる者の上に、彼ご自身の義の衣を着せ、天の記録の彼らの名の所に、赦されたことを書いてくださる。キリストは、天の宇宙の前で、彼らをご自分のものとして告白なさる。彼らの敵サタンは、訴える者、欺く者であることが暴露される。神は、ご自分の選民のために正義を行われる。 COL 1250.4
「どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください」という祈りは、ただサタンだけにあてはまるのでなくて、サタンにそそのかされて、神の民を悪く言い、誘惑し、滅ぼそうとする人々にもあてはまる。神の戒めに従う決心をした者は、下からの権力に支配された敵のあることを、経験によって知らされる。こうした敵が至るところでキリストを陥れようとした。彼らがどんなにしつこくキリストにつきまとったかは、だれも知ることができない。キリストの弟子たちも、主と同じように、絶えず誘惑にあわなければならない。 COL 1250.5
聖書には、キリストの再臨直前の世界の状態が描かれている。使徒ヤコブは、貪欲と圧制とが世にはびこることをしるしている。「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。……あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。見よ、あなたがたか労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あ なたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、『ほふらるる日』のために、おのが心を肥やしている。そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼はあなたがたに抵抗しない」(ヤコブ5:1~6)。これが、今日の状態である。あらゆる圧迫と搾取とによって巨大な富の蓄積が行われる一方、飢えた人類の叫びが神の前に上っていくのである。 COL 1250.6
「公平はうしろに退けられ、正義ははるかに立つ。それは、真実は広場に倒れ、正直は、はいることができないからである。真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる」(イザヤ59:14、15)。この言葉は、キリストの地上の生涯で成就した。キリストは、神の戒めに忠実に従われた。そして、神の戒めの代わりに人々が尊重していた伝説や人間の戒めを、退けられた。そのために、キリストは憎まれ、迫害された。歴史はくり返す。人間のおきてと伝説は神の戒めよりも尊ばれ、神の戒めに忠誠をつくす者は、恥辱と迫害を受ける。キリストは忠実に神にお仕えになったために、安息日を破る者、神を汚す者であると非難を受けられた。キリストは悪魔につかれた者と呼ばれ、また、ベルゼブルであるとの攻撃を受けられた。彼に従う者もこれと同様の非難を受け、悪く言われるのである。こうして、サタンは、彼らを罪におとしいれて、神の名を汚そうと望んでいる。 COL 1251.1
神を恐れず、人を人とも思わないような裁判官のことをキリストが語られたのは、そのようなことが当時行われていた裁判であったからである。そして、間もなくキリストご自身の裁判の時にも、この通りのことが実際に行われることを示されたのである。また、わたしたちが逆境におちいった時に、世の為政者や裁判官が、どんなに頼りにならないものであるかを、各時代の神の民に悟らせようと望まれた。神の選民はしばしば役人の前に立たされる。これらの役人は、神の言葉の指導と勧告に従わず、清めも受けず、生まれつきのままの衝動に従って行動する。 COL 1251.2
キリストは、不正な裁判官のたとえによって、どうするべきかを、わたしたちにお教えになった。「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださら」ないことがあろうか。わたしたちの模範であるキリストは、自己の弁護や逃れる手段をはかることは、何もなさらなかった。イエスは、ご自分を神におゆだねになった。そのように、キリストの弟子たちは、人を責め、非難し、暴力に訴えてまで、自分の身の安全を図ろうとしてはならない。 COL 1251.3
理解に苦しむ試練がやってきても、心の平和をかき乱してはならない。どんな不正な取り扱いを受けても、腹を立ててはならない。わたしたちは、復しゅう心をいだくことによって自分を傷つける。わたしたちは神に対する自己の信頼を失い、聖霊を悲しませる。わたしたちの側には、証人、天からの使者が与えられていて、この証人が、わたしたちのために、敵に立ち向かってくださる。彼は、わたしたちを義の太陽の光で包む。サタンは、これを通りぬけられない。サタンは、この聖なる光の防壁を越えることができない。 COL 1251.4
世は、ますます悪化して行くのであるから、自分には、なんの困難も起こらないと楽観することは、だれもできない。実は、こうした困難そのものが、わたしたちを至高者の会見室に導き入れる。わたしたちは、無限の知恵を持っておられる主の勧告を、求めればよいのである。 COL 1251.5
「悩みの日にわたしを呼べ」と主は、言っておられる(詩篇50:15)。神は、わたしたちが、自分たちの悩みと欠乏とを神に申し上げ、上からの助けの必要なことをわたしたちが神に訴えることを、神は勧めておられる。また神は、常に祈るようにお命じになる。困難なことが起こった時にはすぐに、熱心な祈りを心から神にささげなければならない。わたしたちは、しきりに願うことによって、神に対するわたしたちの強い信頼をあらわす。わたしたちのこうした必要感が、熱心に神に祈りをささげさせ、そして天の父は、わたしたちの嘆願を聞いて心をお動かしになる。 COL 1251.6
信仰のために恥辱と迫害を受ける者は、ともすると自分たちは、全く神から見捨てられたかのように思いがちである。人間の見地からすれば、彼らは少数である。見たところ、敵の方が優勢である。しかし彼らは良心に従わなければならない。彼らのために苦し みにあい、悲しみとなやみをになわれた主は、彼らをお捨てになったのではない。 COL 1251.7
神の子供たちは、無防備のまま放置されてはいない。祈りは、全能のみ手を動かす。祈りは、「国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、……他国の軍を退かせた」。こうして、信仰のために殉教した人のことを聞くと、それがどんなことを意味したかを知るのである(ヘブル11:33、34)。 COL 1252.1
もし、わたしたちが、神のこ用のために自分をささげているならば、神は、なんの備えもなさらないような所へ、わたしたちを置かれることはない。わたしたちがどのような境遇にあっても、導き手であられる主がわたしたちをお導きくださる。どんな問題であっても主は確実な相談相手である。また、どんな悲しみ、死別のなげき寂しさの中にあっても、同情にあふれた友なるイエスがわたしたちとともにおられる。無知のために足を踏みすべらすようなことがあったとしても、キリストはわたしたちを、おすてにはならない。「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われる主のみ声が、はっきりと聞こえてくる(ヨハネ14:6)。「彼は乏しい者をその呼ばわる時に救い、貧しい者と、助けなき者とを救う」(詩篇72:12)。 COL 1252.2
主のみもとに近づき、主のご用を忠実に果たす者によって、主はあがめられるのであると、主は言われる。「あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである」(イザヤ26:3)。全能のみ手は、わたしたちを前へ、そして更に前へと導こうとして、のべられている。主は、前進せよ、わたしはあなたを助けると言っておられる。あなたが求めることとその求めたものが与えられることとは、わたしの名の栄えになるのである。あなたが、つまずくのを待ち設けている者の前で、わたしはあがめられるのである。彼らはわたしの言葉が勝利のうちに果たされるのを見るであろう。「また、祈のとき、信じて求めるものはみな与えられるであろう」(マタイ21:22)。 COL 1252.3
悩み苦しみにあう者はすべて、神を呼び求めるとよい。冷酷な人々に頼ることをしないで、創造主に、あなたの求めを申し上げなさい。砕けた心をもって、神に来る者は、だれ1人しりぞけられることはない。心からの祈りは、決して消えてしまうものではない。天の聖歌隊の賛美を受けておられる神は、弱々しい人間の叫びをも聞かれる。わたしたちが、部屋の中で心の願いを申し上げたり、あるいは、道を歩きながら祈ったりすると、その言葉は宇宙の王のみ座にまで達する。それはだれの耳にも聞こえないであろうが、消え去ってしまったり、忙しい仕事に取りまぎれて、なくなったりしない。何ものも、人の心の願いを消し去ることはできない。祈りは街頭の騒音や群衆の混雑をこえて、天の宮廷へと上っていく。わたしたちが語りかけているのは、神である。そして、神は、わたしたちの祈りを聞かれるのである。 COL 1252.4
自分にはなんの価値もないと感じる人も、神に自分の願いをゆだねるのをためらってはいけない。世の罪のために、キリストを与えることによって、ご自分をお与えになった神は、すべての魂の責任をご自分で負われたのである。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ8:32)。わたしたちを励まし力づけるために与えられたこうした恵み深いみ言葉を、神が成しとげてくださらないことがあろうか。 COL 1252.5
キリストは、ご自分の嗣業である神の選民をサタンの手の中からあがない出すことを、何よりも望んでおられる。しかし、わたしたちが、サタンの外部的な権力から救われるに先だって、サタンの内部的な力から救われなければならない。 COL 1252.6
そこで世俗心や利己心、粗野でキリストにふさわしくない性質を清めるために、主は、試練がやってくることをお許しになる。苦難の大水が押しよせてくるのは、わたしたちが、神と、神がつかわされたイエス・キリストを知り、汚れからの清めを熱望するようになるためである。こうした試練を経ることによって、さらに清く聖なる者となり、幸福になるためである。わたしたちが試みの炉に入る時、魂はしばしば利己心の ために暗くなる。しかし、その厳しい試練を忍耐するならば、神の性質を反映して出てくるのである。神が苦難を送られた目的が果たされたとき、「あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる」(詩篇37:6)。 COL 1252.7
神の民のささげる祈りを、神がお聞きにならないという恐れは全くない。わたしたちは、誘惑や試練にあった時に、失望落胆におちいり、熱心に祈りつづけなくなってはいけない。 COL 1253.1
救い主は、スロ・フェニキヤの女をあわれまれた。イエスは彼女の悲しみを見て心をお痛めになった。彼女の祈りが聞きとどけられた確証をただちに与えようと望まれたが、弟子たちに教訓を与えるために、しばらく彼女の悲痛な叫びをお聞きにならないふりをされた。ところが彼女は、イエスを信じる固い信仰をあらわした。キリストは、スロ・フェニキヤの女を賞賛し、彼女の願い求めていた尊い恵みを与えてお帰しになった。弟子たちは、この教訓をいつまでも忘れなかった。そして、不屈の祈りが、どのような結果をもたらしたかについて記録を残したのである。 COL 1253.2
この母親に、これほどの求めてやまぬ心を起こさせたのは、キリストご自身であった。裁判官の前で訴えるやもめに、勇気と決意を与えたのもキリストであった。又、幾世紀もの昔、ヤボクの渡し場で、不思議な格闘の際に、ヤコブに同じ不屈の信仰を与えたのもキリストであった。こうして、ご自身が人の心にお植えになった確信に対して、主は必ず報いをお与えになったのである。 COL 1253.3
天の聖所におられる裁判官は、正しいさばきを行われる。彼は、ご自分のみ座を取りかこむ天使たちよりも、罪の世の誘惑にさらされている人類との交わりをお喜びになる。 COL 1253.4
今全宇宙の関心がこの小さな地球に向けられている。それは、キリストが地球の住民の魂のために、無限の価を払われたからである。世のあがない主は、天と地とを結びつけるのに天使たちをお用いになる。主にあがなわれた者が、この地上にいるからである。昔、天使たちがアブラハムやモーセと共に歩いて語ったように、今もなお、彼らは、地上を訪れる。大都会の忙しい活動の中に、街頭や市場に群がっている群集の中に、また、人生は金をもうけ、遊戯にふけり、楽しむことだと考えて、永遠の世界のことは、考えようともしない人々の中にさえ、神はなお、守護者や聖天使たちをお送りになる。このような目には見えない使者たちが、人々のすべての言葉と行いを見守っている。どのような事業あるいは、快楽のつどいの中にも、またはどのような礼拝のつどいの中にも、そこには目に見える聴衆のほかに、別の聴衆がある。時には天使たちが見えない世界をおおっている幕を開いて見せる。そして、わたしたちの心を、あわただしい生活から転じて、すべての言行を見守っている目に見えない証人たちのことを考えさせようとしている。 COL 1253.5
わたしたちは、天使の来訪が、なんの目的のためであるかを、よく知らなければならない。わたしたちが、どんな仕事をしていても、天使たちの協力と保護が与えられていることを思わなければならない。目にこそ見えないが、光と力の軍勢が、神の約束を信じて、これを自分のものとする柔和で心のへりくだった者の保護にあたる。ケルビムとセラピム、力にすぐれた天使たち、万の幾万倍、千の幾千倍もの天使たちが、キリストの右に立っている。これは、「すべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされた」のである(ヘブル1:14)。 COL 1253.6
これらの天の使いたちによって、人の子らの言葉と行いがもれなく記録されている。神の民に対する残酷と不正行為、悪人の権力によって、神の民に加えられた苦痛もみな天に記録されるのである。 COL 1253.7
「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。」 COL 1253.8
「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。『もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。 遅くなることはない』」(ヘブル10:35~37)。「見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい」(ヤコブ5:7、8)。 COL 1253.9
神の忍耐は驚くばかりである。罪人に恵み深い訴えかなされている間に、神の義もまた長く待っている。しかし、「義と正とはそのみくらの基である」(詩篇97:2)。「主は怒ることおそく」とあるが、「力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである」(ナホム1:3)。 COL 1254.1
世の人々は、大胆に神の律法を犯すようになった。神が長く忍んておられるために、人々は、神の権威を踏みにじった。彼らは、互いに、競って、神の嗣業である人々を圧迫し残酷に扱った。「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と彼らは言うのである(詩篇73:11)。けれども、彼らには越えられない一線が画されている。定められた限界に彼らが達する時が近づいてきた。今すでに、彼らは、神の忍耐の限界を越えようとしている。それは、神の恵みと憐れみの限界である。主は、み手を下してご自分の名誉を擁護し、神の民を救い出し、不義が増し加わるのをおさえられる。 COL 1254.2
ノアの時代の人々は神の律法を無視し創造主を記念するものは、地から全く消え去ったかと思われた。人々の罪があまりにはなはだしくなったために、主は洪水によって、罪深い地の住民たちを一掃なさった。 COL 1254.3
いつの時代でも、主はご自分の働かれる方法を人々にお知らせになった。危機が迫ってくると、主はいつもご自分をあらわされ、サタンの計画が実行されるのをとどめるために手を下された。神は、国家であろうと、家族であろうと、あるいは個人の場合であろうと、主の介入がいっそう明らかにわかるように、事態が危機におちいるのをお許しになる。こうして律法を擁護し、正しいさばきを行われるイスラエルの神の存在が明らかにされたのである。 COL 1254.4
現在は、罪悪が世にあふれて、最後の大危機が近いことを告げている。神の律法が全世界的に無視され、神の民がその同胞からの圧迫と迫害を受けるようになるその時に、主が介入なさるのである。 COL 1254.5
「さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。地はその上に流された血をあらわして、殺された者を、もはやおおうことがない」と主がわれる時が近づいている(イザヤ26:20、21)。今、クリスチャンであると言いながら、貧者からだまし取ったり圧迫したり、やもめや孤児から奪ったりする人がある。神の民の良心を自分たちの思いのままにできないからといって、悪魔のような憎しみをいだく人々がいる。しかし、神は、こうしたことをすべておさばきになる。「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される」(ヤコブ2:13)。やがて、彼らは、全地の裁判官の前に立って、神の嗣業である民の肉体と魂とを苦しめたことについて申し開きをしなければならない。彼らは、今、神の働きをしている人々を偽って訴え、あざけることであろう。神を信じる人々を牢獄に入れ、鎖につなぎ、流刑や死刑に処することであろう。しかし、このよりなすべての苦痛と悲嘆に対して、彼らは神に申し開きをしなければならない。神は彼らの罪に2倍の罰をお与えになる。神は、刑罰を下す天使たちに向かって、背教した教会の象徴であるバビロンについて言っておられる。「彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて2倍に報復をし、彼女が混ぜて入れた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ」(黙示録18:5、6)。 COL 1254.6
インド、アフリカ、中国、海の島々などから、あるいはいわゆるキリスト教国で圧迫を受けていろ幾百万の人々から、痛ましい叫び声が神の前に上っているその叫びは必ず近いうちに聞かれる。神はこの世界の道徳的腐敗をお清めになる。それはノアの時のような洪水ではなくて、だれも消すことのできない火の 海によってである。 COL 1254.7
「その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます」(ダニエル12:1)。 COL 1255.1
屋根裏の部屋、あばらや、牢獄、処刑台、山々、荒野、地のほら穴、海の洞窟の中から、キリストは、ご自分の子供たちをお集めになる。地上にあって、彼らは貧しく、なやみ苦しんだ。また、サタンの偽りの要求に従わなかったために、恥辱をこうむって墓に下っていった者が、幾百万とあった。こうして、神の子供たちは、地上の裁判官によっては極悪の犯罪人であると宣告された。しかし、「神はみずから、さばきぬし」になられる時が近い(詩篇50:6)。その時に地上の判決はくつがえされる。「その民のはずかしめを全地の上から除かれる」(イザヤ25:8)。すべての者に白い衣が与えられる(黙示録6:11)。「彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ」る(イザヤ62:12)。 COL 1255.2
神の子供たちは、どのような苦難にあったにせよ、どのような損失を受けたにせよ、またどのような迫害をこうむったにせよ、あるいはまた、この世の生命を失ったにしても、そのとき、必ず十分な報いを受けるのである。彼らは、「御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている」(黙示録22:4)。 COL 1255.3