キリストの実物教訓
第15章 この人は罪人たちを迎えて
本章は、ルカ15:1~10に基づく COL 1255.4
「取税人や罪人たち」が、キリストの周りに集まってくると、律法学者たちは、つぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。 COL 1255.5
ユダヤ人はこのように非難することによって、キリストが罪深く汚れた人々と交わることを好み、彼らの罪深さをご存じないのだと遠回しに言った。律法学者たちは、イエスに失望した。イエスはご自分の品性の清いことを主張しながら、律法学者たちと交わらず、その教え方にも同調しないのはなぜであろうか。イエスが少しももったいぶらないで、どの階級の中にも入って働かれるのはなぜであろうか。もし、彼が真の預言者であれば、律法学者と同じ意見をもち、取税人や罪人を、当然彼らの受けるべき冷淡な取り扱いをするはずであると彼らは考えた。こうした社会の保護者たちは常にイエスと争いながらも、イエスの生活の清らかさに畏敬と自責の念をいだいていた。しかし、社会から見捨てられた人々に、彼がこのような明らかな同情を示されたことを怒った。彼らは、イエスの方法を承認しなかった。彼らは、自分たちが教育と教養にすぐれた宗教家であると自認していたが、キリストの摸範によって、彼らの利己心が暴露された。 COL 1255.6
彼らを怒らせたもう1つのことは、これまで律法学者たちを軽べつして、会堂には来たこともなかった人々が、イエスの周りに群がり、彼の言葉に魅せられたように聞き入っていることであった。律法学者やパリサイ人は、彼の清らかなみ前に立つと心を責められるばかりであるのに、どういうわけで、取税人や罪人は、イエスに引き付けられたのであろうか。 COL 1255.7
彼らは、その理由が、「この人は罪人たちを迎えて」と彼らがあざけりながら発した言葉そのものにあることを知らなかった。イエスの所に来た魂は、自分たちのような者のためにも、罪の穴から逃れる道があることを、イエスの前に来た時に感じた。パリサイ人は、ただ、彼らをあなどり、とがめるだけであった。 COL 1255.8
しかし、キリストは、長く父の家から離れていたとはいえ、父のみ心から忘れ去ることのできない神の子供たちとして、彼らをお迎えになった。そして、彼らが悲惨と罪の中にあること自体が、特別に神の憐れみの対象になる理由であった。彼らが神から遠ざかっていればいるだけ、彼らに対する熱望も大きく、彼ら の救いのために大きな犠牲を、神は払われるのである。 COL 1255.9
イスラエルの教師たちは、これをみな、自分たちが保管者で解釈者であると誇っていた聖書から、学ぶことができたはずであった。罪を犯したダビデは、「わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください」と書いたのではなかったか(詩篇119:176)。ミカも罪人に対する神の愛を記して、「だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず」といった(ミカ7:18)。 COL 1256.1