キリストの実物教訓
第13章 神殿の中の2人の礼拝者
本章は、ルカ18:9~14に基づく COL 1241.6
「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して」キリストは、パリサイ人と取税人のたとえを語られた。パリサイ人は礼拝をするために宮に上るが、それは自分が赦しを受けなければならない罪人であることを認めたからではなく、自分を正しいと思い、神の賞賛を受けようと思うからである。彼は、自分の礼拝を、何か神の前に自分をよく思われるようにする行為でもあるかのように考える。また、他の人々にも、自分を信心深い人間のように思わせていた。彼は神からも人からも、よく思われようとする。彼の礼拝は、私利私欲から出たものであった。 COL 1241.7
そして、彼は、自己称賛の念に満ちでいる。それが 態度にも、歩きぶりにも、祈りにもあらわれている。「わたしに近づいてはならない。わたしはあなたとは別の人間だから」と言わぬばかりに、彼は他の人々から離れて立って、「ひとりで」祈る。全く自己に満足しきって、神も人もともに自分に満足してくれるものと考える。 COL 1241.8
「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します」と彼は言う。彼は神の聖なる品性によらず、他の人の品性によって、自分の品性を評価したのである。彼の心は神を離れて人に向けられていた。彼の自己満足の原因がここにある。 COL 1242.1
彼は、自分の善行をこまごまと述べて、「わたしは1週に2度断食しており、全収入の10分の1をささげています」と言う。パリサイ人の宗教は魂になんの変化も起こさない。彼は、品性が神に似てくることや、愛と憐れみの心を求めようとしない。ただうわべだけの宗教に満足している。彼の義は、自分の義、つまり、彼自身の行いの結果であり、人間の標準によって評価されたものである。 COL 1242.2
だれでも自分は正しいと自認する者は、他を軽べつする。パリサイ人は他人を標準にして自分を評価するように、自分を基準にして他をさばくのである。彼の義は、人々の義によって評価されるから、人々が悪ければ悪いほど、対照的に彼のほうが正しく見えるのである。こうした自分を義とする精神をもつと、他を非難するようになる。「ほかの人たち」は、神の戒めを犯していると宣言する。こうして、彼は、兄弟を訴える者であるサタンの精神をあらわすのである。この精神をもっているならば、神との交わりに入ることができない。彼は神の祝福を受けないで、自分の家に帰っていく。 COL 1242.3
取税人も、他の礼拝者とともに宮へ上ったけれども、彼は人々と一緒に礼拝する価値はないと考えて、彼らから離れて1人になった。彼は、はるか遠くに立って、「目を天にむけようともしないで、胸を打ち」、深い悲しみと自己嫌悪の情をあらわした。彼は、神に対して罪を犯している自分が、罪深く汚れていることを感じた。彼は周りの者から、憐れみをうけることさえ期待することはできなかった。人々は彼を軽べつしていた。また、自分を神に推賞するようななんの功績も持たないことを知って、絶望のあまり、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と叫んだ。彼は自分を他人と比較しなかった。彼は罪の意識に圧倒され、神の前に自分がたった1人で立っているような気がした。彼の唯一の望みは、赦しと和らぎが与えられることであった。彼の唯一の嘆願は、神の憐れみを受けることであった。そして、彼は祝福を受けた。「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人で」あったとキリストは言われた。 COL 1242.4
パリサイ人と取税人とは、神を礼拝するために来る2種類の人を代表している。そして、その人々を、この世界に生まれてきた最初の2人の子供たちがよく代表している。カインは、自分を義であると考え、感謝のささげ物をもってきただけであった。カインは、罪の告白をしなかった。彼は憐れみの必要も認めなかった。ところが、アベルは、神の小羊を予表した血をもってきた。アベルは、自分が罪人であり、失われた人間であることを認めて神のところにきた。彼の何よりも望んだものは、なんのいさおしもなくして与えられる神の愛であった。神はアベルのささげ物をお受け入れになったが、カインとカインのささげ物は、お認めにならなかった。神に受け入れられる第一の条件は必要感をもつこと、つまり、自分の欠乏と罪とを自覚することである。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ5:3)。 COL 1242.5
パリサイ人と取税人とが代表している2種の人々のことについては、使徒ペテロの生涯がその両方のよい実例になっている。ペテロは、弟子になった初めは自分の強さをほこっていた。自分自身の評価によれば、彼もパリサイ人と同じように、「ほかの人たちのようではないと考えた。キリストはあの裏切りの夜、弟子たちに警告を発して、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう」と言われたが、その時も、ペテロは「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつ まずきません」と確信にみちて言った(マルコ14:27、29)。ペテロは、自分の危険な状態を知らなかった。彼をおとしいれたのは自己過信であった。彼は、自分の力で誘惑に対抗できると思っていたけれども、わずか数時間後に試練がきた時に、ののしりと誓いの言葉とともに主を拒んだのである。 COL 1242.6
ペテロは、にわとりの鳴く声を聞いて、キリストの言葉を思い起こし、自分がなんということをしたかに恐れおののいて振り返って、主の方を見た。ちょうどその瞬間、キリストもペテロをご覧になった。そしてそのまなざしは悲痛な表情ではあったが、そこにペテロに対する憐れみと愛とが混じっていた。ペテロは、それを悟って外に出て激しく泣いた。彼の心をくだいたのはキリストのその時の表情であった。ペテロはここで人生の転換期に立っていた。そして彼は心から罪を悲しんで悔い改めた。彼は、取税人のように真心から悔い改めた。そして、取税人が受けたと同じ神の憐れみを受けた。キリストのみ顔が、彼に赦しの確証を与えたのである。 COL 1243.1
こうして、ペテロの自己過信はうせた。彼は、2度と高慢な言葉を口に出さなくなった。 COL 1243.2
キリストは、復活後、3同もペテロを試みられた。「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と言われた。ペテロは、もはや兄弟たち以上に、自分を高めてはいなかった。彼は自分の心を読むことができるお方に訴えて、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」と言ったのである(ヨハネ21:15、17)。 COL 1243.3
こうして彼は主の任命を受けた。これは、彼がこれまでゆだねられていたものよりは、はるかに広く、熟練を要するものであった。キリストは、彼に羊や小羊を飼うように命じられた。救い主が命を捨てて、お救いになった魂を指導するようペテロにゆだねられたことは、主がペテロを信任して弟子に復帰させられた最大の証拠であった。かつては、落ちつきがなく、高慢で自己過信に満ちていた弟子が、落ちついた心の砕けた者になり、主の克己と自己犠牲にならい、キリストの苦しみにあずかる者となった。そして、キリストが栄光の王座につかれる時には、ペテロも、主の栄光にあずかる者となるのである。 COL 1243.4
ペテロを失敗におとしいれ、パリサイ人を神との交わりに入れさせなかったその罪が、今日、幾千という人を滅びにおとしいれている。高慢とうぬぼれほど神がおきらいになるものはなく、また人の魂を危険にさらすものはない。あらゆる罪の中で、これほど絶望的でどうにもならないものはない。 COL 1243.5
ペテロの失敗は、瞬間的でなく、徐々に起こった。自己を過信して、救われたものと思い込んでいるうちに、1歩1歩と堕落の道をたどり、ついには、主を拒否するようになった。わたしたちも天国に入るまでは、もはや自分は試練に負ける心配はないと感じたり、自信をもったりすることは安全ではない。救い主を受け入れた者は、たとえどんなに真面目な改心者であっても、わたしたちは救われている、と言ったり、また、感じたりするようにその人々に教えてはならない。これは、誤解を招きやすい。もちろん、わたしたちは、すべての者に希望と信仰とをいだくように教えなければならない。しかし、自らをキリストにささげ、キリストに受けいれられたことを知ってもなお、わたしたちは、誘惑の手のとどかないところにいるわけではない。「多くの者は自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう」と神の言葉にしるされている(ダニエル12:10)。試練を耐え忍ぶ人だけが、命の冠を受けるのである(ヤコブ1:12)。 COL 1243.6
人がまず初めにキリストを受けいれ、心に確信をいだき始め、自分は救われたのだという時に、自己に依存する危険がある。彼らは自分の弱さと神の力がいつでも必要なことを忘れやすい。彼らはそのようなすきにつけこまれてサタンの誘惑に負け、ペテロのように罪の深みに沈んでしまう。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と忠告されている(Ⅰコリント10:12)。常に自分に依存せずに、キリストに信頼することが唯一の安全な方法である。 COL 1243.7
ペテロは自分の品性の欠点を知り、キリストの能 力と恵みの必要なことを学ばなければならなかった。主は、彼が試練にあわないようにすることはおできにならなかったが、試練に敗北しないように救うことがおできになった。ペテロがもしキリストの警告に聞き従っていたならば、彼は目をさまして祈っていたことであろう。また、彼の足がつまずかないように、恐れおののきつつ歩んでいたことであろう。そうすれば、彼は神の助けによって、サタンに負けることはなかったであろう。 COL 1243.8
ペテロが倒れたのは、うぬぼれのためであった。そして、彼がまた立ち上がるようにしていただいたのは、悔い改めとへりくだった思いを持つことによってであった。このような経験が記録されているのを見て、悔い改める罪人はみな勇気づけられる。ペテロははなはだしい罪におちいったけれども、主に見捨てられたのではなかった。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」というキリストの言葉が、彼の心に刻まれていた(ルカ22:32)。ペテロははげしい良心の呵責に苦しめられた時にも、この祈りとキリストの愛と憐れみに満ちたお顔を思い出して、希望をいだくことができた。復活後、キリストは、ペテロをお忘れにならなかった。天使は女たちに次のように言っている。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。……そこでお会いできるであろう」(マルコ16:7)。救い主はペテロの悔い改めをお受け入れになった。主は罪をお赦しになる方である。 COL 1244.1
こうして、ペテロを救った同じ憐れみが、試練におちいったすべての魂にさし伸べられている。人に罪を犯させ、そのまま、絶望と恐怖の中に放任して、赦しを求めることを恐れさせるのは、サタンの特別の策略である。しかし神は、「わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」と言っておられるのであるから、何を恐れることがあろうか(イザヤ27:5)。わたしたちの弱さを助けるための備えは、十分に整っている。そして、キリストに来るようにとのあらゆる招きが与えられている。 COL 1244.2
キリストは、ご自分のさかれた体を提供して、神の嗣業を買いもどされた。これは人間にもう1度機会を与えるためであった。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(ヘブル7:25)。キリストは彼の清い生涯、服従の生活、カルバリーの十字架の死とによって、失われた人類のためにとりなしをされた。そして、今わたしたちの救いの君は、単なる嘆願者としてではなくて、戦いに打ち勝った勝利者として、わたしたちのために、とりなしをなさるのである。彼のささげ物は完全なものである。そして、主は、わたしたちをとりなすお方として、神の前で、ご自身の汚れなき功績と神の民の祈りと告白と感謝を盛った香炉を持って、ご自分が制定なさったお勤めをしておられる。これらは、キリストの義の香りとともに、芳しい香りとなって神の前に上る。このようなささげ物はことごとく神に受け入れられる。あらゆる罪は赦されておおわれるのである。 COL 1244.3
キリストは、わたしたちの身代わりであると同時に保証人となることを約束しておられて、どんな人でもおろそかになさらない。主は人類が永遠の滅びにおちいろうとしているのを見るに忍びず、人類のために死に至るまでご自分の魂を注ぎ出されたのである。主は、自己を自ら救うことができないことを認めたすべての魂に、憐れみと同情をよせられるのである。 COL 1244.4
主はおののきつつ嘆願する者を、必ず助け起こしてくださる。主は、贖罪によって、つきることのない道徳的能力をわたしたちのために備えてくださったから必ずこの力をわたしたちのために用いてくださる。 COL 1244.5
主は、わたしたちを愛しておられるから、わたしたちは、罪も悲しみもともに主の足もとにおけばよい。イエスのお顔のどの表情もまたどの言葉も、すべて主に対する信頼を起こさせる。主はみ心のままにわたしたちの品性をお造りになる。単純な信頼のうちに自分を全く主にゆだねる魂に対しては、サタンがどんなに全勢力をあげて来ても、とうてい勝利することはできない。「弱った者には力を与え、勢いのない者に は強さを増し加えられる」(イザヤ40:29)。 COL 1244.6
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」「ただあなたは自分の罪を認め、あなたの神、主にそむい」たことを言いあらわせと、主は言われる。「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める」(Ⅰヨハネ1:9、エレミヤ3:13、エゼキエル36:25)。 COL 1245.1
しかし、わたしたちが罪を赦され、平和を与えられるためには自分を知らなければならない。つまり、わたしたちを悔い改めに至らせる知識がなければならない。パリサイ人には、罪の自覚がなかった。聖霊は、彼を動かすことができなかった。パリサイ人の魂は、自分の義というよろいをまとっていたので、天使の手が放つ鋭い矢も、それをさし通すことができなかった。キリストは、罪人であることを自覚した人だけをお救いになれるのである。彼は、「囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ」るために来られたのである(ルカ4:18)。しかし、「健康な人には医者はいらない」(ルカ5:31)。わたしたちは、自分たちの真の状態を知らなければならない。そうでなければ、キリストの助けが必要なことを感じないことであろう。わたしたちは、自分たちの危険について知らなければならない。そうでなければ、避難所にのがれることもないことであろう。わたしたちは自分たちの傷の痛みを感じなければならない。そうでないと、いやしを求めないことであろう。 COL 1245.2
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」と神は言われる(黙示録3:17、18)。火で精練された金といわれているのは、愛によって働く信仰である。これだけが、わたしたちを神と調和させるものである。わたしたちが、どんなに活動して、どんなに多くの仕事をしても、愛がなく、キリストの心に宿っていたような愛がないならば、天国の一員となることはできないのである。 COL 1245.3
人間は、自分で、自分の過ちをさとることはできない。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」(エレミヤ17:9)。わたしたちは心に思ってもいないことなのに、いかにも心が貧しいかのように表現してみることができる。また、心の貧しさを神に訴えながら、自分がどんなに謙遜で義に富んでいるかを誇ることができる。本当に自分を知る方法は、ただ1つしかない。それは、キリストをながめることである。人々が自分の義を誇るのは、キリストを知らないからである。神がどんなに清く、尊い方であるかを瞑想することによって初めて、わたしたちは、自分がどんなに弱く貧しく、またどんな欠点があるかを、そのまま見るようになる。わたしたちも、他のすべての罪人と同様に、自分の義の衣をまとって、堕落と絶望の中に沈んでいることを悟る。もし、わたしたちが救われたとするならば、わたしたち自身の善行によるのではなくて、全く神の無限の恵みによるものであることを知ることであろう。 COL 1245.4
取税人の祈りが聞かれたのは、彼が手を伸ばして全能の神にしっかりとすがる信頼を示したからである。取税人にとって自分というものは、恥辱以外の何ものでもなかった。すべて神を求める者は、これと同じでなければならない。哀れな嘆願者はすべての自己過信を否定する信仰によって、無限の能力を自分のものとしなければならない。 COL 1245.5
外見上どんなにりっぱに律法を守ってみても、それは単純な信仰と全的自己否定の代わりにはならない。しかし、人間は、自分で自分をむなしくすることはできない。ただキリストが働いてくださることに同意することができるに過ぎない。そうすれば魂は次 のように言うようになろう。わたしは弱いのです。そして少しもキリストに似ていません。このようなわたしですが、どうぞお救いください。主よ、わたしの心をお受けください。わたしはこれをささげることはできません。これは、あなたのものです。どうぞ清く保ってください。これを、わたしが保っていることはできません。どうぞ、わたしを練り、形造り、清い聖なる雰囲気の中に引き上げて、あなたの豊かな愛の流れが、わたしを通って流れ出るようにしてください。 COL 1245.6
この自己否定は、クリスチャン生活の出発において行うばかりでなくて、天に向かって前進するごとに、新たにしなければならないものである。わたしたちの行う善行は、すべて、わたしたちの外からの力によるものである。であるから、常に励んで神を仰ぎ、絶えず、心をくだいて罪を告白し、神のみ前に心を低くする必要がある。わたしたちは、絶えず自己を捨て、キリストに頼ることによってのみ、安全に歩くことができる。 COL 1246.1
わたしたちが、イエスに近づき、主の品性の純潔さを明らかに認めれば認めるほど、罪がどれほどはなはだしく恐ろしいものであるかを悟り、自己を称揚する気持ちにはなれなくなる。清い者として神に認められるほどの人は、自分の善良さを誇ったりはしない。使徒ペテロは、キリストの忠実な僕となって、天からの光と力を受ける大いなる光栄に浴した。彼は、キリストの教会の建設に活動的な役割を果たした。しかし、ペテロは、あの不名誉な恐るべき経験を忘れることができなかった。ペテロの罪は赦された。しかし、ペテロは自分をつまずかせた品性の弱さに対しては、キリストの恵みによらなければ救われないことを知った。彼は、自分には、何1つ誇り得るものがないことを認めた。 COL 1246.2
使徒にしても、預言者にしても、自分には罪がないと主張した者は1人もいない。神に最も近く生活した人、知りつつ罪を犯すよりは、むしろ生命を犠牲にした人、また、神からの特別の光と力とを与えられた人は、みな、自分たちの性質の罪深いことを告白している。彼らは、肉に信頼をおかず、自分たちの義を誇らず、キリストの義に絶対の信頼をおいた。キリストをながめる者もみな、そうなるのである。 COL 1246.3
クリスチャンの経験が進むにつれて、悔い改めも深まっていく。「その時あなたがたは自身の悪しきおこないと、良からぬわざとを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、みずから恨む」と主が言っておられるのは、主がお赦しになった人々、すなわち主がご自分の民としてお認めになった人々に対してである(エゼキエル36:31)。「わたしはあなたと契約を立て、あなたはわたしが主であることを知るようになる。こうしてすべてあなたの行ったことにつき、わたしがあなたをゆるす時、あなたはそれを思い出して恥じ、その恥のゆえに重ねて口を開くことがないと、主なる神は言われる」とおおせになる(エゼキエル16:62、63)。その時、わたしたちは、口を開いて、自己をほめない。わたしたちのこうした力は、ただキリストによって与えられることを悟る。そして使徒パウロの告白をわたしたちの告白とするようになる。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている」(ローマ7:18)。「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」(ガラテヤ6:14)。 COL 1246.4
この経験に調和して、次の命令が与えられている。「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:12、13)。神は約束を実行しないのではなかろうか、または忍耐と同情に欠けているのではなかろうかと、心配せよとは言っておられない。それよりもあなたは、自分の意志をキリストの意志に従わせているかどうか、また、あなたの先天的および後天的性質が、自分の生活を支配していないかどうかをよく考えなければならない。 COL 1246.5
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起さ せ、かつ実現に至らせるのは神で」ある。偉大な働き人であられる主とあなたの魂との間に自己をさしはさんでいないか、また、神があなたによって完成しようと望んでおられる大目的を利己的な意志によって、さまたげてはいないかを注意すべきである。わたしたちは自己の力にたより、キリストのみ手を離して、主のお導きを仰がずに人生の旅路を歩こうとすることのないように気をつけなければならない。 COL 1246.6
誇りとうぬぼれを助長するものは、ことごとく避けなければならない。であるから、お互いにへつらったり、ほめそやしたりすることがないように注意すべきである。へつらうことは、サタンのすることである。サタンは責め訴えることと同様にへつらうこともする。こうして、魂を滅ぼそうとしている。だから、人を称賛する者は、サタンに使われている手下である。キリストのために働く者は、自分をほめる言葉を避けなければならない。自己を見えないところにしまおう。ただキリストのみを称賛すべきである。「わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し」てくださったお方にすべての目が向けられ、すべての人の賛美の声がささげられなければならない(黙示録1:5)。 COL 1247.1
主を恐れる者の生活は、悲しい、いんうつな生活ではない。キリストのない生活こそ、顔つきを憂うつにし、人生を嘆きと悲しみに満ちた生涯とするのである。うぬぼれと自己主義にみちている者は、キリストとの生きた個人的交わりを持つ必要を感じない。まだ岩なるキリストの上に落ちていない心は自分の完全さを誇る。人々は、威厳の保てる宗教を欲する。彼らは、自分たちのさまざまな性質を持ったまま、ゆうゆうと歩ける広い道を望む。彼らの利己的で人々にもてはやされ、ほめられることを好む気持ちが、救い主を心からしめ出すことになり、キリストのないところは、いんうつと悲哀の場所となってしまう。キリストが魂の中に住んでくださるならば、それは喜びの泉となる。神を受け入れる者はすべて、神の言葉の主題が喜びであることを悟るのである。 COL 1247.2
「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす』」(イザヤ57:15)。 COL 1247.3
モーセが神の栄光を見たのは、彼が岩の裂け目に隠れた時であった。わたしたちも裂かれた岩なるキリストの中にかくれる時に、キリストはご自分の裂かれたみ手をもって、わたしたちをおおってくださるのである。そして、わたしたちは、主がその僕たちに言われることを聞くことができるのである。神は、モーセにあらわされたと同じように、わたしたちにも、「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」としてご自分をあらわしてくださることであろう(出エジプト34:6、7)。 COL 1247.4
贖罪の働きには、とうてい人間の考え及ばない重要さが含まれている。「『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである」(Ⅰコリント2:9)。罪人がキリストの力に引きつけられて、高く掲げられた十字架のそばにいき、そこにひれ伏す時に、新しい創造が行われるのである。彼は、キリスト・イエスにあって新しく造られた者となる。聖なる神もこれ以上何もお求めにならない。神ご自身が「イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3:26)。そして、「義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ8:30)。罪のゆえに受けた恥辱と堕落は、たしかに大きなものであったが、贖罪の愛による光栄とほまれとは、更に大きいのである。神のみかたちに一致しようと努力する人類には、豊かな天の宝とすぐれた力が与えられて、堕落したことのない天使たちよりもさらに高い地位におかれることになるのである。 COL 1247.5
「イスラエルのあがない主、 COL 1247.6
イスラエルの聖者なる主は、 COL 1247.7
人に侮られる者、民に忌みきらわれる者…… COL 1247.8
『もろもろの王は見て、立ちあがり、 COL 1247.9
もろもろの君は立って、拝する。 COL 1247.10
これは真実なる主、イスラエルの聖者が、 COL 1248.1
あなたを選ばれたゆえである』。」 COL 1248.2
(イザヤ49:7) COL 1248.3
「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(ルカ18:14) COL 1248.4